〔 粗 筋 〕

　史上最年少で囲碁のプロ棋士となった松宮幸一。
　彼は弱冠１７歳にして、本因坊というビッグタイトルへの初挑戦が決まり、それを機に『２０世紀最後の天才棋士』として広くマスコミの注目を浴び始める。

　そしていよいよ本因坊戦が近づき、激しい緊張と重圧からストレスを募らせてゆく松宮に、思いがけず年上の女流棋士から電話が入る。
　しかも驚いたことにその用件は、「ストレスが溜まったときは精液を抜くのが一番らしいから、私のマンションまで来ない？」というもの。

　松宮は彼女の真意を測りかねた。
　二人は決して親しくも何ともない間柄であり、目前に迫ったタイトル戦についていえば、敵方陣営から塩や砂糖どころか、スタミナドリンクと集中力強化剤が届くような状況にも等しいからだ。

　しかし、女性と付き合った経験さえ持たない童貞の松宮にとって、誘いを断る理由を探すのは、彼女の胸の内を探るより難しい。
　結局、筆下ろしへの期待と、女体への興味に胸と股間を膨らませたまま、勇躍して性の肉弾戦に挑むことになった。

　以来、松宮は棋界の強敵や難敵の撃破に努める傍ら、野々口秀世が週刊誌に連載した小説を皮切りに、『男の趣味の参考書』を次から次へと読破してゆく。

　その結果、２０代も半ばを迎える頃には、野々口らの描く超官能小説の世界にどっぷりと漬かり、夜ごと『男の本陰棒』を相手のオナニーに励む日々が続くようになるのだが‥‥。

　松宮の夢は、本因坊や名人といったビッグタイトルを独占することと、憧れを抱く年下の女流棋士と結婚し、知らず知らずのうちに芽生えていた男の趣味を満足させること。

　無論、そうした夢や、特殊な趣味を持っているのは松宮一人ではない。
　彼がまだ世間に広くその名を知られる前から、囲碁や超官能小説が縁で出合う男女たちもまた同様に、小説から刺激を受けたり、あるいは互いに直接的な影響を与え合ったりしながら、それぞれが公私の夢を最後まで追い続けてゆく。

〔 前書きに代えて：１ 〕 忠告４０００件の経歴を誇る騎士団『河薫』からの“御忠言”

　エロ本を読むのに囲碁の知識は必要ありません。
　今は亡き『朝立徹夜』氏の名作『雀荘放浪記』とは、その点が違います。
　
　ただ、囲碁というゲームと『♂と♀のラブゲーム』との間には、下記のような共通点があることを予め知っておいていただくと、より楽しさが増すかも知れませんし、人によっては半減する可能性もありそうですので、ご注意ください。

　その状況を例えてみれば、風呂敷で顔を隠している全裸の女性から、こんな申し出を受けたときと一緒です。
（相手は病気の心配なし、スタイルはあなた好みと仮定、年齢は１８歳以上に限定。素人かプロか、処女か否か等は深く考えないこと）

「１発だけなら、生でタダマンやらせてあげるけど、風呂敷はどうする？
　いったん外したら２度と被る気はないし、終わった後で顔を見たいって言われても、それはブスだと思われてた証拠だからイヤ。
　そのかわり、どんな体位でもかまわないし、アナルセックスもオーケーなんだけど。
　ねえ、風呂敷は脱いだほうがいい？　それとも、やった後に顔を見ないままバイバイする？」
「‥‥‥‥‥‥」
「あのう…お返事がいただけないのは、もしかして、今のわたくしの口調が、お気に召さなかったんでしょうか。
　それでしたらわたくし、普段通りの喋り方で、改めてご希望を伺うように致しますが、いかがなさいますか？」

　　（囲碁とラブゲームの主な共通点）

　　　・なによりもまず、相手がいなければできない。
　　　・相手の胸の内が読めれば、それだけゲームを有利に運べる。

　　　・やりたくない相手とは、できればやりたくないと誰もが思っている。
　　　・いくらやりたいと願っても、やらせてもらえない相手もいる。

　　　・互いにやりたいと望んでいても、どちらかに不都合があればやれない。
　　　・いつ、どこで、どれだけやるか、特別な場合を除き、特に決まりはない。

　　　・やってはいけないことと知りながら、ついついやってしまって後悔する。
　　　・最後に来ての『思わぬ大逆転（予期せぬドタキャン）』が往々にしてある。

　もともと楽しくなかったら？　
「ごめんなさい」と、ていねいにカギカッコまでつけた上で、予め平仮名６文字で謝っておくだけです。（そのための前書きでもありますし、タダマンならぬタダヨミですからね。平にご容赦を）

