〔１−２♂：買物中の男性　３０歳〕

　少し気取った感じの女性店員さんが、ショーケースからファッションリングを取り出した。リング全体に小さなダイヤをあしらったデザインだ。

「こちらのコン‥ゴンドームのリングなどはいかがでしょう」
「ねえ、どう思う？　３０万なんだけど」
　嫁さんが、笑いを堪らえながら振り返ってきた。

　ここで僕が「彼女の頭の中には、コンドームが１グロスと避妊リングしか入ってなさそうだし、パンティーの内側もゼリーを塗りたくったような状態だろうから、どんなに高く見積もっても、せいぜい３万円だね」などと答えたら、嫁さんに離婚を迫られる‥‥ことはなくても、店を出た途端に責められる。
　場合によっては、嫁さん一人で洋服を買う予定を急遽変更し、罰として僕を、真っ昼間からラブホテルに連れ込む可能性もないとは言えない。

「そのブランド、人気があるのかな」
　笑いだしそうになるのを堪らえ、ショーケースの中を覗くふりをしながら尋ねると、店員さんが説明を始めた。

「じゃあ、それをください。支払いはこれで、１回払いでお願いします」
　店員にクレジットカードを渡した。
　支払い額は金５５万円也。嫁さんは結局、デザインモチーフがギリシャの美術品で、素材のほとんどに“金”が使われているのが特徴という『ゾロメダス』のリングを選んだのだ。

「ありがとうございます。ところで奥様は、お式を挙げられたとき、ブライダルリングの交換はなさいました？」
「ええ、ごく普通に」
　嫁さんに背中を向けておく。この２０代半ばの店員が、もし僕の予想通りのことを言ったら、もう我慢していられないからだ。

「それでしたら、この場でご主人に嵌めていただいたらいかがでしょう。そうすれば、ご結婚された日のことが」
「いえ、結婚記念日は明日ですから、嵌めてもらうのは明日の晩にします」
　今の嫁さんの返事は、店員に釣られたのではない。明らかに僕に聞かせるのが目的だ。
　おかげで僕も、吹き出さずに済んだ。

　宝石貴金属の専門店を出た所で、嫁さんと別れた。僕の向かう先は、同じフロアにある『有名堂書店』だ。
　嫁さんの洋服選びに延々と付き合わされるより、好きな本でも立ち読みしたり、気に入った本があれば、それを買って帰るほうが、お互いのためでもある。

（しっかしなあ‥‥）
　それにつけても今の店員は傑作。あれがもし男なら、まちがいなく名前は『ヌケ作』だろう。
　なにしろ『ゴンドーム』の説明をするときに、やれ「パリの“サントイレ”にアトリエが」だの、やれ「アーバンギャルな作品が得意」だのと言ったのだ。

　僕は新婚旅行にハワイへ行ったくらいなもので、外国のことはよく知らないけれど、いくらパリが芸術の街だからといって、アトリエを兼ねたサンルームのようなトイレがあるとは思えない。
　また都会のギャル向きにデザインされた指輪なら、『ダサイ玉』と呼ばれる地に安住し、年齢も僕よりみっつ上の嫁さんには、とうてい似合うわけがない。

　結局のところ、あの店員は『アーパーギャル』が１０歳ほど年を喰っただけ。彼女にかかれば、アメリカの高級百貨店も、おそらく店名を『コーマンカーマス』に変えられる。そして傘のマークのついた商品のブランドは『アノ・オールドパーマン』と呼ばれることだろう。

（ん？）
　本屋から、顔見知りの女性が出てきた‥‥と思ったのは、たぶん僕の見まちがい。
　今はもう、腰を振るようにして歩く後ろ姿しか見えないけれど、僕の知っている『カガミちゃん』は、あんな歩き方をしない。
　第一、もし彼女がカガミちゃんなら、ほんの一瞬とはいえ目が合った僕に、何の言葉も掛けてよこさないのは不自然。ましてや顔をそむけたりするような真似は、絶対にしない筈。
　なぜなら僕は、彼女の働く店の、たぶん１番の上得意だと思われるからだ。

　いくら腰の振り方が色っぽいとはいえ、後ろ姿をただじっと眺めていても、彼女が僕の所まで戻ってきて、「奥さんのお買物が済むまでの時間、３万円で私を買いません？」などと誘ってくれる可能性は、１万円札３枚にお湯をかけて３分待つだけで、３億円に増える可能性よりなお低い。

