（２）

　礼子は、澪の運転する車の助手席で考え事をしていた。
　甲斐が行った言葉が気になっていたのだ。

（１人では生きられない・・・・・）

　澪が、礼子を気にして声を掛ける。
「礼子さん、あまり憶測は良くないわよ。」
「・・・ええ、・・・・でも・・・」
　澪は、一瞬の気晴らしでもいいから礼子の気持ちを鎮めたかった。
「ねぇ、礼子さん、美紀さんの店に飲みに行かない？」
「え・・・・でも・・・・」
「いいじゃない。それに美紀さんも、まだ康平さんの事知らないんでしょ。」
「・・ええ・・・・・そうね。・・・・・・・じゃ、行こうか。」
　澪は、礼子の言葉に頷くと美紀が営む「雅」に向かった。
　美紀も、元、康平の部下で、今は、昔からの夢だった
　小料理屋を経営しながら、こじんまりとした生活を送っていた。

　澪は礼子と雅の暖簾をくぐった。
　雅は檜造りの現代風な店内であり喋り上手で美人の美紀を目当てに来る客も少なくなかった。
　しかし、今日は、まだ時間も早いせいか客はいない。

　店のカウンターの一番右側には、シルバータンブラーの上に大き目のグラスが置かれ康平の好きだったマーチンミルズのバーボンが２本並んでいる。その椅子の背には札が掛けられ、生涯特等席と書かれてあった。

「いらっしゃいませ。あ、澪さん。あら、礼子さんも。」
「こんばんは。」
「どうしたの、珍しいわねぇー、二人で来るなんて。愛子さんも来てるのよ。いまトイレ入ってるけど。」
　礼子と澪はカウンターに座ると美紀の顔を眺めた。
　深刻そうな表情で自分を見つめる二人に美紀が問い掛けた。
「ど、どうしたの？　私の顔に何かついてる？」
　その時、愛子が、トイレから出てきて礼子と澪に気付く・・・・。
「あら、礼子さん、澪さん、こんばんは。どうしたの？」
　カウンターに座り、飲みかけの冷酒を一口飲むと、いつもと違う二人の様子を見て怪訝そうに尋ねた。
「・・・な、何かあったの・・・」
　澪は、礼子の代わりに美紀と愛子に康平の事を話し始めた。
　みるみる表情が変化していく美紀と澪・・・・

「なんですってぇーーっ！」

　美紀と愛子は同時に声を発して驚いた。
　愛子が、眩暈を覚え椅子から落ちそうになった。
　グラスが床に落ち破片が飛び散る・・・・・・
　美紀は急いでカウンターから飛び出し店の外に出ると提灯の電気を消し暖簾を店内に仕舞った。

　美紀が、礼子と澪に話を詳しく聞き始めた。
　愛子は目を真赤にしながら説明を聞いていた。

「もし・・・・もし・・・康平さんと、もう一度会えるなら・・・・・」
　愛子が独り言のように呟いた。
　美紀が、引き攣っているような笑みを見せながら礼子に話し掛けた。
「礼子さん・・・・恵美子が言ってた様に突き止めることは難しい事ではないわ。」
「・・・・・・」
「ただ、言えるのは、局長が生きているのなら今まででも何らかの形で情報が入ったはずよ。それが無かったのは、局長が自ら望んだのか記憶を失っているため、匿った人間が身を案じて黙っていたのかもね。」
　さすがに元センター員だけあって美紀の的をついた推測は核心に迫っていた。
「・・・・・・」
「いずれにせよ、早い時期に突き止められるはずよ。」
「そうだといいんだけど。」
「亜美ちゃんから連絡は？」
「まだ、ないの。」
　澪は、礼子や皆の精神的な心の動揺を考えて酒を勧めた。
「どちらにしても、まだ情報は入ってこないんだから焦っちゃだめよ。それに、せっかく４人集まってるんだし、少し飲みましょうよ。」
　澪の言葉に３人も同調し美紀はグラスを棚から取り出した。
　４人は軽くグラスを合わせ静かにグラスを口に付ける。

