（１１５）

（・・・・どうしたんだろう・・・・この気持ち・・・・）

　沙良は、自分でも判断できないような不思議な感覚だった。
　肩を抱かれ、一馬の胸に顔を埋めている・・・・・
　一馬の鼓動が聞こえる。
　その音が徐々に早くなっていくのがわかった。
「・・・・・沙良・・・」
「・・・ぇ・・・・な、なぁに・・・」
　一馬は、一度大きく深呼吸をした。
「沙良・・・・・俺と一緒になろうじゃないか。」
「・・・え・・・・・・・わ・・・私・・・」
「伊武さんとも会えばいいさ。・・・・・好きな時に。僕は、君を束縛しない。ただ・・・・ただ沙良が、最後には俺の所に戻って来てくれればいいんだ。」
「・・・一馬さん・・・・」
　一馬は、スーツのポケットから煙草を取り出して火を点けた。
　上体を起こし、沙良の髪をかき上げる・・・・
「なんで？・・・・・何でそんな事を・・・・一馬さん・・・」
　一馬は、深く煙を吸い込む、とゆっくりと煙を吐きながら囁いた。
「言ってみれば、俺は君にとって過去の男・・・・・・・しかし・・・・・・しかし、こうして俺と会ってくれている。つまり・・・・・・君は、まだ完全に俺を忘れているわけではない。・・君が伊武さんを好きな事は知っている。・・・だが、俺は思うんだよ。君にとって幸せって何だ・・って。・・・俺は伊武さんが、・・・・伊武さんが・・・本当に君を幸せに出来るか不安なんだ。だが俺は自信がある。」
「・・・・・・・」
「君を幸せにする自信が・・・・」
「・・・・一馬さん・・・・わ・・・私・・・・」
「沙良、俺の感なんだが・・・・・伊武さんは、俺や君の住む世界と違う人間なんじゃないのかな。・・・・・俺には解るんだ、彼が。」
「・・・・・・・」
「あの、人間離れした雰囲気、人を読む力、まるで別世界の人みたいだ。」
　沙良は、一馬の言葉に心臓が締め付けられるような気分に浸った。
「沙良・・・・・・今度は、真剣に考えてみてくれないかな。」
「・・・・・・・」
「何度も言う・・・・・伊武さんと会ってもいい。・・・・だが・・・」
「やめて・・・・やめてぇぇーっ・・・・」
「さ、沙良・・・・」
「・・・解らない。私、今自分が解らないの・・・・・」
「・・・すまない・・・・すまない・・・沙良・・・」
　一馬は、２本目の煙草をパッケージから取り出すと寂しそうに火を点けた・・・・

−　翌日　−

　沙良は、一馬を駅に送っていった。
「沙良、ありがとう・・・・」
「・・・・うん・・・・あの・・・・・一馬さん・・・」
「沙良・・・即答しなくていいよ。俺はいつまでも待つ。それから・・・昨日、一晩考えたんだが・・・・・・」
「・・・なぁに・・・」
「ああ・・・・その・・・・・・・いや・・・・やめておこう。」
「・・・・・・」
「・・・・沙良・・・また、会ってくれるよね。」
「・・・ええ・・・・・・・ええ、もちろんよ。」
　一馬は、満面の笑みを浮かべると沙良の車から降りた。
　ウィンドウを下げる沙良・・・・
　一馬は、更に軽く手を振って、ホームの人ごみの中へ姿を消していった。

（・・・・一馬さん・・・・）

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

　剛士から電話を受けた沙良は、空港に車を走らせていた。
　沙良の心の中は、まだ、揺れ動いていた。
　一馬の言葉が耳から離れないのだ。

《伊武さんは、俺や君の住む世界と　違う人間なんじゃないのかな。》

《伊武さんが本当に君を幸せに出来るか不安なんだ。だが俺は自信がある。》

　沙良は、頭を強く振って、一馬が言った言葉を振り払った。
　空港に入り、ロビーに車を走らせる沙良・・・
　剛士は既に立っており、沙良の車を確認すると軽く手をあげた。
　車を横付けにして停車する沙良・・・