　そもそも腰を振って男を誘おうとするなら、スラックスを穿くより、ピチピチのホットパンツ、あるいはタイトスカートや逆にフレアースカートのほうが効果的。それくらいのことは、たぶん女性なら常識だろうと思えば。
　どこでも見かけるスラックス姿の女性を、もの珍しそうに眺めているより、１冊３００円程度の本の背表紙を眺め比べ、今日はどちらの作家を選ぶか、早く決めたほうが自分のためだ。

（さてと。どっちにするかな）
　超官能小説の文庫が収められた棚の前に立ち、御手洗盥と野々口英世の小説タイトルをざっと読み比べる。

　まず御手洗盥のほうは‥‥『ケツをまくった変態は大変』の‥‥。

『第１章：金髪碧眼の妻を持つ日本男児の場合』
『第２章：泣きボクロのある独身美女達の場合』
『第３章：二枚舌を巧みに操る営業マンの場合』
『第10章：並外れた嗅覚を持つ優しい男の場合』
『第19章：事の大変さに気づかない愚者の行末』
『最終章：事の大変さに気づいた賢者達の結末』

　以上６点だ。これでは読んでも意味はない。

　僕はすでに第１章から第９章までのそれぞれについて『完結』を読んだ。第１０章の『並外れた嗅覚を持つ優しい男の場合』も、『上巻』までは読んでいる。
　もし『中巻』がここにあれば買うけれど、あいにく下巻と完結しか見当たらない。

　下巻と完結を買えば、どうしたって読みたくなる。読めば中巻を読むときの楽しみが、大幅に減ってしまう。同じ理由で、第１９章や最終章は、立ち読みさえする気になれない。

　例えばスポーツの試合を観戦するとき。先に経過や結果を知っておきたいと望むような人は、誰もいない筈。もしいるとすれば、それは推理小説を選ぶ際に、結末や真犯人がわかる頁を読んでから決める人と一緒。僕に言わせれば、スポーツ観戦の楽しさ自体を知らない人。
　スポーツ新聞の記者たちにしても、仕事を離れれば、決してそんなことは望まないはずだ。

　一方、野々口英世のほうは‥‥‥‥タイトルがふたつしかない。
『ＳＭ趣味でも息子はＬＬ（プロ雀士：チョンボ大崎）』と『タライを使って大腸の洗濯（アイドルタレント：（中川美保）』だけだ。

（まあ、野々口さんはまだ新人だし、それはそれで仕方がないけど‥‥）
　どうするかが問題。

　御手洗盥の小説は、『ケツをまくる変態は大変』の他にもたくさん出ているのに、この店には置かれていない‥‥というより、たぶん売れてしまったものと思われる。
　たった今も、学生と思われる若い男の子が、その第２章の上巻から完結までの４冊を、まとめて棚から抜き出していった。

　そうなると僕に残された選択は、プロゴルファーを目指していた男が夢破れ、プロの雀士として生きていく『ＳＭ趣味でも息子はＬＬ』の第６章から最終章まで、計５冊を買って帰るのは“決まり”としても。
　新刊の『タライを使って大腸の洗濯』をどうするかが迷うところ。
　第１章があればそれも買っておきたいところだけれど、今ここにあるのは、２章と５章と８章９章の各１冊ずつだけ‥‥だったのが、こうして迷っている間にも、８章と９章が持ち去られ、２章までもが、少し離れた場所で立ち読みを開始されてしまえば。

　僕も迷っている暇はない。『タライを使って大腸の洗濯』の５章を棚から抜いて、長考に入る。
　特別な場合を除けば、アマチュアが碁を打つときに長考するのはマナー違反だけれど、ここで長考に入っても、誰にとやかく言われる筋合いもない。

（よし、決めた）
　小考しただけで結論が出た。
　５章だけでも手に取れたのは、九死に一生を得たようなもの。野々口英世の小説も、御手洗盥に負けず劣らずの長さ。物語の先が読めない点も両者は共通。５章を予告編だと思えば、少しくらいは読んでも問題がない。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▽

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　〔第一項〕

　頭が重い。眠り足りないのだろうか。脳細胞の大半が働きを止めたままだ。
　身体も重い。激しい運動でもした後なのか。何となくだるさを感じる。
　動けない。手も脚も自由に動いてくれない。瞬きはしているはずなのに、何の光も入ってこない。
　いったい自分は今、どこでなにをしているのか……。