　１時間ほど飲んでいただろうか、ちょうど２０時を過ぎた頃、亜美から礼子の携帯に連絡が入った。
「あ、亜美っ！」
　３人が礼子を注視した。
　礼子は、黙って亜美の説明を聞いている。
「えぇっ！本当なの？」
『うん。東堂本部長から電話頂いてホテルにファックスを送ったから見るようにって。それで、急いでホテルに戻ってファックスを見たら黒田本部長の調べたリストアップ者を全員調べてろって書かれてて。』
「・・・そ、それで？」
『で、４人いたんだけど２人は全く違ってて見たこともないって。それで３人目の人間を調べ始めたんだけど、あまり町の人もその人を知らないって言うのよ。尾山脇っていう全く人気の無い所で窯を持ってて、そこで生活してるらしいんだけど。
　ほとんど町には、顔を見せずに月に１回だけ食糧を買いに下りてくるらしいわ。陶芸家の様だけど可能性はありそうよ。』
「で、そこへ行ったの？」
『ううん、電気もないし危ない所だから止めた方がいいって。だから明日、朝一番で、そこへ行ってみようと思ってるわ。』
「そ、そう。その人の名前は、何て言うの？」
『十王寺　桜厳って言うらしいけど、それも定かじゃないみたい。』
「十王寺・・・」
『それから今日、一日、他も調べたんだけど遠藤所長の言うとおりまず、飲食店から調査したの。つい、さっきなんだけど店の前を掃除していた若い男性に、お父さんの写真を見せたらうちの店によく似た人が、たまに来るって言うのよ。どこに住んでるかはわからないけど、いつもバーボンを２、３杯飲んで帰るらしいわ。』
「・・・・、バーボン？」
　礼子の発した声に隣りで聞いていた３人が緊張感を漂わせた。
　美紀がカウンターの上に置かれたマーチンミルズを見る。
『お父さんが好きなお酒なのよね？』
「・・え、ええ・・・」
『とりあえず今日はホテルに戻るわ。詳しい事は、また明日電話する。』
「ええ、わかった。お疲れさま・・・亜美・・・」

　美紀達が、礼子を急かしながら内容を聞き出す。
　礼子は亜美の報告を３人に話した。
「んー、可能性大ね。しかし黒田さんも、さすがね。たった数日でチェックしてリストアップするなんて。」
　美紀の言葉に礼子も同感だった。
「・・・・みんな、一生懸命になってくれて・・・・本当にありがたいわ。」
　澪と愛子も礼子同様、未だに康平を慕う仲間が沢山いる事を実感した。

　礼子は、亜美の内容を伝えるため修平に電話入れる。
『十王寺桜厳か・・・・・・・・輪島に・・・礼子さん、とりあえずこの男を調べてみるよ。分かり次第、亜美に電話を入れてあげるから亜美の携帯電話の番号を教えてくれないか。』
　礼子は、修平に亜美の携帯番号を教えて電話を切った。

−　翌日　−

　礼子は、美紀の家に泊まっていた。
　会社には、当分の間、休みをとると伝えていた。
　とても仕事が手につかないと思ったからだ。
　二人は、ほぼ同時に目を覚まし布団から起き上がった。

「おはよう、美紀さん。」
「おはよう・・・よく眠れた？」
「・・・え、ええ。」
「・・・・・眠れないよね。」

　礼子は、美紀に借りたパジャマを脱いで着替え始めた。
　美紀も一緒に着替え始める。
　下着だけになった二人が、偶然互いに見合った。
　一瞬、礼子と美紀は昔の事を思い出してしまったようだ。
　苦笑いをする二人・・・・
　美紀が礼子のウェストに目がいく・・・・
「礼子さん、まだ、そのチェーンはめてるんだ。」
「・・・・・ええ、私の全てですもの。」
　礼子も美紀も、とても４０を過ぎた身体には見えなかった。
　二人は、着替え終わると朝食を摂りに一緒にキッチンに向かう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

　礼子と美紀は、朝食を食べ終え居間でコーヒーを啜っていた。
　美紀は、昨日から尋ねたい事を躊躇していたのだが思い切って礼子に聞いてみることにした。
「礼子さん、もし、もしも・・・・局長だったら・・・・」
　礼子は、美紀の顔を見ると、それ以上聞かずまでも答え始める。
「美紀さん、・・・・・・・もう一度・・・・・二人で・・・・・康平と二人で・・・・探し始めるわ・・・」
「・・・・・」

（・・・そう・・・・愛欲の向こう側を・・・・・・）

　美紀は礼子の言わんとする事を即座に理解した。

　他愛も無い話をしているうちに、直ぐに正午が近づく・・・
「礼子さん、お昼にしようか？」
「ええ・・・・そうね。」
　礼子は、美紀の勧めもあり当分、美紀の家に居座る事にしたのだ。
　その時、甲斐から礼子の携帯に電話が入った。
「えぇっ！・・ほ、本当にっ？」
『間違いない。俺も、今その女性に直接確認した。』

　甲斐の電話の内容はこうだった。
　礼子が、グルメ街通りでみた男性は、やはり康平との事だった。
　康平は、預かり物の封書を天華貿易ビルに届けていたらしいのだ。
　その、内容は受注した中国の陶芸会社へ発送する陶皿のサンプル絵とのこと。
　受け取った女性社員に、甲斐が依頼した探偵が康平の写真を見せたところ間違いないと答えたという。
　２年程前あたりから、歳をとって足の悪い陶芸家の替わりに康平が３月に１回程度、天華貿易に足を運んでいるらしいのだ。

