（１２６）

　仙次郎と美優、そして亜希子を乗せたタクシーは、美優の知人が勤める大学病院に到着した。
　夜間受付で、美優は知人の医師を呼んでもらった。

　暫くすると、エレベーターで、医師が降りてきた。

「福島さん、お久しぶりです。」
「山田さん‥‥‥無理を言ってすみません。」
「いえ、明日の朝まで当直ですし。」

　美優は、仙次郎と美優に医師の山田を紹介した。

「仙次郎君、亜希子さん、この病院に勤める内科医の山田さんです。」
「始めまして。高輪といいます。こんな夜に、無理を言いまして‥‥‥」
「いえいえ、福島さんには、お世話になりましてね。‥‥‥で、彼女が？」

　山田は、亜希子を見ながら美優に訪ねた。

「ええ‥‥‥‥彼の元奥さんで、大門亜希子さんといいます。」
「‥‥‥ぉ‥‥‥‥お世話になります‥‥‥‥」

　小声で囁きながら頭を下げる亜希子‥‥‥‥

「‥‥‥‥それから、彼女、妊娠もしているかもしれないという事で。」
「ふむ‥‥‥では、さっそく採取検査をしましょう。どうぞ、こちらへ‥‥‥」

　山田に促され、仙次郎ら３人は、そのまま１階の検査室に歩いていった。

「では、大門さん、こちらの部屋にどうぞ。」
「‥‥‥は‥‥‥はぃ‥‥‥」

　亜希子は、仙次郎と美優に振り向く事無く検査室に入っていった。

　暫くすると亜希子は、検尿器を持って、山田と共に外に出てきた。
　腕には、採血したのか、脱脂綿を当ててテープで止めてあった。

「では、大門さん、尿を取ったら、中の小窓に採取した尿を置いてください。」
「‥‥‥はぃ。」

　亜希子は、検尿器を持ってトイレに入っていった。

　ドアを開けて中に入る亜希子‥‥‥‥
　鍵を掛け、洋式の便座に腰を降ろして考え込んだ。

（‥‥‥‥増田さんの‥‥‥‥あの煙草が‥‥‥‥‥）

　亜希子は、急に頭痛を覚えた。
　美優に言われた事を思い出す亜希子‥‥‥‥‥

（‥‥‥‥‥そういえば、抱かれる時必ず‥‥‥‥‥煙草が‥‥‥‥）

　亜希子は、増田の吸う煙草の匂いを思い浮かべる‥‥‥‥

（‥‥‥甘ったるい匂い‥‥‥‥‥そんな‥‥‥‥‥）

　今思えば、亜希子も不思議な事がたくさんあった。
　増田に抱かれる時に限って、身体の力が抜け宙を浮遊している感じがしていたからだ。
　増田との性戯も異常だった。
　あれほど、快感が継続し、やり足りないくらいの感覚が数日間も続いてしまう。
　考えれば考えるほど不自然な事が頭に浮かんでくる。
　亜希子は、それ以上、考える事が困難になってきた。
　軽い吐き気が、亜希子を襲った‥‥‥‥

（‥‥‥‥‥私‥‥‥‥‥‥いったい‥‥‥‥‥なぜ‥‥‥）

　亜希子は、歯を噛みしめながら検尿器を股間に当てた。

☆☆☆☆☆

　２時間ほど、待たされただろうか、医師の山田から声が掛かった。

「高輪さん‥‥‥どうぞ中へ‥‥‥‥」
「はい。」

　亜希子は、待合室の壁にもたれて、うたた寝をしている。

「仙次郎君、私、亜希子さんを見てるから。」
「ああ‥‥‥‥頼む。」

　仙次郎は、そういい残して検査室の中に入っていった。

「どうぞ、お座りください。」
「はい。」

　仙次郎は、山田の前に腰掛けた。

「‥‥‥‥高輪さん。‥‥‥‥‥‥‥‥」

　山田が険しい顔で仙次郎を見つめた。

「はい。」
「‥‥‥‥‥彼女の血液と尿から、大麻の成分が検出されました。」

（‥‥‥クッ‥‥‥‥）

　身体から力が抜けていく仙次郎‥‥‥‥‥

「‥‥‥‥そ‥‥‥‥そうです‥‥‥か‥‥‥」
「そして、今すぐに、入院する事をお薦めします。 」
「‥‥‥‥入院‥‥‥‥ですか‥‥‥‥」

　一気に顔が蒼ざめ、仙次郎の背中に冷たいものが流れていく。

「先生‥‥‥‥‥‥‥やはり‥‥‥‥大麻を‥‥‥」
「微量ですがね。おそらく直接は吸っていません。肺への付着も見られません。‥‥‥ただ‥‥‥‥ただ、それより‥‥‥もっと凄いものを検出したんです。」
「え？‥‥‥‥凄いものとは‥‥‥‥」