　美保はわずかに働いている脳細胞を使うことで、いったん全身の力を抜いた。そして改めて瞼の筋肉に力を込めた。
　大丈夫だ。目の周りに皺が寄っているのが感じ取れる。

　今度は開いてみる。問題ない。なにも見えないが、確かに瞼は開いた。
　次は手の指を動かす番だ。握ったり開いたりを何度か繰り返すうちに、脳細胞と神経細胞の働きが活発になっていく。

《ここ、車の中…よね》
　エンジン音は聞こえない。だが、微かに身体の感じる震動と、平衡感覚を司る器官が、美保に車の中だと教えている。

《私…喋られなくて……目が見えなくて……手と、足も縛ってあって……何でこんなことされてるわけ？》
　口には猿轡が嵌まっている。目が見えないのは目隠しのせいだ。両手は背中で縛られて…いや、厚い皮かなにかで作られた、手錠のような物が嵌められている。
　足首を拘束している物も、似たような物かも知れない。

《これって…まさか…誘拐？》
　もしも誘拐されたのなら、そのときの状況を思い出しておかしくない。美保は記憶を辿り始めた。

《撮影が夜に終わって…打ち上げは途中で抜けたでしょう？　そのあと家には一人でタクシーで帰ってきて……そうそう、車を降りたら、マンションの前の歩道に女の人がいたんだわ》

　茶色っぽい髪の、美保より若そうな女性だった。彼女はガードレールの切れ目あたりにしゃがみ込み、おなかをさすっているように見えた。そして美保を乗せてきたタクシーが走り去った途端、彼女は車道にごろりと倒れてしまったのだ。
　いや、彼女は倒れただけではない。呻き声も聞こえた。

　急病か怪我か、美保はそのどちらかだと直感した。そばに駆け寄り、大丈夫ですかと声をかけた。
　彼女は苦しそうな声で、助けて…と呻いた。そのひと言で、美保の頭はパニックを起こした。

　事情や症状を聞くのが先か。大声で誰かを呼ぶべきか。公衆電話で救急車かパトカーを呼ぶほうが早いのか。
　うろたえていると、すぐ近くに人の足音が聞こえ、どうしたんですかと尋ねられた。

《あれ、確か男の人の声だったけど……あ、そうよ、誘拐に間違いないわ》
　美保の心臓が急激に鼓動を速めた。
　声をかけてきた男を振り向いて、会話を交わそうとした途端、複数の人間に押さえつけられ、口をなにかで塞がれたのだ。
　記憶はそこまでしかないから、たぶん麻酔薬のようなものを嗅がされたのに違いない。

　またパニックに陥りそうだ。しかし、落ち着かなければならない。幸い呼吸は確保できている。
　美保は同乗しているはずの犯人に気づかれないように、静かな深呼吸を始めた。
　何度か深呼吸をおこなってはみたものの、心臓の鼓動は鎮まらない。だがそれでも、何とか考え事だけはできそうだ。

《私…何で誘拐なんかされたんだろう》
　新聞やテレビの報道で知る限り、誘拐事件で最も多いのが、身代金を目当てにしたもの。
　しかしそれが目的なら、美保を誘拐するだろうか。

　一般に犯人が身代金を要求する相手と思われる両親とは、離れて暮らしている。岡山の実家の電話番号を、犯人が知っているとも考えにくい。犯人たちがよほどの組織でもない限り、美保の所属するプロダクションと交渉するのは難しいはずだ。

　二番目に考えられる目的は…あまり考えたくない。
　芸能界がどんな世界かも知らずに入って十年。今も恨みを抱く相手は何人もいるが、当人たちには美保に恨まれている自覚さえないだろう。
　もちろん人の恨みを買うような憶えはない。三年前に売れ始めて以来、週刊誌には有ること無いこと山ほど書き立てられてきたものの、その記事の中に“美保を恨む人”は、たとえ匿名でも一人として登場したことはないのである。

　二十六歳となった今。もう少しで『一流芸能人になる』という願いが叶う所まで来た。幸せな結婚を夢見てもいる。
　それだというのに、どこの誰だか、どんな人物かもわからない犯人に殺されたのでは、化けて出ることさえ叶わない。あまりにも自分が気の毒すぎる。

