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（７６）
達也が、久しぶりに仙次郎のマンションを訪れてきた。
「おう、達也か。忘れた頃に顔を出すな。」
「すいません。本当に忙しくて。」
「‥‥‥まあ、いいさ‥‥‥入れよ。」
「はい、お邪魔します。‥‥‥
「フッ、事業本部長ともなると自分の余暇も取りずらいか。」
「ええ、そうなんですよ。」
「大変なこったな。‥‥‥‥‥‥ところで、何か飲むか。」
「ええ‥‥‥‥頂こうかな。」
「ソファに座って待ってろ。」
仙次郎は、そう言ってキッチンに向かうと冷蔵庫からギネスを２本取り出しリビングに戻った。
二つのグラスにギネスを注ぐ仙次郎‥‥‥‥
軽くグラスを交わすと一気に喉に流し込んだ。
「ふぅぅー、美味い‥‥‥」
「ですね。」
達也が、空になった仙次郎のグラスにギネスを注ぎ足した。
「ところで、今日は、何だ？」
「ええ‥‥‥‥仙次郎さんも忙しいとは思うんですが、実は、僕の部下で、事業部の建設課にいる安西という男性と一柳という女性の事で相談に乗ってほしいんですよ。」
「そりゃ、構わんが‥‥‥‥‥で、どういう内容なんだ？」
「ええ、相談してきたのは、安西武弘という男性の方なんですが、一柳里子という安西の彼女の事なんです。二人は、同じ事業部で仕事をしているんですが、同僚も、二人が付き合ってることは知っており、言ってみれば公然とした付き合いをしているんです。」
「ふむ‥‥‥で？」
「ええ。‥‥‥彼女、つまり、一柳君が、自殺未遂を繰り返しているというんです。」
「自殺？‥‥‥‥おい、おい、どういう意味だ。」
「‥‥私も、心配になって事業部長に問い合わせたんですが、仕事を休むわけでもないし、見た感じは、全く、悩んでる様子もなく、ごく普通に仕事をしていると言ってるんです。」
「ふむ。しかし、自殺未遂を繰り返しているんだろう？」
「ええ‥‥‥安西が言うには、一柳君が頻繁に手首を切っているというんですよ。」
「手首を切っている？」
「はい。最初に気づいたのは‥‥‥‥ま、若い二人ですし、そういう機会というか‥‥‥‥つまり‥‥‥‥その‥‥」
「エッチ中に、その傷でも見たか？」
「ハハ‥‥‥まあ、そういう事です。」
「なるほど‥‥‥‥‥」
「安西も不安になったんでしょう。何度も手首を切る理由を一柳君に聞いたらしいんですが、何も喋らないらしくて。」
「ふーむ‥‥‥‥‥」
「二人は、結婚前提の付き合いなので、当然、互いの親も公認している仲なんですが、実は、一柳君の母親からも安西に直接電話で相談をしたらしいんですよ‥‥‥‥」
「どんな？」
「一柳君は、母親と二人暮らしなんですが、二人が付き合いを始める前までは自宅で、そういう事が数度あったらしいんです。それを心配してるらしくて。」
「ほぉう‥‥‥‥」
「つまり、安西と付き合うようになってからは、家では、手首を切る事がなくなったらしいのですが、母親も、それを安西に隠しておくことは気が引けたんでしょうね。そういう事があった事実を伝えるとともに、手首を切る癖が娘にあるが、今はどういう状態かと尋ねるような形で相談されたと安西は言ってました。その話を聞いて数ヵ月経ってから、母親の言うとおり、また手首を切ることが多くなってきたそうですよ。」
「なるほどな‥‥そりゃ、相談というか正直に話しておきたいだろうな。それに、母親は、安西という男性と付き合うようになって、娘が手首を切らなくなった事に一旦は安心したんだろうが、もしやと思ってだろう。」
