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『クラブＳ＆Ｓ』の 店内は明るく、天井まで届く重厚な造りの衝立が巡らされていた。
　どうやらいくつもの小部屋に分かれているようなのだが、通路はまるで迷路のようで、各部屋の入口がどこにあるのか、秋山にはまったく見当がつきかねた。

《変だな》
　二人の後を歩きながら思った。

　いかにもそれらしい店の造りである。どことなく淫靡な気配に包まれてもいる。
　それにもかかわらず、いや、それにしては店内の照明が明るすぎた。あの、栗の花を思わせる不快な臭いもしてこない。

　男の欲液を手軽に抜くことを“売り”にする店であれば、欲液特有の臭いが店内に充満しているのが常。秋山の鼻をもってすれば、容易に嗅ぎつけられるはずであった。

　得体の知れない店の雰囲気に緊張した秋山は、歩きながら深呼吸をした。その時である。
　鋭敏な鼻がなにかを訴えてきた。
　秋山は嗅神経に意識を集中させた。

《んー？》
　疑問はますます大きくなった。
　自慢の嗅覚が、通路に漂う女性の淫液の匂いや、月に一度、女性だけが流す不要になった血液の臭い、あるいは微かな便臭といったものを嗅ぎ分けたからである。

　マダムは通路の交差する場所で立ち止まった。
「どうぞ、あちらのお部屋です」
　一方の通路を差しながら、マダムはどちらにともなく告げ、その場を立ち去った。

　案内された通路は正面が突き当たり、左の壁に入口が見えた。ドアは取り付けられていなかった。
　通路から覗くと、部屋は四畳半ほどの広さだ。長いソファーが二脚、白く細長いテーブルを挟んで配置されていた。

　テーブルは、サイズといい、表面の白い化粧板といい、高さが少し低い点と、頑丈そうな造りを除けば、それはまるで秋山の会社で使っている会議用テーブルを思わせた。豪華なソファーとの組み合わせが、いかにもちぐはぐな印象を受けたものである。
　
　部屋に入ると、臭いは通路よりも強くなった。少し鼻の利く人なら、それが何の臭いかまでは識別できなくても、臭いの存在には気づくはずだった。

　椿が入口から遠い奥の席に座ったので、秋山は彼と向かい合う席に座った。そして気持ちを落ち着かせるために、大きく深呼吸した。通路と違い、部屋の中の臭いには、ほんのわずかだが、男の欲液の臭いも混ざっていた。

《やっぱりな》
　男の性欲を満たすための店であることだけは、間違いなさそうである。秋山はひとまず安心して、ポケットからタバコを取り出した。椿は先に灰皿を使い始めていた。

　一概に男の性欲を満たす店とはいっても、サービスの内容は様々に異なる。この店がどんなサービスを提供してくれるのか、秋山はよほど椿に尋ねてみたかった。
　だが、悠然とタバコをくゆらす彼の姿は、「焦らなくてもそのうちわかりますよ」と言っているようで、それを聞くのが憚られた。

　二人ともまったく会話を交わさないままに十分ほどが経った頃、ようやくホステスらしき女性が二人、ワゴンを押しながら部屋に入ってきた。ワゴンには酒の支度が載せられていた。

　ブラウスにゆったりしたスラックス姿の女が茜と名乗り、シャツブラウスとロングスカートの女が菊江と名乗った。
　どちらも年齢は二十代半ばに見えたが、その源氏名とファッションが普通のＯＬと大して変わらないのに反して、彼女たちはなまじのホステスからは決して感じることのできない妖艶さを、全身に漂わせていた。

　もっとも茜が漂わせていたのは、妖艶さだけではない。ニンニクと口中清涼剤の混ざった臭いも、口臭として漂わせていた。
　たとえ嗅覚に劣る人でも、彼女と面と向かって喋れば、その口臭を気にしたはずである。