　険しい顔で山田の話を聞く仙次郎‥‥‥‥

「全部で、３種類あります。」
「‥‥‥あ‥‥‥あの‥‥‥それは‥‥‥」
「ハリオンペプシキオン、ＬＧＣ、そして、微量ですが痺崩草という、チベットに植生する麻薬の一種です。」
「‥‥‥‥‥‥‥ど‥‥‥どういうことです‥‥‥‥」
「これらを混合すると、特質な症状を作り出す事が出来ます。」
「‥‥‥え‥‥‥どういう‥‥‥」
「簡単に言うと、思考能力が、著しく低下するんですよ。つまり考える力が麻痺し過去の記憶を思い出したり、抵抗することが、非常に困難になっていくんです。」
「‥‥‥‥‥‥」
「外観症状では、トイレが近くなったり、唾液の量が、凄く多くなります。特に女性の場合ですと、性交中に性器から出る液体量が増加しますね。」
「は？」
「‥‥‥‥‥勝手に濡れてくるんです。」
「‥‥‥‥‥‥」
「まあ、これを配合して作った人は、かなり知識があると思いますよ。なんと言っても、闇の性社会では、落恋薬と言われているんですが、つまり媚薬的な効果があり関係した男性を忘れられなくなるんです。」
「‥‥‥‥‥‥え？」
「んー‥‥‥‥つまり、裏社会では、女性殺しと言われてるそうですが、セックス時におけるエクスタシーが、数分も続いてしまいます。男性の場合ですと異常な量の精液を出しますね。つまり、何分も出している様な錯覚を得ます。そう言う意味では、覚醒剤と全く一緒の効果を生みます。」
「‥‥‥‥‥‥な‥‥なぜ‥‥‥‥そういう‥‥‥‥‥‥」
「ハリオンペプシキオンは、脳の中枢神経を麻痺させたり、思考能力を低下させたり、つまり、記憶を一定の事だけに固執させる事も出来ます。ＬＧＣは、性ホルモンをコントロールする神経を低下させていきます。そして、痺崩草、これは、特定の男性に性心を奪わさせる効果があるんですが、そう‥‥‥つまり媚薬的効果です。」
「‥‥‥‥そうですか‥‥‥」
「しかし、非常に不思議ですね。」
「え？」
「そもそも、これらの薬品を日本で手に入れることは不可能なんです。国から特別認可を受けた大手薬品会社の研究所か、国の運営する研究所でないとね。そして、調合量も専門家でないと無理です。それよりも、これらを混合して作り出せること自体が不思議ですね。」
「‥‥‥‥‥‥ゥ‥‥‥クッ‥‥‥クッ‥‥‥‥‥」

　顰めた顔をした仙次郎に問い掛ける山田‥‥‥‥

「た‥‥‥高輪さん‥‥‥どうしました？」
「あ‥‥‥亜希子は‥‥‥‥こ‥‥‥国立中央研究所に勤めている学者なんです。」
「‥‥‥‥えぇーっ‥‥‥‥」
「亜希子は、生物学なんですが‥‥‥‥中には、科学研究室や薬品研究室も‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥あの‥‥‥高輪さん‥‥‥‥」
「先生‥‥‥直ぐに‥‥‥亜希子に‥‥‥‥‥‥治療を‥‥‥‥」

　唇を震わせて山田に依頼する仙次郎‥‥‥‥

「ゎ‥‥‥‥解りました。。」
「‥‥‥‥‥‥‥時間は、掛かるんですか？」
「２ヶ月以上は、掛かるでしょうね。換算すると、およそ１ヶ月近く前から身体に投与されていたと推定できます。しかし、微量でしたし、臓器も損傷していませんから。ただ、当初は、投薬治療を出来ませんので、本人は、身体から、薬が抜けるまでの間、身体的にも精神的にもかなり辛いですよ。」
「‥‥‥‥構いません‥‥‥‥お願いします。」
「解りました。‥‥‥本人には、気の毒ですが、集中看護室に‥‥‥」
「‥‥‥‥‥？」
「‥‥‥つまり‥‥‥四肢を固定しておかないと‥‥‥‥その‥‥‥」

