第五章

「これで全部ですね？」
「はい」
　翌週、私は思い切って引越しをした。
「どないしたん？　いきなり引越しって」
　昨日学校で話したら、今朝早くから陽子が手伝いに来てくれた。
　赤いエプロンに日本手ぬぐいを頭に巻きつけた姿が、妙におかしくて私は久しぶりに笑った。
（大阪のおかんみたい）
「このシルクのような髪が埃で汚れたらあかんやろ」
　陽子はクルリと廻ってポーズをとると、一緒になって大声で笑った。
「シュウにも手伝ってもらったらええのに」
「いいの」
　シュウの事を好きだと言いながら、迷っていた自分･･････
　犯されたのに、正貴とのセックスに溺れ、しかもいつしか心を通わせていた自分。
　正貴と別れたからと言って、すぐにシュウのところに行くのは、少し気がひけた。
　引越しは、心の整理をつけようと決心した事だし、正貴が知らない場所で新しい自分を築いて行きたかった。

「ええ部屋やん」
　新しい部屋に入ると、陽子は扉という扉を開けて一人でうなずきながら感動していた。
　ワンフロアの広いリビング兼キッチンは、コーナーを上手に使った対面式で、日差しが白壁に反射して明るく清潔な感じだった。
「ごめ〜ん、遅くなって」
　美穂が抱えきれない程の袋をぶらさげてやって来た。
「バイトがなかなか終わらなくてさ」
「おそいわ、ほんまに･･････さぼってたんとちゃう？　もうかたついてしもうたわ」
　陽子の尖った口がおかしかった。
「まあまあ、そない怒らんと、ちゃんとお詫びに食料買い込んで来たから許して〜な」
　美穂が甘ったるい声で、陽子の関西弁を真似すると、三人で顔を見合わせて大笑いした。
（穏やかな時間）
　考えてみれば私はいつもビクビクしていた。
　正貴からの誘いに応じながら、どこかでシュウにバレないかと不安でいっぱいだった。
　作り笑いばかりで、心の底から笑ったなんて久しぶり。
「今日は飲むで！　」
「はいはい。準備いたします」
　美穂がキッチンで料理を始めると、かたつけをしている私達にも美味しそうな匂いがして
「あぁぁぁ･･････もうあかん。後は理子がゆっくりとかたつけ〜な」
　そう言うと、美穂が買って来た袋からビールを取り出して一口飲みながら、料理をつまみ食いして美穂に叱られていた。
　三人は夜遅くまで話し込み、ふと私が目覚めた時はもう太陽が真上近くにあった。

『よく眠ってるんで起こさずに帰ります。久しぶりに楽しかったね。今日は二人ともバイトあるんでまた月曜日に学校で！　』
　きれいに片つけられたテーブルの上に一枚の手紙が置いてあった。
　その手紙の隅っこに、陽子が書いた文字で
　今度はシュウと二人でどうぞ！　とあった。
（まったく陽子らしい）
　起き上がろうとしたら頭が割れる程痛かった。
　飲み過ぎたかな？
　もう一度横になって目を閉じると、いつの間にか夜になっていた。
「もしもし理子？　昨日はご苦労様でした。ちゃんと起きれたかなって心配で電話したんやけど」
　陽子からの電話で目が覚めた。
「うん。手伝ってくれてありがとう。飲み過ぎて今まで寝ちゃったみたい」
「おいおい、寝すぎやで！　」
　うふふ･･････
「いやな、夕べ理子、犯されるとか･･････エッチの快楽を好きと勘違いしちゃいけないとか･･････訳わからん事言うとったから」
「えっ？　嘘･･････」
「何かあったんか？　」
「アハハ、何も無いわよ」
「シュウとはどないなってんねん」
「相変わらずよ。彼はサッカーが一番で、私は二番かな？　」
「ウチと一緒や。お互いにストレス溜まるけど、シュウには私からよう言うたるわ」
「アハハ、平気よ」
　陽子の電話を切った後、自分が酔って何をしゃべったのか不安になった。
（体が重い）
　これまでの心労が一気に出たのだろうか、食欲も無ければ、ベッドから起き上がる気力すらない。
　正貴との関係が終わってから、ピルを飲むのを止めた副作用が、私の体を重くしているのかと思った。
（とにかく良く眠れる）
　ふと何も食べてない事に気づき、引越しの後の残り物に口をつけたが、すぐに吐いてしまった。