　ただ殺人自体が目的なら、とうに殺されていて不思議はない。
　誘拐されてから何時間経ったのか、その点は不明であり、確かめる術もないが、無人の倉庫や山の中といった場所なら、それほどの時間をかけずに到着できそうだ。

《そうよ、こうやって移動してる間が、犯人にとってはいちばん危険なんだから》
　美保は懸命に脳細胞を励まし、ニュースやドラマで得た乏しい知識と情報で、最も恐ろしい目的を頭の中から叩き出す。
　そうでもしなければ、またもやパニックに引きずり込まれてしまう。

《えーと…他の目的は……》
　三番目の目的が思い浮かんできた。これも恐ろしい。頭の中から追い出したい。
　だが、もう無理だ。
　脳細胞をさらに勇気づけようとした途端、忘れ難い記憶がまざまざと蘇ってきた。
　人体実験を受けたにも等しい実体験であり、それも一年の間に三度も強いられた屈辱的な体験だけに、生半可な知識や情報より、脳味噌に深く刻み込まれているのだ。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　〔第二項〕

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▼

（えーと、さすがにここは飛ばさないとダメだよな）
　サスペンス映画の予告編でも、クライマックスシーンを見せてくれることは有り得ない。映画ファンなら常識だ。
　美保ちゃんが過去にどれほど屈辱的な体験を強いられたのか、今ここでそれを読んでしまったら、後の楽しみが減ってしまう。

　次の『第三項』まで頁をめくる‥‥だけでは、たぶん足りない。
　この野々口さんも“盥さん”と同じで、やらせ始めたら止まらないタイプ。美保ちゃんの３度の体験が、各項ごとに分けられているのは明らか。

（ということは‥‥）
『第五項』まで頁をめくり、そこからまた読み始める。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▽

　物音で確かに人の気配は感じられるのに、それが誰なのか、目でも耳でも確かめられない状況というのは、じつに不安なものだ。しかし、今の中川美保が襲われている不安に比べれば、まったく大したことはない。

　美保の場合は、意識を取り戻した時点からずっと、目隠しと猿轡ばかりか、両手両足の拘束まで受けており、さらには自分が誘拐されたと知ってしまったからだ。

　いったい誰に誘拐されたのか。実行犯の人数を含め、ほとんど手掛かりが得られていない。犯人の顔さえ、ただの一人として見ていないのだ。

　誘拐の目的はなにか。美保は怯える脳味噌を精一杯に励ましながら、すでに分析を進めてきた。
　とはいえ、目的は恐怖を少しでも和らげことにあるから、自分に都合良く考えてきたのは言うまでもない。

　殺人自体が目的の可能性は完全に消えた。誘拐されてからの経過時間は不明だが、とにかく今も、絨毯の上に足を投げ出した格好で生きている。

　身代金が目的でもなさそうだ。
　美保はマンションに一人暮らし。犯人が身代金を要求するなら、その交渉相手は両親になるはずだが、実家の住所や電話番号を犯人が知っているとも考えにくい。それにもかかわらず、美保はまだ実家の電話番号を教えろとも、電話口に出ろとも言われていない。

　そして今、ようやく目隠しと猿轡が外された。
《すーふー》
　少し深めの呼吸で動悸を抑え、美保は絨毯の上に尻をついたまま、椅子に掛けた三人組の男女を見回した。

　サングラスを掛けたスリムな男。パンチパーマを掛け、顔中がニキビだらけの大柄な男。そして小柄で茶髪で、顔を真っ黒に日焼けさせたガングロの女。三人とも美保より年が若そうだ。

　身なりも垢抜けている。殊にサングラス男とガングロ女の衣服は、軽装なのにかなりの高級品であることが、遠目にも窺える。
　ふたりともチャラチャラしたアクセサリーを、なにひとつ身に着けていないために、却ってファッションセンスの良さと、身にまとっている洋服そのものが持つ価値が、際立ってくるのだろう。

　ただパンチ頭の男にしても、決してセンスが悪いということはない。太い首に巻かれたゴールドの太いネックレスが、豪華なワンポイントアクセサリーとして、実によく効いている。

