（３１）

　美貢の歯を鳴らす音が微かに聞こえてくる。
　裕二は、煙草を取り出し美貢の震えが止まるのを待った。
　１時間程経っただろうか美貢が小声で囁く・・・

「・・ご・・・ごめんなさい・・・・私・・・・やっぱり・・・」
「落ち着いたかい。」
「・・・ぇ・・ぇぇ・・」

　裕二は、立ち上がって車に戻るとサイレントチェロをトランクから取り出し美貢の座るベンチに戻った。

　サイレントチェロは、弦楽器独特の音を電子的につくってブリッジの底部に埋め込んだ内蔵ピックアップが弦の振動を拾いデジタル信号処理によって残響効果をつけ、チェロ本来のボディの共鳴音やホールの響きを再現するものだ。

「・・こ、香坂さん、・・・それ何ですか？・・・楽器？」
「ああ、チェロさ。普通のチェロはデカすぎて、俺の車に乗らないからこれを持ってきたんだ。」
「え・・・」
「ま、君のリラクゼーションに役立てばと思ってね。」
「・・・・・・」

　裕二は、美貢の不思議そうな顔を見て不安が過ぎった。

（おい、亜美・・・なんか不安そうな顔してるぞ・・・）

　裕二は心の中で思った。
　亜美の具申で、この間、弾いた音楽を聞かせた後、完全なリラックス状態を確認して、美貢の身体に触れてみたらと言われたのだ。
　亜美曰く、裕二という人間に美貢を惚れさせろというわけだ。

　裕二の何故？という疑問に亜美は、低音の音楽は幻想を作り出すのに効果的だという。
　まず、不感症を治す前に男性恐怖症を取り除く事が先決であると・・・・
　裕二は亜美の言葉を思い出しながら少々躊躇した。

（返ってフラれるんじゃねぇか・・・今時、こんなキザな事をする奴いるかな？）

　裕二は疑問に思いつつもベンチに浅めに座りなおすとチェロを構えて弓を弦に当てた。
　裕二の弾くチェロからは、静かに、そして優雅にラブリピーションを含んだ音が奏で始める。

　じっと海を見つめながら耳を澄ます美貢・・・・
　暫く聞いているうちに美貢の頬が、赤みを帯びてきた。
　裕二は、極力、感情をこめながら弦を操ることに徹していく。

　次第に、美貢の背中が抜け殻を排すように美しく起立していく・・・・
　そして、エンディングライトに反射した雫が美貢の頬を伝っていた。
　裕二は薄目を開け美貢を確認した。

（お・・・意外といい線いってるかも・・・・）

　裕二は、さらに気持ちを込めて弦に当てていく。
　美貢の顔が、見るからに穏やかに変化し和みさへ見せはじめた。
　裕二が、弓を地に着けた・・・・・

「美貢さん、これから君の不感症を治すため、俺は君を抱くことになる。」
「・・・香坂さん・・・私・・・治るかな？」
「解らない・・・俺も自信がない。でも努力する。」

　あえて裕二は断言しなかった。
　嘘を言って、裕二に疑問を持った時点で失敗をしてしまう。
　本音を言うことによって安心を与える術だった。

「・・・・香坂さん・・・ありがとう。」

　裕二は、チェロをベンチに立て掛けて置くと美貢の手をとり立ち上がらせた。
　片手を美貢の腰に当てそっと引き寄せる。

　美貢が裕二の眼を見つめた・・・・
　裕二が美貢の頬に軽く唇をあてた。

　美貢の身体全体が裕二の抱擁に痺れを発する・・・
　もう何年も経験をした事がない心地良い興奮を思い出していたのだ。

（・・この人なら・・・・信用できるかも・・・・）

　その時、裕二の背後に数人のチンピラ風の男数人がニヤつきながら声を掛けてきた。

「よぉ、お二人さん、お熱いねぇー・・・」

　周りの男たちも、声を出して笑っている。
　驚く美貢に、裕二は、眼で大丈夫だと言い聞かせそっと身体を離した。

「俺たちに何か用かい？」

　裕二の言葉に唾を吐き捨てながら予想通りの言葉をかけてきた。

「ケッ・・・いい男づらしやがって。まいいさ。金を貸すか女を貸すか選びな。」

　裕二は、微動だにせず、男に言い返した。

「このまま立ち去るか、俺にやられるか選べよ。」
「何だと、コラァッ！　なめんとんのかっ！」
「お前ら、チンピラは台詞が、いつも一緒だな。」

　裕二は、笑いながら男を見据えた。

「痛い目にあわせてやろうか、にいさん・・・おぉっ！」

（４人か・・・）

　裕二は、余裕を見せて、呆れた顔で言放つ。

「フッ・・・掛かってこいよ。」

　その時、突然、別の男が裕二に殴りかかってきた。
　裕二は、ズボンのポケットに手を入れたまま、その男の腹部に蹴りを入れると、男は、くぐもる様な声を出して蹲った。
　倒れた仲間を見て、もう一人の男が康平にパンチを放つ。
　裕二は、軽くサイドステップで身体を捻ると、同じく腹部に膝を食い込ませた。
　倒れた男の上に、乗り上げ体重を掛ける裕二・・・
　煙草を取り出し口に咥えた。