　茜が椿の隣に座り、必然的に菊江は秋山の隣に座ることになったのだが、驚いたのはその時だ。
　菊江がソファーに腰を下ろした途端、女性特有の汚れた血液の臭いが、鼻腔に飛び込んできたからである。

　秋山は反射的に菊江の顔を見たが、当人はメンスに気づかれたことなど知らない様子で、秋山たちの酒を作っていた。
　　　　
　脚の形と脛毛の剃り跡を気にするオカマは、スカートを穿くときにロングスカートを選ぶことも多いものだが、菊江の場合は、紛れもない正真正銘の女性。

　どこからどうどれだけ見ても、澄み切った風鈴の音を思わせるような、その喋り声を聞いても、菊江がオカマではないことがわかる。メンスが来ていても何の不思議もない。

　ただ、普通のバーやクラブのホステスなら、臭いでそれを客に悟られるような無粋な真似はしないものだ。水商売の女性が普段から香水を使っているのは、そのためでもある。

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（ふーん‥‥）
　知らなかった。
　私も明日から香水をつけることに決め、次の行へ視線を移す。

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　ところが、菊江も茜も香水をつけていなかった。アクセサリーさえ身に着けていない。
　秋山としては、こんな疑問を抱かざるを得なかったのも当然だろう。

《うーん…安物の香水の匂いを振りまいて、アクセサリーをねだるホステスは多いけど、メンスの臭いを振りまいてるような女なんか、ホステスじゃなくてもどこにもいないよな……。みんなできるだけ臭いが漏れないように、早めに手当てをするのが普通だろう……。この感じだと、ナプキンから漏れてるどころの騒ぎじゃないと思うんだよな……》

　それほどきつい臭いであった。
　そしてその臭いは、茜の口臭以上に、秋山の頭を悩ませた。

　菊江一人が特別なのかとも考えてみたが、それだけでは通路にまで漂っていた臭いの説明がつかない。原因をたどってみようがない。

　メンスの語源を英語でたどればマンスリー。よほど周期の短い女性でない限り、月に一回しか訪れない。だからこそ日本でも「月経」と訳された。

　しかも大抵は四日か五日もあれば、経血の排泄を終える。
　仮に菊江のような女性が何人かいても、通常に振る舞っている限り、メンスの臭いが店中にこもるはずはないのだ。

　推理に行き詰った秋山が、椿はそのことにまったく気づいていないのかと視線を向ければ、彼のほうは早くも茜の耳元になにか囁きかけながら、腰に手を回したり、時には下腹のあたりを撫でるようなことをしていた。

　やはりこの『クラブＳ＆Ｓ』はその手の店なのだと、秋山は改めて納得したが、それにしては椿のやっていることも、女たちの服装もおとなしすぎた。
　休憩中のホステスが一時的に呼ばれたのならいざ知らず、月経中の菊江がマダムに選ばれたのも解せなかった。

　秋山が店のサービス内容に見当をつける手掛かりを得られないうちに、菊江が四人分の飲み物を整え終えた。
　そしてブランデーのロックを椿に、バーボンの水割りを秋山の前に置いた。菊江と茜はソフトドリンクだ。

　椿の音頭で乾杯した後、四人はしばらくたわいもない話しを続けていたが、いつまで経っても、女たちは何のサービスも始めてはこなかった。

　事態が進展を見せたのは、秋山が二杯目のグラスを空にした後である。
　椿がテーブル越しに話しかけてきた。

「茜ちゃんがね、秋山さんの隣に座りたいんだそうだ。良かったら座らせてやってよ」
「どうぞどうぞ、光栄です」
　秋山が答えても、茜はすぐには腰を上げなかった。恥ずかしそうに顔をうつむけただけである。

「ほら、茜ちゃんは彼のような男性が好みなんだろ？ 俺に遠慮はいらないから、彼の隣に座らせてもらいなさい」
　半ば命令口調で椿に促された茜は、菊江が腰を上げるのを見て、ようやく席を立った。

