１５

　すべてが終わった後、彼女は僕に抱かれたまま眠ってしまった。起こそうかとも思ったけれども、安心したように眠っている彼女を起こすのはとても悪いことのような気がする。
　さらに言うと、彼女の寝顔を見ていると、こちらも安心していられる。
　そんなわけで、僕は弓華ちゃんを起こすことができずにいた。
　気がつけばあたりは夜になっていた。行為に及んでいた時間はそれほどでもなかっただろう。しかし、眠ってしまった彼女を見ているうちにいつしか時間が経ってしまっていたらしい。
（…このところ、いろいろあったな…。弓華ちゃんも風花さんも、何で僕だったんだろう？僕でなければいけないんだろう？）
　以前からの疑問は、まだ僕の頭の中でぐるぐる回っていた。

　実のところ、弓華ちゃんとのセックスの間、僕の頭の中にはやはり風花さんの姿が確かにあった。もちろん、弓華ちゃんにしてみれば不愉快なことだろうけれど、なんといっても顔がまったく同じなんだからどうしようもないのも事実だった。
　もちろん、風花さんのようにやや強引、積極的ではないし、弓華ちゃんは風花さんと違ってあまり気持ちよくはなかったように思える。
　対して僕のほうは、顔は同じでも風花さんとはまたぜんぜん違う反応や締め付けに、興奮と快感の嵐の中にいたわけだけれども…。

（さて…それはおいといて、一つ面倒を片付けなければならないな）
　弓華ちゃんが起き上がりそうにないのを見て、僕は玄関へ足を進めた。気になることがあったのだ。
　ドアを開けて外へ出ると、僕は夜の闇の中へと声をかけた。

「下校の時から後をつけていただろう？そろそろ姿を現したらどうだ？」
　気配は微弱だが確かにあった。普通の人間なら気づかないだろう。
　しばらく沈黙が続いたが、僕が闇から目をそらさずにいると、
「まいったな…まさか俺の尾行を見破る人間がいるとはね」
　といいつつ、男が姿を現した。

　オールバックに黒尽くめのスーツ、細面に鋭い目。まさに『カラス』といったイメージがぴったりの男だった。
「昔から父親に迷惑をかけられていたせいで、護身術と保身には長けている」
「くわえてその度胸だ。俺を見て動揺もしないとは、恐れ入った」
　腕を組んだ男は、僕の言葉にも動ぜず、冷静な口調で言う。
「父親というのは、この前首をはねられて死んだ、代議士先生だろう？」
「正確には、代議士先生になる予定だった人間、だ」
　この男には隠しても無駄だろう。僕は素直にそう受け取った。
「だが、僕を追ってどうする？あの事件の被害者の息子としてマスコミに公開でもするのか？」
「そんなことをしてどうする？俺が何の得をすると思う？俺がマスコミの人間なのは否定はしないが、俺が暴きたいのは代議士の隠し子ではなく、その代議士を殺した犯人だ」
（隠し子とは、言ってくれるな…）
　だが、どこか憎めないのがこの男、とも理解していた。マスコミの人間とは言っているものの、ただの新聞屋ではないことも理解できる。
　そして、この男の雰囲気だ。誰かにモノを尋ねる態度ではないのもそうだが、この男は誰かにモノを尋ねて情報を得るタイプではないだろう。
「…それで、犯人は分かっているのか？」
「興味を持ったようだな」
　男が似合わない微笑を浮かべた。心理を見破られているかのようで不愉快だったものの、僕は黙ってうなずいた。
「だが、まだ分かっているわけではない。どうにも尻尾を出さないようでな。もっとも、あれだけ見事な手口をやり遂げる人間だ。
　そうそう手がかりを残していくはずも無いがな。…ところが、つい最近になってようやく犯人を目撃した、という人間が現れた」
「それで？」
「その目撃者というのが、今君の家にいる、君の彼女のお姉さんに近しい人間だ」
　話の内容も気になったが、この男のふてぶてしい態度も我慢できるものではない。僕が怒りをあらわにしようとすると、
「いや、君の彼女についてどうこう語るつもりはない。若いうちの特権だ。したいことはしたいだけすればいいさ。後悔のないようにな」
「余計なお世話だ」
　僕は素直に返答していた。
「その目撃者に、俺の相棒が話を聞いた。その話自体は別に問題はなかったそうだが、相棒は気になることがある、と言っていてね」
「気になること…？犯人につながる何かがあったのか？」
　僕が尋ねると、男は少し考えるようなふりをしてからこう言った。
「あまり確証のないことをべらべら喋る性質ではなくてね。そのへんはまだ明かすことができない」
「それならなぜ、僕の前に姿を現した？僕を尾行したんだ？」
「一つ一つ可能性をつぶしていくのが俺たちの仕事でもある。職業は違えど、やっていることは刑事と同じさ。はっきり言うが、君が犯人の可能性もあったわけでね」
（本当にはっきり言ってくれるな。しかし…）
　あの父親を憎むことはあったかもしれないが、殺す価値もない、と思っていたのも事実だ。
「しかし、今日のことで君に対する嫌疑は晴れたといってもいい。それだけ洞察力や度胸に長けている君だったら、父親を殺そうとしたり、あるいは誰かに殺しを依頼するまでもなく自分から父親を捨てるだろう？」
　男のセリフには真実味があったし、それは事実だった。
「…誰かに殺しを依頼した…？」
　そして、男のセリフには気になる点も含まれていた。
「そうだ。俺は、あの殺人事件は、誰かが依頼したものを実行したもの…つまり、月並みな言い方をすれば『殺し屋』の仕業じゃないか、と思っている」
「…なるほど、うなずける話ではある。ただ憎んでいるだけじゃあれだけ見事な殺人はできない。それなら、そんな腕を持っている人間に頼めばいい」
　僕は少し考えた後言った。父親の死などいまさらどうでもよかったが、この話には多少興味があった。現代に生きる『殺し屋』とはいったいどんな存在なのだろうか？
　すれ違いざまに人を切ることのできる人間とはどんな人間だろうか？
「さて、遅くなってしまったな。君はもう帰ったほうがいい。お姫様もいるからな」
「それこそ余計なお世話だ」
　僕はそう言った。男はスーツの襟元を直しながら、
「俺は烏丸翔一。また会うこともあるかもしれんな」
　『カラス』が冷ややかな微笑を見せた。…と思うと、次の瞬間には目の前から消え去っていた。
　（いったい、あいつは何者なんだ…？）
　闇夜に一人取り残された僕は、『烏丸翔一』と名乗った男の言葉を頭に巡らせていた。