「・・・テ、テ、テメェー・・・」
「おい、お前は掛かってこんのか？　仲間が二人もやられたんだぜ。」

　裕二は、倒れた男の背中から降りて男に近づいた。
　男は裕二の迫力と恐怖で足が動かない。
　裕二の身体から発する雰囲気にガタガタと身体を震え始めた。

「おい、掛かってこいよ。」
「・・・ァ・・・ゥ・・・・ゥ・・・ッ・・」
「なんだ・・・ビビって声も出んのか？」

　裕二は、咥えた煙草を男の口に咥えさせて火をつけてやった。

「一服吸って、落ちついてから帰りな。」

　そう言って裕二は男から離れた。
　その瞬間、残る一人が裕二を目掛けて棒を振り下ろしてきた。
　裕二は、落ち着いて、それを避けると真上から男のレバーに拳を食い込ませた。
　全く声も出さずに苦しみながら蹲っている。

「お前らは最低だな・・・。」

　裕二は、そう言い残して美貢の方に歩き出した。

「・・・こ、香坂さん・・・」
「さ、美貢さん・・行こうか。」
「・・え・・・えぇ・・・」

　裕二は、美貢の肩に手を添え車に移動していく。
　トランクにチェロをしまうと美貢を助手席に乗せ車を発進させた。

「怖かったかい？」

　美貢は、裕二の方に顔を向けて返答する。

「・・・わ、私・・こんな強い人・・・・始めて見ました。」

　裕二は、苦笑いしながら美貢に話す。

「美貢さん、喧嘩が強くても何にも自慢になんかならないんだよ。」
「え？」
「社会に出れば、暴力なんて通用しないんだ。仮に、その場ではやられても、最終的には、勝つようになっている。それが社会生活での仕組みなのさ。」
「・・・・・」
「ふっ、はっきり言おうか。君を犯した大塚は、今、君以上に苦しんでいるだろう。ある意味、真央さんと美貢さんの復讐は終わった。しかし完璧に果たしていない。」
「・・・・」
「それは、君の男性恐怖症や不感症が治らなければ、大塚に勝った事にはならないからさ。解るかい？」
「香坂さん・・・・」
「ま、しかし、しょっちゅう正義が勝つとは限らんのが現代の現状でもある。簡単に言うと、まず自分に勝つ事だな。まだ、君は大塚に負けてるんだよ。」

　裕二は、そう言うと車のアクセルを強く踏んだ。
　美貢は、裕二の言葉を頭の中で必死に整理し始めた。

（３２）

「ここで、いいかい？」
「ええ。」

　裕二が、美貢の助手席までいきドアを開いた。

「じゃ、俺は、これで失礼するよ。」
「あの・・・香坂さん、どうもありがとうございました。」
「明日は、ここまで迎えにくるよ。」
「・・・は、はい・・・・・待ってます。」

　裕二は、車に乗り込むとウィンドウを下げて美貢に囁いた。

「そうそう、美貢さん、臨海公園で俺の下手なチェロを聞いていた時の君の顔・・・・・・凄く綺麗だったぜ。」
「ぇ・・・あ・・・」
「じゃ。」

　裕二の言葉に美貢の表情が明るくなった。
　美貢は、手を上げて裕二の車が見えなくなるまで目で追った。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

　裕二は、亜美のマンションで亜美が作ってくれた雑炊をすすりながら先程までの事を説明していた。

「ということは、好印象は与えたわけね。」
「ああ、たぶん・・・・で、亜美・・明日はどうすればいい？」

　亜美は、裕二の質問に用意しておいた本を渡した。

「お、これが例のリチャードボランの本か？」
「ええ、参考になりそうなところに線を引いておいたわ。」
「亜美・・・・すまんな。」
「何言ってるのよ裕二さん。私も、どちらかというと分析や調査が好きだから全く苦にならないのよ。」
「んー、今の業務係から分析係に移ればいいのに。」
「ええ、でも、今、分析係は、鏑木補佐が兼務してるでしょ。事務を担当する長がいないから足手まといになるのよねぇ。」
「亜美の研修時の指導教官は鏑木さんだったな。」
「ええ。」
「鏑木さんの凄い所は、分析したデータをさらに分析する所さ。心理学の博士号まで持っていて専門はビジネスサイコロジーなんだが、対人心理学にも長けた人で・・・・・・・・ん？」
「あ、裕二さんっ。」
「そうかっ、鏑木さんに相談してみるか。」
「ええ、仕事終わればプライベートな事を相談しても構わないものね。」
「ああ、さすがにセンターでは聞けんからな。よし、電話してみよう。」