　それらが盗品でもない限り、いや、そうしたファッションと、センスを磨くことに金を注ぎ込み過ぎたのでなければ、とても身代金を目当てにした凶悪な誘拐犯には見えない。

　結論が出た。
　解放してもらうためには、虚勢を張ってでも高圧的な態度に出るのが一番の筈。美保は自分の判断に誤りのないことを願って口を開いた。

「あなたたち、私にこんな真似して、どうなるかわかってるんでしょうね」
「もちろんわかってるさ。なあ、ゴローだってわかってるよな」
「当然じゃんか」
　サングラス男に、パンチ頭が答えた。
　パンチ頭の年は、せいぜい二十歳をふたつかみっつくらいしか過ぎていない。サングラス男にしても、パンチ頭の遊び仲間であり、互いにタメグチを利いていることを考えれば、おそらく年は一緒だと思われる。

「それならゴローから教えてやってくれよ。中川美保さんには、全然わかってないみたいだからな」
「わかった。俺だってそんくらいはできるからな」
　パンチ頭に顔を向ける。目が合ってしまった。美保は思わず視線をそらしそうになったが、どうにか堪らえることができた。

　ここでひるんだら負けなのだ。
　美保は眼球周辺の筋肉と神経に力を込め、大柄な敵の目を無言で睨み続ける。銃を持たない者が虚勢を張るためには、ガンを飛ばすしかないのである。

「いいか、よく聞いとけよ？　たぶんあしたとか、遅くてもあさってとかのワイドショーみたいなやつで、中川美保が謎の失踪、恋人と駆け落ちか、なーんていう特集みたいなやつをやるんだ」
　確かにそういう事態も生じるだろうが、美保の期待した答えとは全然違う。

「ねえ、ゴロちゃん。そんな説明したってさー、この女には絶対わかんないんじゃん？」
　短い前髪を手で揃えるようにしながら、ガングロ女が口を挟んできた。美保にはいくらガンを飛ばしてみても、ガングロ女の言っていることこそ、意味がわからない。

「どうしてだよ」
「だってこの女はさー、テレビのコマーシャルだと、ビデオのリモコンなんかいじくってるじゃん？　だから頭良さそうに見えるけど。アタシ絶っ対、この女は男のチンチンしかいじれないと思うんだ」
　ひどい。いったい何ということを言うのだ。人を侮辱するにも程がある。
　美保の脳味噌は一瞬で煮えくり返り、顔面まで紅潮した。

　ガングロ女は小柄な上に、かなり前髪の短いオカッパで、顔立ちも子供っぽい。爪だけは長く伸ばし、派手なマニキュアを塗っているものの、どう見ても高校生くらいにしか見えない。少なくても美保より五つは年下の筈。

　マニキュアの色を右手と左手とで異ならせてもいるから、ガングロを色白に戻せば、友人の歌手、坂本恵理と見誤る人もいそうだが、性格だけは彼女とまったく違うと判断できる。
　間違いない。美保は確信を持った。

「そんだったら、デコならどうやって説明すんだよ」
「だからね？　一週間くらい経ったら家には帰してやるんだけどー、ひと月くらい経つと、パパたちが読む週刊誌に、中川美保が出てる裏ビデオ発見とかいう記事が載ってー、それからまたひと月とか経つとー、今度は絶対、中川美保を産婦人科の病院で見かけたっていう記事が出てー、子供を堕ろしたっていう噂がー、芸能界にも広がるんだよ」
　そうした根も葉もない噂なら、すでに何度も立てられた。
　だが、噂を立てるためだけの目的で、わざわざ誘拐までする人はいない。

　美保は顔から血の気が引くのを感じた。これから先、我が身にどんなことが起きるのか、ようやく理解できたからだ。

「でもほんとはさーあ？　噂なんかじゃなくてー、毎日毎日、ヒロちゃんとゴロちゃんが、代わりばんこに…かどうかまでは、アタシも知らないんだけどー、毎回、生でやって中出しもするからー、それって絶っ対、ほんとの話しになるんだって、そう言ってやんないと、絶対絶対、マジにわかりっこないに決まってんじゃん」
　やはり予想通りだった。
　たとえ被害を警察に訴え出たとしても、結果的に失うものは自分のほうがずっと多い。

　唯一の救いがあるとすれば、生理の近いことだ。予定ではあと五日か六日で始まるから、妊娠の可能性は低い。また、男二人の目的がセックスにあるのなら、生理が始まった時点で、解放してもらえるかも知れない。
　ただ、それならどうして、ガングロ女がメンバーに加わっているのか。まさか、美保の生理の手当て担当などということは……いや、もしそうなるのだとしたら、事態は最悪を極める。