「すまんな・・・。」
「お帰り・・・どうだった？」
「ああ、バッチグーだ。・・・晩飯は食ったのか？」
「ぇ・・・ええ。」
「そうか・・・・しょうがない・・じゃ、帰って軽く詰め込むか。」
「ゴメン・・・」
「いいさ・・・酒さへあれば満足だし・・・」
　沙良は、剛士に謝って車を走らせた。
　道中、沙良は何を話したらいいか解らず心を煮やしていた。
　剛士は、沙良の雰囲気を読み取り敢えて無言を保つ。
　しかし、沙良は、そんな剛士の態度に焦りを感じ始めた・・・・・・
（・・・何か、喋らなきゃ・・・・・・）
　沙良は、そう考えていくほど言葉が見つからなくなる。
　剛士は、疲れているのか話し掛けてこない・・・・
　横目で剛士を見る沙良・・・・
　しかし、剛士は澄んだ目で前方を直視していた。
（！・・・・・つ・・・剛士・・・・）
　沙良は、一層不安に包まれた。

「ぁ・・・あの・・・剛士・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「つ・・・・・剛・・・・士・・・・・・・」
　剛士は、前方を見たまま煙草を咥え火を点けた。
　これ以上無い、落ち着いた声と優しい口調で言葉を発する。
「沙良、喋らなくていい。・・・・何があったか知らないが考えている事をまとめないで喋っても自分が辛いだけだ。」
「！・・・・・・」
　見抜かれていた。
　沙良は、瞬時にそう思った。
　その瞬間、またしても一馬の言葉が頭を過ぎっていく。

《・・・人間離れした雰囲気、人を読む力、まるで別世界の人みたいだ。》

　よくよく考えれば、沙良自信もそれは解っていた。
　５年以上、剛士と一緒に生活をし色々な状況で時折見せる剛士の力を・・・
　沙良は、そんな剛士の持つ卓越した技術と考えていた。
　だが、しかし・・・・・今は脅威さえ感じる。
　沙良は、自分の意志とは全く関係なく辺鄙な質問を剛士にした。
「・・・剛士・・・・・・今夜、私を抱く？」
　剛士は、ごく普通の感じで応えた。
「何故・・・・・・何故そうしたい？」
「・・・・・・私・・・・・その・・・・・」
「・・・・・・・・いや・・・・今夜は、やめておこう。」
　剛士は、相変わらず表情を崩さず、至ってクールに言葉を吐く。
「・・・・・私も・・・・今夜は、抱かれる自信が無い・・・ゎ・・・」
　沙良の心臓が高鳴り始めた。
（・・・なんで・・・なんで、こんな事を聞いたんだろう・・・・）
　沙良は自分の気持ちが理解できないほどになっていた。
（・・・・・・・私って・・・馬鹿だわ。）
　沙良は、全身の力が失っていくのを感じた。
　車のスピードを上げる沙良・・・・
　湾岸道路を照らす車のライトが、一段と眩しく見えた・・・・