〔 目　次 〕

　１章　対局前の準備（１）まず御手洗と盥の使い方を学ぶ

　２章　対局前の準備（２）相手に花を持たせる精神を学ぶ

　３章　対局前の準備（３）握りの種類ごとのＴＰＯを学ぶ

　４章　布石：性戦での“出たとこ勝負”は必敗と知れ

　５章　序盤：布石は布オムツ同様ていねいに敷き込め

　６章　中盤：男の趣味の実践要領は専門書に学ぶべし

　７章　終盤：未亡人の据え膳は有り難く辞退するべし

　８章　終局：雌雄を決するのに定石はないものと知れ

　終章　感想：過去を振り返れるのは人間の特権と悟れ

〔　前書きに代えて：２ 〕　後書きを設けないので‥‥

　本作品の執筆にあたっては、秋葉雷太さんと川越雷太さんの全面的なご協力を頂戴しました。
　作中に登場する小説は、いずれも秋葉さん作案、川越さん作文による小説の一部を、ご両名の了解の下、登場人物名ならびに構成等を変更し、加減筆を施したうえで引用したものです。

　ここに以下の通り、オリジナル小説の題名を列記しておくことで、お二人への謝辞とさせていただきます。

　「淫態の血脈（色違いの記憶）」
　「淫態の血脈（白い肌の明暗）」
　「淫態の血脈（黒髪と金髪の交錯）」
　「淫態の血脈（金髪の良妻候補）」
　「淫態の血脈（灰色の仕掛け人）」
　「女は性夜に目が覚める」
　「報復の陵辱か幸福への序曲か（アイドル歌手：山中美穂）」
　「生理になるとなにかが起きる（女子アナ：神谷町子）」
　「淫香を嗅がせる女たち（調香師：江口秀夫）」
　「淫臭のカサブランカ（清純女流棋士：梅澤百合香）」　

　　　　　　　　　河　上　唐　薫　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

〔 本　編 〕　

赤と黄に彩られた棋譜

１章　対局前の準備（１）まず御手洗と盥の使い方を学ぶ

〔１−１♀：買物中の女性　２５歳〕

　ターミナル駅を出て、家電の量販店『ジャイアントカメラ』へ向かう。

（ふーん、やっぱりすごいんだ‥‥）
　ソニーから発売されたばかりのウオークマンが、若い人の間で売れているという話しは、私もテレビや新聞で知っていた。ここへ来る電車の中、あるいは駅でも何人か目にした。
　
　でも、まさかこれほどの売れ方をしているとは知らなかった。
『ジャイアントカメラ』から出てくる人たちは、全員が全員‥‥とまでは言わないけれど、印象としては、ほとんどの人が小型のヘッドホンを付けている。

　クレジットカードの支払い伝票にサインを済ませた。
「商品は、すぐにお使いになりますか？　それとも‥‥」
「はい、包装してください。それと、できればリボンもお願いします」
　レジの女性に答えた。

　１点目の買い物を終了。駅ビルの中にある『有名堂書店』へ向かう。

　アパートを出てくるときは、フロアがいくつもある大型書店を利用する予定でいた。
　大型書店なら、本も雑誌もタイトル豊富に揃っている。当然、私の買いたい本も例外であるはずがなく、私が探し求めている作家の小説にしても、簡単に見つけられると考えたからだ。

　しかし、ジャイアントカメラで買い物をしていて気づいた。
　大型専門店では、同じような種類の商品が品数豊富に置かれている分、どの売り場にもお客が群がり、その場に滞留している時間も長くなるのは必然なのだ。
　
　近所の商店街でさえ、スーパーに客を奪われていることを考えれば、ターミナル駅に近い書籍の大型店だけが例外とは思えない。

　その点、駅ビルの中の書店なら、コンビニと同じような感覚で利用するお客か、短時間しか留まらないお客がほとんど。
　今日の私には、よほど適している。

（えーと、趣味・実用書のコーナーは‥‥）
　見つかった。囲碁の本も、思いの他たくさん並んでいる。
　でも、どれを選べばいいのか、私には見当もつかない。

　中年の‥‥と呼ぶにはまだ早そうな男性がやってきて、棚から囲碁の本を抜き出した。
　そのままレジへ‥‥向かうのかと思ったら、立ち読みを始めたので、少し待つ。
　さりげなく様子も観察する。

　年の頃は３０代の半ば過ぎ。感じの良さそうな人である。
　棚から抜き取った本は、きちんと元の場所に戻してから、次の本を抜き取る点も私と一緒だ。

　人が見かけによらないことは、私もよく知っている。
　私自身、いま働いているお店のオーナーから、面接のときにこう言われたくらいだ。

『昔から、人は見かけによらないっていうけど、あなたが履歴書にこんなことまで書き入れるっていうことは、人に嘘をついてまで生きたくないと思っている証拠だろうし、たぶん「嘘も方便」という諺も知っていることの証明の裏返しだからね。
　あなたの都合さえ悪くなかったら、明日とは言わず、今からでもお店に出てよ。
　辞めていった女性が、あなたとだいたい体格も一緒だったから、制服は彼女が着ていた分で、取りあえず間に合うと思うんだ。
　それからこの履歴書は、今ここで破いて捨てさせてもらうけど、悪く思わないでね。
　うちのお店、そんなに労働条件がいいとは思えないけど、タチの悪いお客さんは来ないから、あなたがこの履歴書を下敷きにして、新しい履歴書を書くような日も、しばらくは来ないと思うし、自分の履歴書を誰かに預けておきたいと思う人なんか、誰もいるわけないから』