　仙次郎は、山田の言わんとする事を察した。

「それで結構です。」
「解りました。‥‥‥‥あ、それから、高輪さん、妊娠はしていませんでした。」
「‥‥‥‥ぇ？」
「空腹になると、妊娠時のつわりと全く同じ症状が出るんです。」
「‥‥‥‥そうですか‥‥‥先生、ありがとうございました。早速、入院手続きを。」
「はい。係の者を呼びますのでお待ちください。」
「お願いします。」

　仙次郎は、山田に頭を下げて部屋を出て行った。
　ドアを開ける仙次郎‥‥‥‥

「‥‥‥！」

　ドアの外には、美優に肩を抱えられた亜希子が立っていた。

「‥‥‥‥き‥‥‥‥聞いていたのか。」

　身体を震わす亜希子‥‥‥‥‥
　恐怖なのか、怒りなのか。
　それとも増田に対する疑想感、いや、絶望感なのか‥‥‥
　亜希子は、真っ青な顔をして涙を浮かべていた。

「‥‥‥‥‥亜希子‥‥‥‥」

　亜希子は、仙次郎の呼びかけと共に床に崩れ落ちた。」

「あ‥‥‥亜希子さんっ‥‥‥大丈夫っ。」

　仙次郎と美優は、亜希子を抱き起こしてソファに座らせた。
　呆然とした表情で目を泳がしている。
　そこへ、山田が呼び出した医療スタッフが、ストレッチャーを持って検査室に到着した。
　部屋から出てきた山田が、亜希子を病室に運ぶようスタッフに指示する。

「‥‥‥‥さぁ‥‥‥亜希子さん‥‥‥‥」

　亜希子は、拒む事無く従った。
　重い足取りでストレッチャーに横たわる亜希子‥‥‥‥
　仙次郎が、小さな声で呼びかけた。

「亜希子‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥せ‥‥‥‥‥‥仙‥‥‥ちゃ‥‥‥ん‥‥‥」
「何も心配するな。‥‥‥‥‥まずは、身体を元に戻すんだ。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

　目を瞑る亜希子‥‥‥‥‥
　亜希子は、何も答える事無く看護士二人に押されて病室へと向かっていった。

　亜希子を見送る仙次郎‥‥‥‥

「‥‥‥‥‥せ‥‥‥仙次郎君‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥美優‥‥‥‥‥‥‥俺は、増田を許さねぇ‥‥‥」
「‥‥‥駄目よ‥‥‥‥暴力は‥‥‥また‥‥また、刑務所に逆戻りよ。」

　拳を握り締める仙次郎‥‥‥‥
　爪が掌に深く食い込んでいく。

「‥‥‥‥‥‥‥」
「法的に葬るのよ。」
「‥‥‥‥‥‥」
「仙次郎君っ！」
「‥‥‥‥‥‥‥解った‥‥‥‥解ったよ。」

　仙次郎の背中を見つめる美優‥‥‥‥‥
　美優は、仙次郎の怒りと悲しみが頂点に達している事を読み取っていた。

☆☆☆☆☆

　美優は、友人の検察官に事情を説明し起訴を起こした。
　これによって、日本の研究会を騒然とさせる大事件へと発展していき、マスコミやメディアは、挙って今件の報道を大々的に開始していった。
　村上恵は、共犯として即日逮捕された。
　警察の厳しい質問に、恵は、亜希子が、増田と会う日に限って、増田の命令により、亜希子の飲むお茶に薬を混ぜていたと自供した。
　また、薬品を増田に騙されて調合した研究員も無断使用を指摘され、また薬品使用記録を偽造した職員も共に送検された。
　国立中央研究所は、殺到するマスメディアの対応に追われていた。
　検察から礼状を取り、政府と警察庁、そして研究所を管轄する厚生労働省は海外に出張している増田の元に職員を派遣していた。
　増田は、事件を認め出張先で逮捕された。

　空港では、各マスコミやテレビ局が警察に付き添われて、本日帰国する増田を待ち構えている。
　空港ロビーでは、厳しい態勢が引かれ報道関係者が増田の帰国を待ち構えていた。

≪ただいま、国立中央研究所の増田専門官が空港に到着した模様です。≫

　多数の各社レポーターが、一斉に興奮気味の口調で報道を開始した。
　飛行機から数人の警察官に取り囲まれて増田がタラップを降りてきた。
　
　しばらくしてロビーに到着する警官と増田‥‥‥
　特別ゲートに向かって増田は歩いてくる。
　一斉にレポーターがマイクやビデオカメラを構え出す。
　警官が、報道関係者を整理しながら道を作っていった。