　菊江が立ち上がったとき、秋山は彼女の月経臭がさらに強くなっているのを感じた。
　それでも菊江は、まだトイレに立つ気配を見せなかった。

　茜は秋山の隣に腰を下ろすと、空になっていたグラスにブランデーを注ぎ始めた。
　秋山が飲んでいたのはバーボンの水割りだが、原料と香りが違うだけで、腹に収めてしまえば何の違いもない。水割りで飲む洋酒にアルコール度数は無関係だ。

《ビールの水割りを作られてるわけじゃないんだから》
　脳髄が水で薄められていそうな茜の手元を眺めていると、不意に彼女の手の動きが止まった。グラスにミネラルウォーターを注ぎかけた状態で固まったのである。

　人体の六割が水分。残りの四割を不純物とすれば、固まるのも解けるのも早いことは、物理学と化学の違いをうまく説明できない人でも、冷蔵庫でシャーベットを作ろうとして何度か失敗した経験さえあれば。
　誰もが「♪そ〜んなの〜知〜ってら〜い」と唄いだすことはないまでも、「そんなの常識」と口を揃えるだろう。

　実際、茜の手が動きを再開するのは早かった。
　ただ、ミネラルウォーターを注ぐまでには回復せず、グラスの上でボトルを小刻みに揺らし始めたとなれば、それは問題。
　今世紀最大の理論物理学者とも呼ばれる『ロックアイス・シュタイン』でさえ、解くことは叶わない問題である。

　アルコール中毒のホステスが禁断症状を呈したとは思えない。秋山の目は茜の顔へと移動した。
　彼女は瞼を閉じ、小さく開いた唇を震わせながら口で息をしていた。
　それはまさに、耐えている女の表情であり、秋山はそれを十秒以上も無言で見つめた。

「ごめんなさい……」
　茜は声帯の機能も取り戻し、グラスに氷も足し入れたが、その声は明らかに上ずっていた。
　よく見ると、額にはうっすらと汗が滲み、鼻の頭にも大粒の汗が浮かんでいた。顔から首筋にかけては、ほんのりと赤みも差していた。

《この女は、いったいなにを我慢してるんだ？》
　疑問を胸にしながらタバコをくわえると、茜がライターの火を近づけてきた。秋山も上体を少し寄せた。そのときである。
　茜の下腹が大きな音で鳴った。空腹時の虫の音ではない。腸の中をガスが移動する音だ。

　聞き違いではない。茜が「あっ」と慌てたような声を発し、ライターを持ったままの手で腹を押さえたのが、なによりの証拠である。

《何だ、おならを我慢してたのか。それなら早くトイレでしてくればいいものを》
　反射的に抱いた感想だが、それにしては茜の様子がおかしい。
　席を立つ素振りも、ライターの火を届ける様子も見せないままに、顔をうつむかせたまま、肩で息をしながら下腹をさすり続けていたのだ。

　椿と菊江の態度も腑に落ちなかった。二人とも茜を完全に無視していたのである。

　仕方なくタバコに自分で火を着け、しばらくは茜の様子を窺っていた秋山だが、いかにも苦しそうな呻き声まで聞けば、さすがに心配になる。
　声をかけようとして茜の肩に手を置きかけたとき、椿の声が耳に入ってきた。

「秋山さん、ちょっと待って。ここはひとつ、茜ちゃんの可愛らしさに免じて、もうしばらくそのままにしておいてあげてくださいよ」
　女の容姿に特定の好みを持たない秋山でも、茜が美人タイプではなく、ロリータ系の愛くるしいタイプだということはわかる。
　だが、椿に言われたことの意味は、さっぱりわからない。
　椿の顔と、上体をかがめた茜の背中とを、交互に見ているしかなかった。