「ええ。たまに娘が落ち着きがない時があると、やはり心配になるのか、母親は、安西と娘との仲が悪くなったのではと聞いてくるそうです。」
「でも違うんだろう？」
「ええ、安西も一柳君もそんな事は全然ないと言ってましたし。」
「そうか‥‥‥‥」
仙次郎は、暫し天井を見上げて思考を繰り返した。
「リストカット症候群かな？」
「リストカット？‥‥‥‥‥何ですか、それ‥‥‥」
「手首自傷症候群というんだが、自分を傷つける自傷行為の中でも、特に刃物で手首を切る行為のことを言うんだ。 ６０年代にアメリカで大流行したんだが、それが、世界的に拡がっていったのさ。リストカットに付随する症状としては神経症、摂食障害、薬物依存、引きこもり、性的逸脱、鬱病などがあるんだが、境界例と診断されるケースが多いようだ。自殺にまで至るケースは少ないがな。」
「へぇー‥‥‥‥で、一柳君も‥‥そのリストカット症候群だと？」
「まあ、話を聞いたうえで、判断しないと判らないんだが、それを繰り返しているということならば可能性は高いな。」
「仙次郎さん、明日にでも本人を行かせますので話を聞いてくれますか？」
「ああ、いいぞ。」
「すいません。お願いします。」
仙次郎と達也は、ギネスを一気に飲み干していった。
「それより、仙次郎さん、車の方は調子いいですか？」
「ああ、まあまあだ。ちょいと１５０を過ぎた辺りからの伸びが気になるけど。」
「一度、フルメンテしましょうか？」
「ああ、頼む。‥‥‥‥それより達也、今日はゆっくりしていけるのか？」
「ええ。明日は、暇なんで。」
「そうか‥‥‥‥先日、シャトー‥ぺトリュスが２本手に入ったんだ。飲もうぜ。」
「おぉっ、そうですかぁ。‥‥‥‥そういえば、先月、支社の連合会議で社長連中が集まった時に頼んだんですが、１本、２０万も取られましたよ。」
「高ぇからな、このワインは‥‥‥」
そう言って、ぺトリュスを棚から取り、コルクを抜き始める仙次郎‥‥‥
「達也、ボードからグラスを取れ。」
「はい。」
「ついでに、冷蔵庫にカマンベールとピンクサーモンの燻製があるから、それもな。」
「やったぁ‥‥‥」
達也は、はしゃぎながらキッチンに飛んでいった。
チーズを切り、皿に燻製を乗せてリビングに戻る達也‥‥‥‥
「さて、２本とも空けようぜ。」
「えぇぇーっ、いいんですかぁ。」
「スーパーワインをチビチビ飲んでも美味くなかろうが‥‥‥パァーっといくぞ。」
「は、はい‥‥‥‥」
仙次郎と達也は、ワイングラスに注がれたぺトリュスの香りを楽しむと美味そうに喉に流し込んでいった‥‥‥‥‥‥
☆☆☆☆☆
翌日
仙次郎は、一柳里子の抽出したデータに目を通していた。
（‥‥‥‥母子家庭か‥‥‥‥ふむ、性格的には、大人しそうだな‥‥‥‥）
佳代が、仙次郎のデスクにコーヒーを運んできた。
「お、サンキュー‥‥‥」
佳代は、デスクの前の椅子に座ると疑問を仙次郎に投げかけた。
「先生、手首を切るって‥‥つまり、彼女は、自殺をしたいんですか？」
「まあ、話を聞かないと判らないんだが、ほとんどが躊躇い傷だ。単に、彼女の場合は、自傷行為と考えた方がいいかもしれんな。」
「躊躇い傷？‥‥‥‥自傷行為ですか‥‥‥」
「んむ。類似の自傷行為としては、分裂病の末期症状によるものなどがあるんだが、これは、幻覚や妄想によって引き起こされるものがほとんどで、自傷内容としては非常に凄惨で残酷なものが多く見られるんだよ。リストカットは、主に１０代から２０代の若者に多く見られ、中でも、特に未婚の女性に多く見られることが多いな。傷の殆んどは、手首の内側で、２、３回試みた傷が多いんだが死ぬ気はないんだ。」