　裕二は、早速、鏑木の家に電話をしてみた。

「もしもし、香坂です。」
『おう、どうした？』
「すいません。遅くに・・・実は、ちょっと教えて欲しい事があるんですが。」
『ん、何だ。・・・仕事の事じゃないようだな。』
「ええ、ちょっと精神的障害のある人間の対処方法を聞きたくて。」
『ほぉぅ・・・ちょっと待てよ・・・・・・・おい、洋子降りろ・・』

（お、降りろ？・・・まさか、やってた最中かな。）

『すまんな。』
「鏑木さん・・・・・ひょっとして・・・洋子と最中でした？」
『え・・・何故解る？　』

　亜美が、会話の内容を察したのだろう。
　飲んでたワインを吹き出して笑い始めた。

「普通、降りろっていえばアレの最中以外考えられんでしょ。」
『・・ぅ・・・・・そ、それより内容を言え。』
「あ、すいません。・・・・実は不感症の女を治したいんです。」
『な、ひょ、ひょっとして・・・・あ、亜美君・・・か？』
「馬鹿言っちゃいけませんよ。亜美はケツ触るだけでも濡れるんですから。」

　電話で喋る裕二の背中にクッションが飛んできた。
　電話の向こうで鏑木の笑い声が聞こえる・・・

「もう、裕二さん、明日、補佐の顔見れないじゃない。」

　亜美の声も聞こえたのだろう。鏑木が笑い声で割り込んでくる。

『おいおい、香坂、早く言えよ。』

　裕二は、今回の真央の依頼から先程、美貢と一緒に居た時の事まで詳しく鏑木に説明をした。

『なるほど・・・そりゃ厄介なことを引き受けたもんだな。』
「ええ。」
『ま、俺から言えることは、まず完全に自分の女にしてしまえ・・という事だな。』
「えぇーっ・・・しかし・・・」
『まあ、やってみろ。お前のプライベートの問題だから、直接に手伝ってやる事は出来んが助言はしてやるぜ。』
「は、はぁ・・・・」
『じゃ、頑張れ、俺は今忙しいから・・・。』
「え、ちょ・・・鏑木・・・・チッ・・・切っちまった。」

　亜美が、裕二に問い掛けてくる。

「補佐、何て言ってたの？」
「・・・それがな・・・・まず、自分の女にしちまえって。」
「・・・？・・・・何か意味あるのかしら。」
「んーっ、・・・なければ、そんないい加減なアドバイスはしないと思うんだが。」
「・・・・・」

　亜美は、鏑木が言った助言の真意を考えた。
　美貢を裕二の女にしろといったこと自体、次の結果が解っている様な口ぶりである。
　亜美は、自分のためにも、一度、本腰を入れて勉強してみようと思った。

「裕二さん、今回の件に限って私も一緒に勉強させてくれない。」
「ん・・・・ああ、それは構わんよ。返って助かるくらいだ。」
「どちらかというと、裕二さんは、情報をずっとやってきて調査や分析の考察に一種のこだわりがあり過ぎると思うの。」
「・・・・・なるほど、言われてみれば、そのとおりだな。」
「センターの主な仕事は、９割近くが対人相手だから、心理的な事や対人の応対を理解していれば、今後の業務の武器にもなるし私たちの実力アップにもなるしね。」
「んむ。どちらにしろ長丁場になりそうだ。焦らずやろう。」
「ええ。」
「さてと・・・・・・亜美、一緒に風呂に入ろうか？」
「フフッ・・・洗って、ア・ゲ・ル・・」

　裕二は亜美の言葉に急いで服を脱ぎ始めた。

「よし、先にいってるからな。直ぐに来いよ！」

　そう言うと裕二は、早速、バスルームに姿を消していった。

（フフッ、裕二さんったら・・・・・・）

　亜美は、照れた笑みを見せながら服を脱ぎ始めた。
　タオルを巻くでもなく裸のまま裕二を追ってバスルームへ急いだ。