　立ち読みをしていた男性が、手元の本を棚に戻した。
　話しかけるなら、今がチャンスだ。

「あのう‥‥ちょっと教えていただきたいんですが」
「何でしょう」
「囲碁を１から学ぼうとしたら、どれを選ぶのがいいんでしょう」

「それなら本を読むより、まず碁会所へ行ってみたほうがいいですよ。碁会所へ行けば、セキテーとかマスターと呼ばれる人がいて、囲碁のイの字‥‥くらいは常識だから‥‥そう、囲碁のイロハから教えてもらえますし、ルールさえ覚えてしまえば、あとは碁会所に来る人たちが練習相手もしてくれますから、以後の心配もありません」
「‥‥‥‥‥‥」

「ゴルフでも何でも、とにかく趣味の世界には、初心者に手取り足取り教えることを、１番の趣味にしている人がたくさんいますし、いつまで経っても自分はうまくなれないのに、人に教えることだけはうまい人もいるくらいですからね」
「‥‥‥‥‥‥」
「プロ野球のコーチなんか、その典型的な例というか、代表選手でしょう」

　この男性はゴルフをやり、プロ野球も好きらしい。
　そこで私も親切さに応える意味から、こんなことを言えば喜んでもらえるかも知れない。

『レギュラーにもなれなかった選手に代表が務まるんですから、監督経験者なら、チームのオーナーくらい誰でもなれそうですね』

　でも、今は他の台詞を選ぶほうが望ましい。
　この人にはあまり時間がないかも知れず、私にはまだ探したい本があるからだ。

「碁会所に行くのは無理なんです」
「知り合いに碁を打てる人は？」
「あいにく‥‥」
「そうなると‥‥そうだ、あの人の書いた本があれば、あれが一番いいんだけど‥‥」
　駄洒落も好きな男性が、独り言のように言いながら、棚のあちこちに目を配り始めた。

　私が想像するに、頭の中では、こんなことを思っているはずだ。

『碁には碁石が欠かせない。あの本を誰かと一緒に読んで、二人で取りあえず碁を１盤でも打ってみれば、次にどの本を読めば一番いいか、それもわかるから、これこそ一石二鳥の典型だ』

「どうもありがとうございます。おかげで助かりました」
「お礼を言ってもらうほどのことではありませんよ。困っている女性を助けるのは、私の１番の趣味みたいなものですし、若くて美しい女性が困っているとなれば、イの１番に駆けつけて助けたくなるのが、男の共通心理でもありますからね」
　お世辞まで得意とは思わなかった。

　趣味・実用書のコーナーを離れ、小説、それも文庫本が並べられているコーナーへ向かう。

（御手洗盥、御手洗盥‥‥どこにあるんだろう）
　作家名を頼りに、棚に収められた文庫の背中を眺め歩く。

　なななか見つからない。
　だからといって、売り場の人に尋ねるわけにはいかない。

　相手もそれが商売。口にも顔にも出すとは思えないけれど、私が「御手洗盥という人が書いた小説は、どこにありますか？」と尋ねたら、その人は、間違いなくこう思う筈。

『御手洗盥〜？　人は見かけによらないっていうけど、女であんな小説買った人なんか、見たことないよ。それでもまあ、人にはそれぞれ事情があるんだろうし、女の中にも、読みたい人がいても不思議はないけど、小野幸一郎ならまだしも、よりによって御手洗盥とはね‥‥』

（あ、あった）
　ようやく発見。なかなか見つからなかったのも当然。

　あえて探しにくい場所というか、その棚の前に立ち止まっても、それほど人からは目立たない場所を選んで、内容の類似した本と一緒に並べられているのだ。

　発見さえできれば、後は簡単。
　まずは御手洗盥の文庫が、棚の何段目のどの辺にあるか、改めてしっかりと目に焼きつけながら、いったん通り過ぎる。
　
　髪の乱れが気になったふうを装い、足を止めて２度３度と手櫛を入れながら、周囲の様子を窺う。

（うん、今なら大丈夫）
　誰も私の様子を気にしていない。だからといって、安心はできない。
『多い日も安心』を謳い文句に売り出されたナプキンにしても、先月初めて使ってみたら、やはり２日目には横漏れが起きた。
　翌朝、目覚ましが鳴る前に起きたのも、後ろ漏れが起きているのに気づいたからだ。