（１１６）

−　１ヵ月後　−

　剛士と沙良は、まるで何事もなかったように元の生活に戻っていた。
　依頼された数件の仕事もほとんど終え、残りの簡単な仕事は豪に任せた。

　剛士は、久しぶりに読書をしながら寛いでいた。
　沙良が、部屋から降りてキッチンでコーヒーを飲む剛士に声を掛ける。
「剛士、今日、一日お買い物行ってくるわね。」
「また、何か買うのか？」
「新しい下着買ってくるわ。・・・・剛士の好きそうな下着を・・・フフッ・・」
「ったっく・・・結局脱がすんだからいいじゃねぇーか。」
「お馬鹿ね。・・・その前の雰囲気でエッチの度合いが違うのよ。」
　沙良は、そう言って出かける支度をしている。
　剛士は、横目で沙良を見ながら苦笑いを浮かべた。
「沙良、デュベルを１ダース買ってきてくれ。」
「ベルギービールね。わかったわ。」
　沙良は、そう言って買い物に出かけていった。
　
　しばらくして、１本の電話が掛かってきた。李だ・・・
『伊武か？・・私だ。』
「よう・・・・どうした。」
『右京の情報が入った。』
「なに？・・・・・それで・・・」
『やはり、北に居る・・・場所はまだ特定できないがな。』
「そうか・・・・時間は掛かるのか？」
『んむ・・・・慎重にやりたいと思ってる。』
「ああ・・・今度逃がすと、もう駄目だろう。」
『私の部下の情報によると、あと少しの資金で計画が実行されるそうだ。』
「・・・・・・・」
『ま、伊武よ・・・・今は、情報待ちと思ってくれ。』
「・・・・わかった。・・・・よろしく頼む。」
　剛士は、そう言って電話を切った。
　読んでいた本をテーブルに置く剛士・・・・・
（フゥゥゥー・・・・）
　軽く目を瞑る剛士・・・・・・
　急激に睡魔が襲ってくる。
　剛士は、テーブルに足を乗せてリラックスしていく。
　そして、自然と眠りについていった・・・

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「剛士・・・剛士っ・・・・・」
　沙良の声で目を覚ます剛士・・・・
「ん？・・・・ぁ・・・・寝ちまったか・・・・」
「もぉう・・・こんな所で・・・・あ、お客さんよ。」
「客？」
「ええ。応接室に通しておいたわ。」
「そうか・・・わかった。」
　剛士は、冷水を１杯飲むとアクビをしながら応接室に足を運んだ。

　応接室には、一人の老紳士が待っていた。
「突然邪魔致しまして申し訳ございません。」
　剛士が現れると老紳士は、立ち上がって名刺を差し出しながら挨拶をする。
「どうも・・・・伊武です。」
　名刺を見る剛士・・・
　この老紳士は、本州電力の会長、西郷竜太郎であった。
「どうぞ、お座りください。」
「はい・・・」
「で、ご依頼とは？」
　西郷は、信妙な面持ちで剛士に説明を始めた。

　西郷は、拉致監禁されている孫娘の博美を隠密に保護してほしいという話を聞かせた。
　５日前、西郷の孫娘が友人と旅行に出かけた先で、韓国の不正規部隊の数人が、西郷博美を拉致し１００億円という多額の金を要求してきたのだ。
　博美と一緒に拉致された友人の一人が、惨殺された写真も同封されていた。
　犯人いわく、金を払わなければ孫娘も躊躇せず殺すという事らしい。
　剛士は、韓国と聞いて不吉な予感が頭を過ぎった。

（・・・・まさか・・・・・右京・・・・）

　沙良が、応接室に入ってきた。
　西郷に熱いコーヒーを差し出す。
「すみません。」
　西郷は、沙良に礼を言ってカップを手にした。

「西郷さん、誘拐ならば警察に相談したほうが・・・」
「そんな事をすれば確実に殺されてしまいますっ！」
　西郷は、怒鳴るように言い放った。
「・・・・・・・」
　西郷は、頭を下げながら話を続けた。
「ましてや軍事機関の専門に頼む事など出来るはずも・・・・・・。」
「・・・・しかし、西郷さん、何故、私に？」
「実は・・・・・伊武さん、統幕の佐々木君から話を聞いてきたんです。」
　剛士の顔が険しくなった。
「・・・佐々木さんから？」
　佐々木とは、統合幕僚会議の幹部で特殊任務を担当する男だ。
　剛士が、日本に帰国したときにレンジャー隊の指揮を依頼してきた男でもある。
「ええ、単独で、それをやる、いや、やれる男は、貴方しかいないと聞いてきました。」
（・・・・チッ・・・佐々木さんも、余計な事を・・・）