「甲斐さん、・・・ありがとう。」
『礼ちゃん、後は専門の亜美ちゃんに任せるよ。でも、見つけたら、俺にも直ぐ連絡をくれ。』
「・・・・うん・・・・絶対にするわ。」
　美紀が礼子を見つめた。
　礼子は甲斐の情報を美紀に伝える・・・・・
　美紀が涙を堪えながら礼子に囁いた。
「・・・・・礼子さん・・・・」
　美紀の良かったねという気持ちが十分に伝わってくる。
　二人は、自然と抱き合っていた。

　礼子は、さっそく修平に電話を入れることにした。
『そうか。やはり生きてたかっ・・・・・これで、内容はわかった。』
「え？なにが・・・・」
『礼子さん、先日、聞いた十王寺桜厳という人だが、大変な人物だ。』
「・・・・・」
『さっき、調べあげたんだが、この人は旧陸軍の将校だったんだ。』
「しょ、将校？」　
『ああ、１９００年から１９４５年の間に、極東で起こった諸事件の全貌を知り過ぎたために国の身を案じ自ら姿を隠したらしいんだ。」
「・・・・・」
「戦後、日本帝国陸海軍の文書類の一部が１９４５年に合衆国に運ばれたんだ。その後、ワシントンの合衆国文書館の管理下に移されると日本やアメリカの研究者によってしばしば研究利用されていたんだが、その全容は全く解明されていないんだよ。それも当然だ、その内容書見をこの十王寺さんが、持っているんだからな。この人は、当時の事を知る生き字引のような人間なんだ。」
「・・・・・・そ・・」
「既に年齢は、８０歳を超えているが、とっくに死んだと思われてる。本名は、十王時厳三郎、桜厳は陶芸家として使っている名前なんだよ。康平を表沙汰にしなかったのは、その時の秘密を十王寺さんが、康平に全て話しているんだろうな。・・ま、仕方がなかったかもしれないが。』
「・・・お、お義兄さん・・・よく、そこまで・・・」
『だてに内閣調査室にはいないよ。ただし礼子さん、この十王時厳三郎が生きている事は誰にも秘密にしておいてくれ。国家機密に等しいからね。』
「・・・・わかりました。」
『とりあえず遠藤君には話しておいたよ。今からすぐに亜美の所へ飛ぶそうだ。俺も、明日、兄貴の帰国と同時に十王寺さんの所に行く。礼子さんも来なさい。』
「はい、わかりました。」

　礼子は、身体が震えていた。
　康平が生きている事はもう間違いない。
　しかし、一抹の不安も拭えなかった。記憶も恐らく喪失しているはずだ。
　礼子は、思考能力が一気に低下していくのを感じた。

　翌日、礼子は、甲斐の運転するワンボックスで美紀、恵美子、そして澪とともに石川県輪島に向かった。
　皆、喋りたい事が喉下まで来ているが、なかなか切り出すものはいなかった。
　甲斐は休憩を入れずに車を走らせたせいか、数時間で石川県に到着した。

　ホテルで恭平らと合流する礼子・・・・
「お義兄さん。」
　恭平が、久しぶりに会う礼子にゆっくりと頷く・・・
「修平から全て聞いた。十王時現三郎が生きてるとはな。彼は危険な人物でもある。しかし、康平の命の恩人だ。」
「・・・ええ、その通りです。」
「礼子さん、私と修平に任せてくれるね。」
「はい。お願いします。」
　そこへ、亜美が遠藤とともに駆けつけてきた。
「あ、お母さん。伯父さんたちも・・・・・・」
「亜美か。久しぶりだ。立派になったな。」
　一緒にいる遠藤が恭平と修平に頭を下げた。
「お久しぶりです。」
「遠藤君、いろいろと済まなかった。東堂君と黒田君にも今朝方、電話で礼を言っておいた。」
　修平の礼に遠藤は即答する。
「いえ、私をここまで育てていただいた方ですから。」
　恭平が集まっている仲間に礼を言った。
「皆さん、康平のためにここまで来ていただいてありがとう。今から、康平がいるところに行きますが、一緒に来ますか。」
　甲斐が答える。
「もちろんですよ。そのために来たんです。」
　美紀たちも首を縦に振った。
「わかりました。・・・修平っ」
　修平は恭平の言葉に頷くと全員に説明を始めた。
「今から会う十王寺厳三郎という者は、国にとっても大変、重要な人物なんです。ここで知り得た内容、秘密は、一切、誰にも口外しない事を約束してください。」
「・・・・」
「それから、康平の記憶を取り戻すために、やむをえず手荒い事をします。どうか覚悟しておいてください。」
　全員は、納得するように頷くと早速、亜美の調べた尾山脇という場所に向かった。