「そうなんですか‥‥‥‥」
「手首の他には、腕、足、顔、腹部などを切ることもあるけどな。リストカットは、繰り返されることが多くて、習慣化する傾向があるようなんだが、その割りには自殺にまで至るケースは少ないんだ。そして、人前で実行するケースも少なくて大体の場合、自宅の部屋とかトイレなどの個室で、一人で実行する事が多いのさ。」
「へぇー‥‥‥私の場合、個室だとオナっちゃ‥‥‥‥‥‥ぁ‥‥‥‥」
慌てて口を塞ぐ佳代‥‥‥‥
「君は、幸せだねぇ‥‥‥」
仙次郎の呆れたような言葉に、佳代は、体裁悪そうに席を離れていった。
（‥‥‥‥‥‥佳代君の場合、自殺とは無縁だな‥‥‥‥‥ククッ‥‥‥）
仙次郎は、佳代の後姿を追いながら精神療法の専門書を手に取った。
それから１時間後、一柳里子が、仙次郎の部屋を訪れてきた。
「先生、一柳さんが、お出でになりました。」
「わかった、いま行く‥‥‥」
仙次郎は、ファイルを片手に応対室に入っていった。
一柳里子は、伏し目がちに仙次郎を見つめた。
「は‥‥始めまして‥‥‥‥‥今日は、よろしくお願いします。」
「一柳さん、そう緊張なさらずにリラックスしてください。」
「‥‥‥はい。」
仙次郎は、一柳の手首を見た。
両方の手首に、包帯が巻かれている。
仙次郎は、まず、傷を見せてもらうおうと考えた。
「一柳さん、よろしければ、その手首の傷を見せていただけませんか？」
「ぇ‥‥‥‥‥は‥‥‥はい‥‥‥‥‥」
多少、躊躇したものの、一柳は、包帯を解き始めた。
手首には、数箇所の切り傷が残っていた。
しかし、一目見ただけで浅い傷と判る。
明らかに、自殺しようと思って切った傷ではない事が判った。
（‥‥‥‥‥‥なるほど‥‥‥‥）
仙次郎は、まず婚約者の安西との関係ではなく、母親との関係を疑い始めた。
なぜならば、リストカット心の原因は、境界例の原因そのものがここにあるからだ。
つまり、分離不安であり、乳幼児期のような母親との一体感を求めるのだが、そういった愛情対象が失われたと思った時に、リストカットという行動化が発生する。
例えば、理解してもらえなかったとか、裏切られたと思ったとか、そういった些細な出来事をきっかけとして手首を切ったりするからである。
「一柳さん、失礼ですが、安西さんとは、本当に結婚するつもりはあるんですよね。」
「ぇ‥‥‥‥はい‥‥‥勿論です‥‥‥‥彼を凄く愛していますし。」
「では、貴女のお母さんは、二人が結婚する事に対してどう思われていますか？」
「非常に喜んでいますし、当然、賛成してくれています。」
「なぜ、手首を切るんですかねぇ？」
「よく解らないんです。ただ言えるのは、急激に訳の解らない不安が湧いてきて。」
「不安ですか‥‥‥‥解りました。では、今から色々な事を聞かせていただきますが、正直に本音を話してください。」
「‥‥‥はい‥‥‥わかりました。」
仙次郎は、一柳が、幼い頃からの母親との接し方について詳しく聞き出すことにした。
一柳は、まるで質問される内容が解っているかのようにスムーズに話していく。
（スラスラと話すもんだな‥‥‥‥）
仙次郎は、疑問に思った。
一柳の言葉の中に、母親に対する特別な感情を強く感じたからだ。
１時間ほど話を聞いていたであろうか。
その話を聞いた結果、一柳が、精神的な乳離れが出来ないまま成長し、現在に至っていると診断した。