「どいてください‥‥‥通して下さい。」

　怒鳴るようにして声を上げる警官‥‥‥‥
　しかし、それを無視して質問を繰り返すレポーター達‥‥‥
　増田は、表情を変える事無く警官に挟まれながら無表情で歩いていた。

「増田さん、今回の事件いついて一言っ！」　
「増田さん、今の心境をっ！」

　次々と遠慮のない質問が増田に向けて飛び交った。
　警察が増田をガードしながら先を急ごうとしている。
　そこへ人ごみを掻き分けて、一人の男が、増田の前に踊り出た。
　警官に制止されるが、男は、その場を動かなかった。
　仙次郎だった‥‥‥‥‥‥
　増田を見る仙次郎‥‥‥‥‥

「何だ君はっ！‥‥‥報道関係者か。違うならどきたまえ！」

　怒鳴る警察官‥‥‥‥
　しかし、仙次郎は、動かない‥‥‥‥‥

「増田っ‥‥‥‥‥」

　増田は、下げていた顔を上げ、仙次郎を見た。

「‥‥‥君か‥‥‥」

　増田は、仙次郎を見て不敵な笑いを見せた。

「いい女だったんだがな‥‥‥‥残念だ。」
「‥‥‥‥‥」
「だが、よく濡れるようにしておいたから、後は‥‥」

　増田が、そこまで言うと、仙次郎の拳が増田の顔面にヒットした。

「グエェッ‥‥」

　口と鼻から血飛沫をあげ崩れ落ちる増田‥‥‥

　仙次郎は、数人の警察官に押さえ込まれた。
　一斉にフラッシュがたかれ、その状況を報道されていく。

　増田は、急いで外に待つパトーカーへと連れて行かれた。

（‥‥‥‥‥亜希子‥‥‥‥）

　取り押さえられながらも、増田の後姿を追う仙次郎‥‥‥‥
　複数の警察官が、仙次郎を囲むようにして別のパトカーに押し込んだ。
　手錠を掛けられ、腕を固定される。

（‥‥‥亜希子‥‥俺が‥‥‥俺が、今‥‥‥‥‥奴に出来る、精一杯の仕返しだ。）

　仙次郎は、小さく溜息をつきながら膝に顔を埋めていった。

（１２７）

「仙次郎君の馬鹿っ！」

　警察署に仙次郎を引き取りに来た美優が、外に出たと同時に大声で怒鳴った。
　美優の事情説明と、警察にいる知人の特別な計らいで、仙次郎は、翌日に警察署から開放された。

「‥‥‥すまん‥‥‥‥」

　小さく呟く仙次郎‥‥‥‥‥

　しかし美優は、仙次郎の気持ちが痛いほど解っていた。

　美優は、仙次郎の背中を叩いて小さく囁いた。

「お腹‥‥‥空いてるんでしょ。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥ああ‥‥‥‥ちょっとな。」
「‥‥‥‥‥何か‥‥‥‥食べに行きましょ。」

　そう言って、仙次郎の腕を組む美優‥‥‥‥‥

　伸びた髭を擦りながら、仙次郎は、空を見上げた。

☆☆☆☆☆

　亜希子の入院から、５週間が過ぎた。
　医師の山田から、面会の許可も下り、仙次郎は、身の回りの仕度品とフルーツを持って病院に訪れた。
　病室をノックする仙次郎‥‥‥‥‥

「‥‥‥‥はい‥‥‥‥‥どうぞ‥‥‥」

　仙次郎は、ゆっくりと深呼吸をしてドアを開けた。

「よぉ‥‥‥‥博士‥‥‥良くなったそうだな。」

　驚く亜希子‥‥‥
　そして、一気に涙が溢れてきた。

「‥‥‥ぅ‥‥‥‥せ‥‥‥‥仙ちゃん‥‥‥‥」
「泣くんじゃない。」
「‥‥‥‥ゎ‥‥‥‥私‥‥‥‥私‥‥‥‥」

　仙次郎は、荷物をベッドの下に置いて、持参したフルーツをタッパから取り出した。

「家で剥いてきた‥‥‥‥食べろよ。」

　そう言って、亜希子の膝の上にフルーツを入れた器を置いた。

「さっき、先生から、話を聞いてきた。明日から点滴を打てるそうだ。」
「‥‥‥‥‥」
「後、半月もしないで退院も可能と言っていたぞ。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥うん‥‥‥‥‥」