（死んじゃうのかな？　）

　月曜日の朝、学校に行こうとシャワーを浴びてはみたが、またヨロヨロとバスタオルを巻きつけたままベッドに倒れこんでしまった。

　･･････ピンポ〜ン･･････

　誰かが来たらしい。
　あわてて起き上がり脱ぎ捨ててあったワンピースを裸の上から着て出て行った。
「はい、どちら様ですか？　」
「シュウだよ」
　扉を開けるとシュウの笑顔があった。
「ゲ！何だよその顔」
　玄関横の鏡で自分の顔を映してみたら、悲惨な顔をしていた。
　あわてて洗面所に行き、ブラシで髪の毛だけ整えると、シュウは部屋の中を片つけ始めていた。
「汚ねえなぁ･･････」
　今朝やっとシャワーを浴びるまで、三日もお風呂に入っていなかった。
　布団の中でガサゴソと着換えた下着が、ベッドの脇に無造作に置いてあった事など、まったく気がつかなかった。
「これ」
　シュウは汚れたショーツとブラをつまむと、私の顔を見て笑ったが、どう応えたらいいのかわからず、ただ笑い返すのが精一杯だった。
「私がやるから」
「よっぽど具合が悪かったんだな？　」
　シュウはまるで家政婦のように動き、あっと言う間にかたつけると、洗濯機のスイッチを押した。
「飯食ってんの？　」
「ううん･･････」
　私が首を横に振ると、買って来たスーパーの袋からガサゴソと何かを取り出し料理を作り始めた。
「ホントに具合が悪かったんだね」
「嘘だと思ったの？　」
「まさか汚れたパンツまで放ってあるとは思わなかったよ」
「ゴメンなさい。幻滅したでしょ」
「あはは･･････気にすんな」
「だって、気になるわよ」
「汚れたパンツ見たからって、嫌いにはならないよ」
　シュウの背中が優しかった。
「ほら出来た！　具合悪い時、いつもお袋が作ってくれたのを真似したんだけど」
　そう言うと一口だけ味見して
「おぉ〜！こりゃ傑作だぁ！　」
　シュウが嬉しそうに笑った顔を見たら、私も一緒になって笑ってしまった。
「ア〜ンしてごらん！　」
　レンゲに乗せたオジヤを、フ〜フ〜しながら私の口に運んで
「どうだ？　うまいだろ？　」
「フフ･･････そんな顔して言われたら、おいしいとしか答えられないじゃない」
「え？　まずかった？　」
「ううん。とっても美味しい」
　久しぶりにまともな食事をしたような気がして、気持ちが落ち着いた。
「元気になった？　」
「うん。食べたら落ち着いた」
「悪かったな。陽子に叱られちゃったよ」
「フフ･･････」
「サッカーは体調崩さないけど、人間は崩すんやで！　理子、調子悪いみたいやから、すぐに行ってあげなあかんで！　だってさ」
「陽子らしい」
「すごい剣幕だったから、横でキャプテンもあわてちゃってさ、俺と一緒に部活さぼって陽子のとこにすっ飛んでったよ」
「アハハ･･････」
　いつの間にか私はシュウの胸に抱かれていた。
「俺の事、嫌いになった？　」
「ううん」
「こんなオシャレなとこに引っ越したことだし、俺も一緒に越して来ちゃおうかな」
「何のために？　」
「もちろん、理子を一人にしないため」
「うそばっかり」
　シュウは私をしっかりと抱きしめると、私の目を見てニッコリと笑い、そして黙って優しく唇を合わせた。
（本当に好きな人とのキス）
　心がドキドキしていた。
　私の着ている白いワンピースを脱がして、シュウと私が重なり合った時、私の中での本当のロストバージンの時間が流れて行くようだった。
　好きな人に抱かれるって、こんなに素直で優しい気持ちになれるものかと、シュウの背中をしっかりと抱きながら、永遠にこうしていたいと感じていた。

ＥＮＤ