（‥‥‥‥なるほど‥‥‥母親の愛情をあまり感じずに育ったようだな‥‥‥）
「一柳さん、お母さんは、最初、貴女が手首を切ったのを見て、かなり驚いたでしょうね。」
「ぇ‥‥‥ええ‥‥‥‥」
「失礼な事を聞きますが、貴女は、お母さんが驚き、そして、心配した様子を見て安堵したのでは？」
「‥‥‥‥‥え‥‥‥ぁ‥‥‥‥あの‥‥‥‥」
「まあ、いいでしょう。‥‥それで、お母さんは、その時どうしました？」
「‥‥‥あの‥‥‥‥慌てて救急車を‥‥‥‥‥」
「ふむ‥‥‥貴女は、病院に行ったんですね。」
「はい。」
「しかし、傷は、さほど大した事無く、その日のうちに家に帰された？」
「ぇ‥‥‥ええ‥‥‥そうです‥‥‥」
「何度も、家でそういう事を？」
「ぇ‥‥‥ええ‥‥‥‥‥‥‥数回‥‥‥‥」
「‥‥‥他の場所でもあるんですか。」
「‥‥‥‥‥あの‥‥‥‥会社のトイレとか‥‥‥彼の部屋で‥‥‥」
（‥‥‥‥‥んーっ‥‥‥‥彼氏の方にも何らかの不安を抱いてるのかな‥‥）
「一柳さん、どういう場面で、或いは、どういう状態の時に、そういう事を？」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥よく‥‥‥‥よく、わかりません‥‥‥」
「そうですか。‥‥‥‥今まで何回くらい手首を切ったのですか？」
「‥‥‥‥‥‥ぇ‥‥ええ‥‥‥‥‥‥あの‥‥‥１０回以上は‥‥‥」
「それは、いつ頃くらいからですか？」
「最初は、高校を卒業したくらいなんですけど、最近は、彼と付き合うようになってからです。」
（かなり、前からだな‥‥‥‥）
「何故、切ってしまうんでしょうねぇ？」
「‥‥‥‥‥ゎ‥‥‥‥解りません‥‥‥‥」
仙次郎は思った。恐らく一柳自身は気づいているはずだと。
しかし、仙次郎は、敢えて質問をしなかった。
まだ、本人の口から言わせる段階ではないと判断したからだ。
そして、仙次郎は、母子関係だけではなく、婚約者である安西との関わりにおいても要因があると考えた。
（ふーむ、周囲の人間に対して、強い分離不安が存在してるな。間違いなくリストカット症候群だぜ。‥‥‥‥‥だとすると。）
仙次郎は、安西からも早急に話を聞く必要があると考えた。
「一柳さん、色々と話を聞きましたが、貴女は、リストカット症候群という精神的な病気です。しかし、リストカットも色々なタイプがありましてね。それを直ぐに判断する事は出来ません。まあ、しかし、貴女の自傷行為は必ず治りますので、どうか安心してください。では、今日はこれくらいで。」
「は‥‥はい‥‥‥‥あの‥‥‥‥」
「明日の午後、もう一度来てください。」
「‥‥‥‥わかりました。‥‥‥あの‥‥どうか‥‥‥よろしくお願いします。」
一柳は、仙次郎に頭を下げて部屋を出て行った。
「先生、大丈夫なんですか。必ず治る何て言って。」
佳代が、仙次郎に向かって不安気に話し掛けた。
「いや、、必ず治るよ。それに、彼女は自殺なんてしないさ。彼女は、ある意味、甘えん坊なのさ。そして寂しがり屋だ。」
「寂しがり屋？」
「具体的に言えば、母親や恋人の愛情を疑っているんだよ。不安になるんだろう。」
「でも、まかり間違って‥‥‥‥」
「フッ‥‥‥心配するなって‥‥‥」
仙次郎は、そう言うと、受話器に手を延ばして安西を呼び出すことにした。
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