　仙次郎は、立ち上がってレースのカーテンを開いた。
　外の景色を見る仙次郎‥‥‥‥‥

「仙ちゃん‥‥‥‥あの‥‥‥‥」
「何も言うな亜希子‥‥‥‥‥言わなくてもいい。」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「テレビを見ただろう。‥‥‥‥増田も、かなり重い刑になりそうだ。」
「‥‥‥‥」
「君の助手の村上恵君は、増田の陰謀ということで、多少、刑が軽くなりそうだが‥‥‥まあ、研究所は、関わった人間が全員、懲戒免職になったらしい。」
「‥‥‥‥‥昨日‥‥‥私も‥‥‥‥警察から事情を‥‥‥‥」
「そうらしいな‥‥‥‥‥‥まあ、しかしお前は被害者だ。罪はないだろう。」

　俯く亜希子‥‥‥‥

「ここに来る途中、研究所に寄って来た。」
「‥‥‥‥え？」
「お前に酷い目に合わせてしまったと、所長さんが頭を下げていた。」
「‥‥‥‥‥そう。」
「治ったら、いつでも戻って研究に没頭して欲しいそうだ。」
「‥‥‥‥‥でも‥‥‥‥」
「聞いたぞ。」
「‥‥‥え？」
「来年の秋、生物学専門の研究所が出来るそうだな。」
「‥‥‥‥‥‥」
「そこの、主任専門官に推薦されるそうじゃないか。」
「‥‥‥‥‥でも‥‥‥もう‥‥‥‥」
「亜希子、夢は、実現させてこそ夢だ。‥‥‥研究所を辞める必要はない。‥‥‥‥‥当分は、色々な意味で辛いだろうが、気にせずに頑張る事だ。」

　仙次郎は、ずっと背を向けたまま亜希子にそう語った。

「‥‥‥仙ちゃん‥‥‥‥私、‥‥それよりも、いま、もっと辛い事が‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥ん？」
「‥‥‥‥仙ちゃんと‥‥あの時、話をしたでしょ。‥‥‥‥‥仙ちゃんに対して自分で言った言葉が‥‥‥増田さんと居る時に、全然思い出すこと出来なかった。」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「数日前から、やっと‥‥‥‥やっと、今までの記憶が戻ってきたの‥‥‥‥」
「‥‥‥‥亜希子‥‥‥」
「私‥‥‥あの時、言ったでしょ。‥‥‥‥私は、仙ちゃんが居てこその私って。何があっても仙ちゃんは、私の全てって。‥‥‥私は、仙ちゃんのものだって。」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「薬のせいとはいえ‥‥‥そんな大事な事を思い出せなかった自分が悔しくて‥‥‥」
「亜希子‥‥‥」
「凄く‥‥‥悔しくて‥‥‥‥ゥゥ‥‥‥‥」
「亜希子‥‥‥‥‥お前自信の意思での行動でないんだ。気にするな。」
「‥‥‥でも‥‥‥」
「‥‥‥‥気にするんじゃない。」

　亜希子は、苦汁に満ちた表情で口を閉じた。

　仙次郎は、色々な思いが頭を駆け巡った。
　しかし、亜希子に話す気にはなれなかった。

「‥‥‥‥‥亜希子‥‥‥‥まだ、身体は完璧じゃない。しっかり治せ。」
「‥‥‥‥‥‥‥うん‥‥」
「さて、仕事に行くよ。‥‥‥夕方に美優も来るそうだ。」
「‥‥‥‥‥‥‥うん‥‥‥」
「何か、欲しいものがあったら遠慮せずに連絡をしろ。」
「‥‥‥‥‥‥うん‥‥‥」
「じゃ、行くぜ。」