「わかりませんか。秋山さんなら、その鼻ですぐにぴんと来ると思ったんですがね……。それとも、茜ちゃんにはまだ余裕があるのかな？」
　椿はそう言って菊江に目配せをした。

　菊江はしばらくじっとしていたが、肩で溜息をひとつつくと、ゆっくりした動作で立ち上がり、茜の隣に移動してきた。そして黙って彼女のスラックスに手をかけ、前のファスナーを下げ始めた。

　茜は顔をうつむけたまま、肩でイヤイヤこそしたものの、菊江の手の動きを妨げるような動作だけは一切しなかった。

《何だ何だ、いったい菊江はなにを始めるつもりなんだ》
　予期せぬ展開に、秋山は慌ててタバコの火を灰皿で揉み消した。

「茜ちゃん、ごめんね」
　菊江が小声で謝りながら、グイという感じで茜のスラックスに左手を突っ込んだ。
「あっ」
　茜は小さな声を上げると両手で顔を覆った。
「ああっ…」
　身を揉みながら喘ぐこともした。菊江の手がさらに奥へと進められたからである。
　秋山の位置からも、生地の薄い白のパンティーと、その股の所まで達した菊江の手が見えた。

「どうだい」
　テーブルの反対側から声をかけてきた椿に、菊江が振り向いてコクリと頷いた。

「秋山さん、菊江ちゃんの手の匂いを嗅いであげてください」
　椿の要請を代理として受けた菊江は、茜の股間から抜いた手を、おずおずと秋山のほうへ伸ばしてきた。菊江自身も自分のおこなった行為が恥ずかしいのか、顔を心持ちそむけていた。

　眼前に差し出された手は濡れてこそいなかったものの、秋山はわざわざ手のひらに顔を近づけるまでもなく、匂いの正体を捉えることができた。
　それはまさに、欲情した女が陰部から滲み出させる淫液の匂いだった。

《椿さんは茜にまだ何にもしてないじゃないか……。それに、おならを我慢してた女が、どうして興奮なんかするんだよ……。だけど、茜が濡らしていることを、椿さんも菊江も知ってたしな……》
　秋山の脳味噌が興奮…いや、混乱するのに充分な状況だ。

「まだわからないようですね」
　椿に何と言われても、正直に頷いて返すしかなかった。

「じゃあ、今度は菊江ちゃんの番だ。マダムに持ってきてもらいなさい」
　椿の指示で菊江はすぐに立ち上がり、入口脇の壁に掛けられた電話に向かった。

「菊江です。…………………そうです。……………ええ、茜ちゃんの分も持ってきてください」
　マダムに何を持ってきてもらうのか、秋山には見当が皆目つかない。
　
《わからないものはわからないんだから、なにが起きるのかは見てのお楽しみだ》
　すっかり開き直ったような気持ちでタバコを手にすると、茜がライターの火を差し出してきた。
　菊江の電話に気を取られているうちに、茜はスラックスのファスナーを閉め終えていた。

　しばらくして秋山が短くなったタバコを灰皿に押しつけていると、部屋の外で音が聞こえた。

「失礼いたします」
　マダムがワゴンを押しながら部屋に入ってきた。
　ワゴンには、赤く塗られた大きな木箱と、プラスチック製の黄色い小箱が載せられていた。

「こちらはもうお下げしますね」
　マダムは誰の返事を待つこともなく、テーブルの上を片付け始めた。
　菊江と茜がそれを手伝った。三人とも無言の作業だった。
　
　テーブルの上にあった物すべてが、部屋に置いてあったワゴンに移されたとき、マダムがおもむろに口を開いた。

「菊江ちゃんはきちんとご挨拶するのよ？　言いまちがいにも気をつけてね？　茜ちゃんも、くれぐれも粗相のないように。いいわね？」
　マダムはそれだけ言うと、入ってきたときと同じように「失礼いたします」と挨拶し、ワゴンを押しながら部屋を出ていった。