「へーえ…そうやって説明すれば良かったんか。デコって、けっこう頭いいじゃんか」
「頭だけ？」
「そんだって、顔もスタイルも、中川美保のほうが全然いいじゃんかよ」
「おいおいゴロー。そんなことは秀子だってわかってるんだよ」
「そんだったらどう言えば……あ、そうか。デコ、悪い。デコの場合、スタイルはあんまし良くないけど、顔はまあまあ良くて、あそこの締まり具合はかなりいいからな」
「でしょう？　こんな女なんか、どんだけ気取ってたって、絶っ対、性格悪いし、ユルユルのガバマンで、締まりも全っ然、悪いに決まってんだから」
「ほんとかよ」
「そうだよ。芸能人の女にヤリマンが多いのは、みんな超性格悪いし、すっごいやりたがりのくせして、ユルユルのガバマンで締めるのも全っ然、超ヘタッピだから、一人の男と長く続かないせいに決まってんじゃん」
　どれも恐ろしいほどの決めつけだ。

「へーえ…そうだったんか……。やっぱしデコって、かなり頭いいわ」
「それにこの女は、ビールのコマーシャルにも出てんじゃん？　だから一人のときは、いっつもビール瓶使って、絶っ対、オナニーしてるに決まってんだから」
「なに言ってるのよ！　そんなこと、するわけないじゃないの！」
　ひどすぎる。思わず怒鳴ってはみたものの、あまりの屈辱に美保の全身はわなわなと震え始めた。

「だってガバマン専用みたいな、そんな超太いバイブとか、絶対売ってそうもないじゃん。だけどビールのいちばんおっきい瓶なら、太さだって十センチくらいあるじゃん」
　返す言葉もないというのはこのことだ。ガングロ女の発想は、美保の理解を十メートル以上も超えている。

「それともあんたの場合、ちょっとでもガバマンの締まりが良くなるように、マジで膣圧計とかいうやつも一緒に突っ込んで、締める練習しながらオナニーしてんの？」
　胸が痛む。たぶんこの痛みの強さは、性器を無理やり拡張されるとき以上のはずだ。

「だけどそんなことしたって、膣圧計の目盛とか気になって、いっくら超愛用のビール瓶でオナニーしても、瓶が超ヌルヌル滑るだけで、いくまでに超すっごい時間かかるんじゃん？」
　ガングロ女の口撃がやんでくれない。美保の自尊心は傷つくばかりだ。

「あそっか。ヤリマンでガバマンだと、いくまでの時間は、突っ込むやつの太さに反比例とかして、すぐにいっちゃうんだね。だからいっくら締める練習しても、全っ然、超意味がないから、ユルユルがどんどんひどくなって、超ガバマンになってくんだ」
　怒鳴ったのは超失敗だった。このガングロ女は、ひと言でも言い返すと、その何倍もの言葉を返してくるタイプだ。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▼

（へーえ）
　初めて知った。
　僕の周りに、形容詞や名詞の前に「超」を付けて喋る人はいない。歌番組に出てくる若い歌手の中には、かなり日本語が乱れている子も多いけれど、誰も「超ナントカ」などとは言わない。
　顔を黒々と日焼けさせた状態を「ガングロ」と略すのも、非常にわかりやすい。

　色黒だの地黒だのと言われれば、言われたほうは傷つく。まだまだ日本では、白が最良の色という誤ったイメージを持つ人も多いからだ。

　またそういう人に限って、１０年ほど前に使用が禁止されたチクロを、甘さは砂糖の３０倍で、旨さも砂糖の１００倍あるから「俺はチクロに３０００点！」などと、テレビのクイズ番組を思い浮かべながら馬鹿なことを言うのだ。

　発癌性や催奇形性の疑いがある食品添加物を、使っていいわけがない。それでいながら、いざ自分が癌に侵されたと知ると、厚生省の役人気取りで「俺は知らなかった」と言い訳をする。
　こっちは堪ったものじゃない‥‥などと、僕らしくもなく腹を立てたのは、「腹を立てれば息子も鎮まる」という“盥さん”の格言に、事前に従っただけに過ぎない。