　仙次郎は、静かに亜希子の肩を叩いて病室を出て行った。

　寂しそうに仙次郎の後姿を追う亜希子‥‥‥‥

（‥‥‥‥‥‥‥‥仙ちゃん‥‥‥‥）

　器に入った果物を見つめる亜希子‥‥‥‥
　亜希子は、仙次郎の剥いた果物を摘んで口に入れた。
　甘酸っぱい香りと風味が口に広がっていく。

（‥‥‥‥仙ちゃん‥‥‥‥‥‥仙ちゃん‥‥‥‥）

　亜希子の瞳からは、止め処なく涙が溢れ出てきた‥‥‥‥‥‥

☆☆☆☆☆

−　二週間後　−

　週末金曜日、仙次郎は、明日、退院する亜希子とゆっくり、今後の話をしようと会社を休むことにした。
　朝食を済まし、病院に出かける仕度をする仙次郎‥‥‥‥‥

（寿司でも買っていってやるか。）

　仙次郎は、マンションを出ると、途中、寿司屋に顔を出した。
　亜希子の好物である穴子の握りを注文する仙次郎‥‥‥

「お待たせしました。」
「ありがとう。」

　仙次郎は、寿司を受け取ると車に乗り込んだ。

/ / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / /

　病院に着いた仙次郎は、病室のドアをノックした。

（‥‥‥‥‥？‥‥‥‥トイレかな‥‥‥）

　ドアを開け中の様子を窺う‥‥‥‥

「‥‥‥‥‥‥‥」

　病室の中は、空室だった。

（‥‥‥‥‥‥‥‥亜希子‥‥‥）

　仙次郎は、急いで受付のあるロビーに降りていった。

「あの‥‥‥すいません。５０５号室の大門亜希子さんですが‥‥‥‥」
「ああ、昨日、退院しましたよ。」
「退院？‥‥‥‥‥昨日‥‥‥ですか？」
「ええ。先生から許可を得たようでして。」
「そうですか。‥‥‥‥‥どうも‥‥‥」

　仙次郎は、病院を出ると直ぐに亜希子のマンションに電話をした。

（‥‥‥‥‥‥おかしいな‥‥‥‥何で連絡しないんだ、亜希子のやつ‥‥‥）

　そう思いながら携帯電話を耳に当てる仙次郎‥‥‥
　しかし、呼び出し音だけが続く。

（‥‥‥‥研究所でも行ってるのかな。）

　仙次郎は、亜希子の勤める研究所に電話をした。

「‥‥‥あ、もしもし、私、高輪と言いますが、失礼ですが生物学研修室の大門先生は、そちらに行っておられますか。」
『‥‥‥え‥‥ああ‥‥‥あのぅ、大門先生は、昨日、退職願を出されて‥‥‥‥』
「‥‥‥ぇ！‥‥‥‥‥退職願‥‥‥‥‥き、昨日‥‥‥」
『ええ。』

　驚く仙次郎‥‥‥‥‥
　直ぐに頭の整理が出来ないでいる。

「ぁ‥‥‥あの、すみませんが、所長さんに代わって頂くことは出来ないでしょうか？」
『お待ちくださいませ。』

　暫くして、所長が電話に出た。

「あ、先日は、どうも‥‥‥高輪です。」
『高輪さん‥‥‥‥‥』
「今聞きました．‥‥‥あの、亜希子は‥‥‥」
『ええ‥‥‥‥必死に止めたのですが、大門君の決意も固かったようで。』
「そ‥‥‥それじゃぁ‥‥‥」
『ええ。引き止めることは出来ませんでした。』
「あの‥‥どこに‥‥‥どこに行くと‥‥‥」
『私も聞いたのですが、何も答えてくれなくて‥‥‥』
「‥‥‥‥‥‥そうですか‥‥」

　仙次郎は、丁重に礼を言って電話を切った。

（‥‥‥亜希子‥‥‥お前‥‥‥）

　仙次郎は、そのまま、亜希子のマンションに足を運んだ。

　路上駐車し、急いでエントランスに駆け寄るとルームフォンを押した。

≪はい、管理人室です。≫

（‥‥‥‥管理人室？）

「あ‥‥‥あの‥‥‥‥大門亜希子は‥‥‥‥」

≪ああ、大門さんは、部屋を出ましたよ。≫

「えぇっ！」

≪昨日に荷物をまとめていました。今朝方、トラックが荷物を運んでいきましたが。≫

「‥‥‥け‥‥‥今朝‥‥‥」

≪ええ。手続きは、不動産会社に任せたようで、直接、私は喋っていませんので。≫

「‥‥‥そうですか‥‥‥‥解りました。」

　仙次郎は、戸惑った。

（‥‥‥亜希子‥‥お前‥‥‥‥何で‥‥‥‥‥）

　仙次郎は、亜希子の心理を見通していた。
　性格的に、増田との件を自分自身が許す事が出来なかったのだろう。
　仙次郎は、今日、その話を持ち出し亜希子の気持ちを和らげようとするつもりだったのだ。
　車に戻った仙次郎は、溜息をついてハンドルに額を乗せた。

（‥‥‥亜希子のクソッタレがぁ‥‥‥‥‥‥一人で、悩むんじゃねぇーっ！）

　仙次郎は、心の中で、そう叫びながらハンドルを強く握り締めていった。