　マダムの姿は消えたものの、秋山にはまたひとつ新たな疑問が湧いてきた。
　彼女が二人に与えた注意に、まったく納得がいかなかったのである。

　なぜなら菊江はとうに挨拶を済ませた。茜はすでに水割りを作るときに粗相をした。
　菊江の月経臭にしても茜の口臭にしても、粗相の一種でしかない。ましてや茜がガス洩れでも引き起こせば、粗相以外のなにものでもない。
　第一、ホステスに注意を与えるなら、部屋によこす前に済ませておくのが常識というものだ。

「さあ、まず菊江ちゃんから始めてもらおうか。場所は…そうだな、ご挨拶する人は高い所に立つものだから、テーブルの上がいいか。茜ちゃんも手伝ってあげるんだよ？ いいね？」

《ご挨拶？ 手伝う？》
　秋山の思考は椿の指示で中断した。

　指名を受けた菊江は、瞬間ハッとした表情を浮かべ、直後には顔をうつむけたが、やがて覚悟を決めたように、ゆっくりした動作で靴を脱ぎ始めた。
　そして靴を脱ぎ終えるとテーブルに上がり、入口に背を向けるようにして立った。

　菊江がいくら顔をうつむけていても、立った位置は高い。
　ソファーに座る秋山からは、彼女の表情がよく見えた。そしてそれは、羞恥を困惑で包んだような表情にしか見えなかった。

　茜が席を立ち、ワゴンに乗った赤い箱を持ってきて菊江の足元に置いた。

「よし、準備オーケー。菊江ちゃん、始めていいよ」
　椿の合図を受けた菊江は、秋山のほうをちらりと見てきた。

　秋山には、菊江の眼が潤んでいるのがはっきりと見て取れた。
　なにしろ部屋の中は、その手の店には似つかわしくないほどに明るかったのだ。

　それでも菊江がロングスカートをたくし上げていくスピードは、ウサギとの徒競走に楽勝した亀さえも、腰を抜かして驚くほどに速かった。
　仮にストップウオッチで計っていれば、カタツムリよりは確実に速かったはずである。

「ストップ」
　競技進行係と公式審判員を兼ねたような椿の声で、菊江が慌てたように手を止めた。
　スカートの裾の動きも、膝の少し上で時間を止めた。

「秋山さんは、僕の大事なお得意様だ。失礼のないようにご挨拶してくれよな」
　場の主催者は椿。横柄とも言えそうなほどの口調だったが、ホステスにとってみれば来賓。それも椿が注文したブランデーより、遥かに高そうなイメージの『ＶＩＰ』級だ。

　菊江は肩幅ほどに両足を広げた。そして心持ち顔を上げ、大きく息を吸って吐いた。

「秋山様、ようこそいらっしゃいました。今日は菊江を同席させていただいて有難うございます。でも、あいにく菊江は……」
「あいにく菊江はどうしたんだ」
　口上が途切れた途端、椿が厳しい口調で先を促した。

「菊江は昨日から、メンスが始まったものですから、秋山様にご満足いただけるようなサービスはできません」
《何てことを言いだすんだ》
　口にも出せず、あっけに取られていると、菊江がまたひとつ大きく深呼吸して、先を続けた。

「メンスで…秋山様には、何のサービスも…ご提供できないばかりか、今日はずっと…忙しかったものですから……ダッ…ナプキンを……メンスでひどく汚れたダ…ナプキンを……取り換えることが、できませんでした……。ですから……」

　よほど恥ずかしかったのだろう。菊江の顔は見るみるうちに真っ赤に紅潮していった。
　途切れ途切れに喋るその声も、所々が聞き取れないほどに小さくなっていた。

　いくら相手が客とはいえ、とうに成人した女が初対面の男に対し、それも面前で、メンスになっていることをみずから告白した。しかもナプキンの状態まで口にしたのだ。
　秋山が固唾を飲み、菊江の次の言葉を待ったのは言うまでもない。