　そこで。
　目当ての棚の方角さえも、見て見ぬふりをしながらも。
　さりげなく且つ大股で且つ大急ぎで近寄り、念のために周りをくるりと見回しながら、記憶を頼りに１冊抜き取った‥‥だけで、心臓が踊り始めた。

　誰からどう見られようと構わない。小走りに現場を離れ、大急ぎでトイレへ‥‥向かえれば一番だけど。代金も払わずに店の外へ出れば万引き。

　うちのお店のオーナーは、同じ商店街にある本屋さんに行くと、必ずといっていいほど『大』を催すらしいけれど。
　一般に書店というのは、店内にお手洗いを設けられるほど儲かっているわけではなく、個室の設置は客に『万引きへの好奇心』を催させる危険性が大であり、利益がますます小さくなることくらい、私でも知っている。

（ふう）
　育児書のコーナーで、ほっと一息。
　ここなら私が立ち読みしても、それが育児とはまったく無関係な『御手洗盥』の小説とは、誰も気づかないはずだ。

（でも‥本当に読んで大丈夫かな‥‥）
　万引きでもするかのように抜き取ってきた本。　
　文庫とは思えないほどの分厚さでもあるだけに、表紙を眺めるだけで、改めて不安が募る。心配が蘇って胸を膨らませる。

　小説のタイトルは『ケツをまくった変態は大変』、副題が『第１０章：並外れた嗅覚を持つ優しい男の場合（中巻）』。

　帯には『ていねいな解説つき！！』という大きな文字が踊っているけれど、そんな解説を読んでも意味はない。性格が優しいからといって、変態であることに変わりはないからだ。

　小学６年生のとき、体育の授業を『見学』した日に、スカートめくりをされて泣きじゃくったことがある。
　それまでスカートめくりで泣いたことのなかった私が、初めて泣いたのを見て、めくった男子のほうも、私が泣いた理由に気づいたらしい。

　以来、彼が私のスカートをめくることはなくなった。でも、相変わらず彼は、クラスの女子だけでなく、他のクラスの女子のスカートまでめくり続け、何人となく泣かせた。

　もちろん彼が、何度となく先生に叱られたことは言うまでもないけれど。
　性格の優しさと変態性との間には、何の関係もないことを証明する『格好の例』と言えるはずだ。

（どうしよう‥‥）
　私は即断即決即実行のタイプ。
　過去には“軽はずみ”な行動に出たために、軽率さを反省するしかない事態に陥り、苦渋の決断を迫られた経験もあるほどだから、『衝動的なタイプ』と言い換えたほうが適切かも知れないけれど、いずれにしても優柔不断とは程遠い。

　田舎から出てきて、今のお店で働き始めたときもそうだ。
　引越し荷物を片付け、夕食の買い物に出かけた私は、『急募１名・面談即決』と書かれた貼り紙を見て、ただちに文房具屋さんで履歴書とボールペンを買い、喫茶店で履歴書を書いたその足で面接に訪れた。

　するとオーナーは、履歴書を見て開口一番、こんなことを言った。
『一人しか雇えない面談即決の求人なら、履歴書に写真を貼る意味はないし、顔写真の有無を、そのまま常識の有る無しに結びつけるほど、僕の頭も抜けてないからね。
　だから僕としては、無駄な写真を貼らなかったあなたを採用したいんだけど、あなたにすぐに辞められても困るから、一応は職歴や、書いてあることすべてに目を通させてもらうね』

　もちろん顔写真の件は、無駄を省こうとしたわけではない。
　１日も早く働き口を決めたくて、とりあえずダメモトを承知で応募しただけだ。

　世の中には、年齢のわりに髪の薄い男性ならたくさんいる。若い頃にはフサフサしていても、中年にさしかかってから抜け毛に悩む人も多いらしい。
　でも、私がこれまで出会った男性の中に、うちのお店のオーナーほど頭が切れる人は、ひとりもいなかった。
　
　そんなオーナーが、「内容は絶対に読まないほうがいい」と言ったのだ。
　いや、むしろ釘を刺されたと言ったほうが適切。

　自分で釘を抜くことが適当かどうか。
　今の私の心境は、まさにハムレットなどでは決してなく、ハムレットととのセックスで、初めて絶頂を迎えられそうな状態のオフィーリアだ。

（でも‥御手洗盥の本はたくさんあったんだし、ほんの少しくらいなら‥‥）
　囲碁の本を選んでくれた男性になった気分で、自分への言い訳が完成。

　どの辺を読めばいいか、手がかりはなくても拠り所がある。
　私が手にしているのは『中巻』なのだから、中間あたりを読むのが一番。

　さっそく広げ、人の目を盗みながらの立ち読み開始だ。