（そうか、これからは超流行するのかも知れないんだし）
『鉄漿』という漢字に、いくら『オハグロ』なんてルビを振っても、今の若い人にはほとんど理解できないんだから、せめて『歯黒液』とか『お歯染め』に変えれば、また流行するかも知れないのにな‥‥と、時代劇を見るたびに、口癖のように言っていた商売熱心で且つ、晩年はすっかり時代に遅れていたジイチャンに、僕があの世で土産話しとして聞かせてあげるためにも。

　決して忘れることのないように、脳味噌の皺として「超」と「ガングロ」を超深く刻んでから、次の行へと視線を超速く移動させる。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▽

「ほら、アタシの言ってることが違うんなら、何か言ってみなよ」
　言えない。言いたいことは山ほどあるが、もうこれ以上、侮辱されるのはいやだ。
　たとえ言ったとしても、声が震える。
　美保には唇を噛み締めているしかなかった。

「ほーらね？　やっぱこの女は、絶対ユルユルの超ガバマンで、締まりも頭も超ー悪いんじゃん」
　得意そうな口調が憎たらしい。後のほうの『超』を、長く延ばされたのも癪に障る。
　あえて救いを求めるとすれば、これまでは何度となく「ぜぇったい」と全力を込めて言われていたものが、今回は普通に「ぜったい」と発声してくれたこと、それだけだ。

「それじゃそういうことで、まず締まり具合から確かめてやるか」
「なあヒロミ、バックからやるんだろ？」
「ああ、バックでやったほうが楽しめるからな」
　小柄なほうのサングラス男が答えると、体格のいいパンチ頭は椅子から立ち上がり、ジーンズを脱ぎ始めた。
　美保は床の上に尻をついたまま、震える身体を固くした。足首を縛られ、後ろ手に手錠まで嵌められているから、他にできることがない。

「ねえヒロちゃん。アタシにもおもしろいことやらせてくれるって言ったじゃん……。それって、いつやらせてくれんのー？」
　二人の男から、何度となく犯されるだけでも耐え難いというのに、ガングロ女は恨めしそうな口調で、恐ろしい言葉を口にした。
　だが、サングラス男はそれに答えることなく、無言で部屋を出て行った。

「ねえ…ゴロちゃーん……。一週間、ただ何十発もやり続けるだけなのー？　そんなんじゃアタシ、つまんないよー…」
「心配すんなって。そんだけで終わらせたんじゃ、デコだって気が済まないだろう？　だから今も、ヒロミはやる前に何発もやらせて、俺たちを楽しませてくれるんじゃんか」
　ジーンズをブリーフごと脱ぎ捨て、Ｔシャツ一枚になったパンチ頭が、絨毯の上に大きなクッションを敷いて、どっかりと胡座をかいた。

　全身が見事に引き締まっているのを見れば、なにかのスポーツを趣味にしているか、あるいは普段からジムにでも通って、身体を鍛えているものと思われる。
　そしてその股間を……見たいわけがない。
　美保は反射的に瞼を閉じて顔をそむけた。だが、それにもかかわらず。

　網膜がすっかりビデオフィルムと化してしまい、瞳孔から水晶体を通じて送られてきた生々しい映像を、残像に変える作業を忘れているせいで、美保は今も、もじゃもじゃに生えた真っ黒の剛毛と、その中央で、どす黒い陰茎がそそり立っている姿を、録画中継で見させられている状態だ。

「ねえ、それって、どういうこと？」
「教えてやんから、こっち来て耳貸せよ」
　わざわざ内緒話しなどされなくても、これからやらせられることには想像がつく。
　サングラス男に後背位で犯される前に、パンチ頭に対するフェラチオを、何度も強要されるのだ。

「嘘嘘。ねえ、マジ？　マジで？」
　ガングロ女の口調は喜びに溢れている。美保としては、耳を塞げないのがつらい。

「えーっ…嘘ー、マジー？　マジでそんなことまですんのー？　そんなことしたら、マジで超超ヤバイんじゃん？」
　ガングロ女の驚き方は、とても尋常ではない。
　ニキビヅラは一体なにを囁いたのか。美保の不安と恐怖がさらに膨らんでいく。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　▼

（ふーん‥‥マジねえ）
　文脈から判断すれば、この「マジ」は「真面目」の略。これもマジに憶えておかないとマジイ‥‥いや、まずい。
　近い将来、恥をかかないためにも、「マジ」も脳味噌に超マジ深く、超マジに刻んだうえで、マジに先を読み進める。