　少し間があって、菊江が再び口を開いた。
「……ですから…秋山様も…きっと菊江の……あの……メンスの臭いが、くさくてお困りだったと思います……」

　確かに菊江の月経臭には困らされていた。ただしそれは、決してその臭いが嫌いだから困っていたという意味ではない。

　秋山は月経臭にしろ便臭にしろ、どう間違って転んでも、決して好きとは言えないが、絶対に嫌いというわけでもない。どんな悪臭の中にも、ほとんどと言っていいほど、香水と共通する香りの成分が含まれているからだ。

　ことに動物性の香水などは、言わば動物の排泄物が原料である。それを念頭に置きながら臭いの本質を嗅ぎ分ければ、秋山には経血や便の臭気と香水の香りとの間に、それほどの差異があるとは思えない。
　
　秋山が困っていたのは、なぜ月経中の女が相手をしているのか、どうして月経臭を抑える手だてを講じないのか、そうした疑問が解けなかったからである。
　だが、疑問を解く手掛かりは、菊江自身が与えてくれつつあった。
　秋山は五感を研ぎ澄ましてご挨拶の続きを待った。

「ほら、どうした。秋山さんが困っているじゃないか」
「はい…すみません」
　菊江が謝った相手は椿である。秋山はダシにされた格好だが、なにも問題はない。
　問題が解ければ、いや疑問が解ければいい話しだ。

「どうか秋山さま遅くなりましたがこれからすぐに新しいダ…ナプキンに取り換えますのでお気を悪くなさらずに菊江をお許しください」
　蚊の鳴くような声で一気にご挨拶を締め括ると、菊江はスカートをさらにたくし上げた。

《！！》
　視線が菊江の股間に釘付けにされた。秋山自身、両目が点になっているがわかった。
　点の大きさは、五寸釘の頭ほど。
　釘を上下逆さにすれば、感嘆符とそっくりだから、ひとめでわかる。

　菊江のパンティーも、色だけは茜と同じ白だった。だが、素材に綿を使ったそれは、恥丘の下あたりから尻にかけた一帯が、経血に赤く染まっていた。

　しかも空気に長く触れていたために、鮮やかな血の色はほとんど見られず、大部分が赤褐色に変色していたのである。
　秋山の鼻が経血の臭いに悩まされたのも、目が点になるのも当然と言えた。

　昔は誰もが月経帯ないしメンスバンドと呼び、羞恥心から異性の耳を気にする女性と、異性の気持ちを汲む優しい男性からは、単に『バンド』とまで略されていたものが、時代とともに生理帯へと名称を変え、近年ではサニタリーパンティーと称して売られることも多い『専用の下着』は、秋山も何度か目にしたことがあった。

　しかし、菊江が穿いていた下着は違う。どう見ても普通のパンティーで、月経用ではなかった。

《いったいこの女はなにを考えてるんだ……。昨日からメンスが始まったんなら、今日が二日目ってことだし、二日目といったら、経血の量が一番多い日じゃないか……。それなのに普通のパンティしか穿いてないなんて、今の女にとってはそれが当たり前なのか？》

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（もう‥馬鹿。なにが当たり前よ）
　私の同僚で年長の後輩などは、「アレの２日目はやっぱり心配だからさ、お店ではアレも重ね穿きしてるの」と言っているほどだ。

（でも、どうせ作り話しだから）
　そう思って割り切らなければ、これ以上、先を読み進めるのは無理。
　すでに私の脳味噌は、生理が始まる寸前の子宮状態‥‥という例えは正しくないけれど、今にも血管が切れて出血しそうなのだ。

　次の行へナプキン‥‥ではなく視線を‥‥ずらそうとしたら、横に誰かが立った。
　おなかの大きい妊婦さんだ。

　電車の中でなくても、場所を譲らないわけにはいかない。脇にずれ、妊婦さんに少し背を向けるようにして立ち読みを再開する。