　警察に連絡しても同様の処置をするという犯人の要求に西郷は悩んだ挙句に佐々木に相談したのだが、軍部を動かす事はできないという理由から剛士を紹介されたらしい。
　佐々木は、この連中の詳細を調べ、とても行動を起こす事は出来ないと判断したようだ。
　剛士は、大きく深呼吸をしながら西郷に語った。
「西郷さん、大変失礼な事を言わせて頂きますが、西郷さんほどの方なら１００億を用意するのは、可能なのではないでしょうか　ただ増長してその後も相手側が金銭要求を繰り返す恐れはあるかもしれませんが。」
「ええ・・・それもあります。金を払う事は問題ないんです。しかし、今度は違う手で、とんでもない要求をされることも。」
「有り得ますね。・・・・・で、つまり・・・完全に奴等を抹殺しろと？」
　西郷は険しい顔で剛士を見た。
「・・・・・はっきり言わせて貰えば・・・・そういうことです。これは、佐々木さんが調べてくれた資料です。見ていただけますか？」
　剛士は、資料を受け取ると目を通し始めた。
　無言でページを捲っていく。
　剛士は、一通り読み終えると西郷に口を開いた。
「西郷さん、これは、非常に難しい依頼ですね。私のような探偵に頼むよりプロに頼んだ方が。」
　西郷は、首を振りながら返答した。
「佐々木君から伊武さんの噂は聞いてきました。２２ＳＡＳで対テロ分隊を率いて数々の経歴を挙げているそうじゃありませんか。伝説になっているそうですね。」
「昔の事です。それに、資料を見させていただきましたが、今回の韓国の不正規部隊の中には、北朝鮮出身の第８軍団の連中も居ますね。奴らは世界一流の暗殺部隊なんですよ。退役したとはいえ半端じゃないんです。」
「第８軍団？」
「北朝鮮第８特殊軍団と言うんですが、凄い奴らです。奴らの中には、人民軍レンジャー部隊、つまり北朝鮮特殊部隊出身の人間もいます。」
「そんなに凄いのですか？」
「韓国に侵入し、銃撃戦となった際にヘリからラペリング降下する韓国の兵士たちをスコープなしで数１００メートル先から狙撃し撃ち落したという恐るべき部隊です。」
「・・・・・」
「それだけではありません。武術、戦闘術、武器製造、全てに徹底訓練を受けた猛者です。私一人では・・。」
　西郷は、項垂れながら、か細い声で剛士に祈願する。
「伊武さん、どうか・・どうか、孫を・・・博美を・・・・・」
「伊武さん、頭を上げてください。やりたくないと言っているのではないんですよ。出来ないと言ってるんです。相手は不正規部隊ですが、一国の特殊部隊と同様の実力です。私一人で対処できる相手ではないんですよ。下手をすればお孫さんの命も。それに、私には、当時の実力を持ち合わせていません。申し訳ないですが。」
「伊武さん・・・引き受けていただければ・・・成功報酬として・・・１０億円を準備します。」
「西郷さん、お金の問題ではないのです。」
「・・・・・・」
「先程も説明しましたが、相手は凄い奴らです。」
「そ・・・そこを・・・・・」
「西郷さん、それほどのお金を払う事が可能なら、他に引き受ける方も居るんじゃないでしょうか？」
「し、しかし・・・・それを出来る実力があるかどうか・・・」
　剛士は、溜息をつきながら追説した。
「・・・・西郷さん、では、なぜ私がそれを出来ると判断したんですか？　私と貴方とは初対面です。それに佐々木さんから話を聞いたといっても佐々木さん自身が、私の詳細を知っているわけではないんですよ。」
　西郷は、剛士の強い口調に身を小さくしながら頭を抱え込んだ。
　小さな西郷の背中が震えている。

　剛士は、西郷を見たまま腕を組んでいる。
　右京の事もあり長期戦になると機を逸しやすいことも頭に浮かんだ。
　しかし、しかし、何かが心の中で、蠢き始めているのを剛士は感じ始めていた。