　部屋に戻ると、弓華ちゃんはまだ優しい寝息を立てていた。本当に疲れたのだろうか。だとしたら悪いことをしたな、と思う。
（…告白されたときは現実味がなかったけど…）
　こうやってベッドに弓華ちゃんを寝かせ、そしてさっきはセックスもして、そして今こんなふうに気にかけている。
　学校で話をするとか、腕を組んで帰るとか、そういうのも確かに悪くないし、楽しい。
　だけど、それ以上に、こうやって弓華ちゃんがそばにいることがとても嬉しかった。
　動じていないつもりではあったものの、あの『烏丸翔一』と名乗る人物の鋭い目は、僕を畏怖させる何かがあった。
　そんなやや冷えた僕の心を、彼女はすぐに癒し暖めてくれる。

　僕の体は勝手に動き、眠る彼女の体を誰に頼まれるでもなく抱きしめていた。
　僕の中で、雪村弓華という一人の人物が『大切なひと』になっていることに、僕はやっと気づいた。

　結局、僕はこの夜を、弓華ちゃんとともに明かしてしまったことになる。

「えっ？ええっ！？何、何、なに！？」
　僕より後に目覚めた弓華ちゃんが、焦ってベッドに転がり落ちた。
「ここどこ？わたしの家じゃないよね？…って純水くん、どうしてここにいるの？」
「ここは、僕の家だよ」
　頭をさすりながらあわてる弓華ちゃんに、僕は優しく声をかけた。
「…あ」
　僕が声をかけてようやく思い出したのか、彼女は床に座り込んだまま顔を真っ赤にしてしまった。
　思い出したのは、僕の家に宿泊してしまったことだけではないらしい。
「…え…と、ご、ごめんね。わたし、純水くんに迷惑ばっかりかけて〜…」
　そのまましゅん、としてしまう彼女がかわいらしく思えた。
「…いいんだよ、僕も…嬉しかったから」
　どうやら、僕の腕の中で一夜を明かしたことまでは覚えていなかったらしい。
「…え、あ、その…わ、わたしでよかったら、いつでも…純水くんが、したくなったら言ってくれればいいから」
　しかし、僕の言葉はまっすぐ伝わらず、彼女は別の意味に受け取ってしまったようだった。

　ただ、僕の胸の中にはやはり一つの翳りがあった。ここにいる弓華ちゃんのことを、僕は大切に思うようになった。そして彼女も僕のことを『好きだ』と言ってくれた。
　けれども、僕のことを『好きだ』と言った人間がもう一人いる。弓華ちゃんとまったく同じ顔を持つ、彼女の姉。

　僕はまだ、この二人のどちらにも、自分から『好きだ』と言えないままでいる…。