２０

『日下順子さんという方をご存知ですね？』
　当のジュン…日下順子の携帯電話からかけられてきた電話口には、別の男が立っていた。
『実は私、警察の者なのですが…』

「ジュン！」
　半ば飛び込むようにして病室に飛び込んだとき、日下順子はきょとん、とした顔を俺に向けた。まるで俺など知らないような、そんな顔だった。
「…？あなたは誰ですか？わたしを知っているんですか？」
　二人の警察官に挟まれ、俺を凝視する姿はまるで、道端に放り出された子供のようだった。
「…烏丸翔一さんですね？」
「ええ。彼女とは仕事仲間です」
　俺はそう言った。いくら警察の人間とはいえ、偽る必要はない。今ここで自分のことを話したところで、俺の素性に行き着くことは無理だろう。
「彼女は、人ごみの中いきなり倒れ、目覚めたときにはすでに記憶をなくしていたようなのです」
　警官は俺にそう言った。
「突発性記憶喪失…そんなものがありえるのかどうか分かりませんが…」
　困惑する警官二人をよそに、俺は考えていた。
（あいつが動いたな）
　それができる人間を、俺は一人しか知らない。逆にいえば、人ごみに紛れ、ジュンとすれ違ったところでアッという間に記憶を消すくらい、『ヤツ』ならば問題なくこなせるだろう。
「…何か？」
「いえ。とにかく、彼女は…」
「記憶に関しては、なんともいえないそうです。戻らない可能性がゼロではない代わりに、戻る可能性もゼロではない。そういった状況らしいのです」
（…やってくれるな。さすがといえばさすがだが）
「記憶以外の面に関しては？」
「まったく支障はないそうです。言語不明瞭になるわけでもないし、手足が不自由になるわけでもない。ただ単に記憶だけがそっくり抜け落ちてしまったようで」
「…つまり、病院にいても解決策はない、ということですね？」
　俺はそう尋ねた。警官二人は顔を見合わせた後、『医者に聞いてくれ』と答えを返した。

「非常に不自然な状況ではありますが、突発的な記憶喪失の前例がないわけではありません」
　と医者は言ったものの、俺には原因がよく分かっている。
「彼女を連れ帰っても大丈夫なのですか？」
「健康状態的には問題ありません。後は、彼女が承諾するかどうかです」
　ジュンには身寄りがないことを俺は知っている。となれば、いつまで待っても彼女の引き取り手は現れないだろう。
「…わたしとあなたは、知り合いだったんですか？」
「ああ。仕事仲間だった。いや、今でも仕事仲間だ。お前が記憶を失ったところで、それが変わるわけではない。俺のほうには記憶が残っているんだからな」
　今の彼女が俺を信用するだろうか？心配はそれだけだった。
「…」
　ジュンは黙って俺を見ていた。『ヤツ』をうらむ気はない。むしろ、こんな文字通り、こんな純粋なジュンの表情を見られたことに感謝しなくてはならないかもしれない。
　元来、日下順子という女性が雑誌記者に向いていないことはよく知っている。
「…ここにいても、わたしの記憶は戻らないのでしょう？それなら…」
　意外にも、彼女はそう言って承諾した。ひょっとしたら、心の片隅で俺のことを覚えていたのだろうか？いや、それはうぬぼれというものだろう。
（そろそろ誰かが動くころだとは思っていたのだが）
　『あの組織』が動いた。もともと物騒な組織なのだから、その正体がバレてはこまる人間がたくさんいる。それは、当の『バッド・スクエア』に携わる人間だけではない。
　彼らに仕事を依頼したことのある人間もしかりなのだ。
　政治家、大会社の社長から一般人まで、その数は数えることができるものではない。
（…動くのは『ヤツ』だと思っていたが、本当にそのとおりだったな。甘いといえば甘いが…らしい、といえばらしいのかもしれないな）
　俺の知り合いの中に、『殺さない殺し屋』がいる。今回の件は間違いなくそいつの仕業だろう。

　結局、彼女は俺についてくることになった。彼女の勤め先の編集長も俺の顔は知っている。
　警察のほうは、『事件性が認められない』ということで（やったヤツがやったヤツだから仕方がないだろう）、承諾してくれた。

　俺の部屋にたどり着いたとき、ジュンのほうはものめずらしそうに辺りを見回していた。
（記憶喪失か…）
　本来の彼女にとっては、見慣れた場所といえなくもない。ここで体を交わしたこともあるのだから。
　しかし、今の彼女にはそれを懐かしむどころか、はじめてみるような、そんなきょとんとした顔だ。
「黒尽くめで来るから、もっと悪い人かと思ったわ」
「それを本人の前で言うか」
　俺は苦笑していた。本来なら人に心を許さない自分を自覚しているが、彼女にだけは別である。たとえ記憶を失っていたとしても、それは同じことだ。
「まぁ、いい人ではないな」
「あら、そうなの？」
　彼女はむしろ楽しそうに俺に聞き返してきた。その表情にはどこか幼さに似たようなものがあった。これが本来の彼女なのかもしれない、と俺は思う。

「しばらくはここで寝泊りしてくれていい。もともと何もない部屋だからな」
「…どうして、わたしにそんなにいろいろ優しくしてくれるの？」
　相変わらず、彼女の瞳には屈託がない。記憶を失う以前でも、彼女はこういう目をしばしば俺に向けたものだが…。
　とはいえ、記憶を失うことで心のしがらみがなくなった、というのは事実なのかもしれない。
「さあな。…すまんが、今日は人に会う約束になっている。夜遅くなるから、このベッドで寝てくれ。それから、外には一人で出歩かないほうがいい。世の中いい人ばかりではないからな」
　我ながら、つまらないセリフを言っているものだ、と思う。誰よりも悪の道を知っている自分が言えたモノではないセリフだった。

　自室を後にすると、俺は誰にも尾行されていないことを確認しつつ、町をぶらつき夜を待つ。

　数時間後、夜の帳が降りると、俺は雑居ビル群の路地裏に向かった。

「久しぶりじゃな」
「ああ」
　『客人』はすでに来ていた。相変わらず気配をまるで感じさせないものの、見た目的にはただの小柄な老人である。
「…彼女の記憶を消したのは、氷室か？」
「うむ。お前さんに恨まれたくはなかったからのう。殺さないようにとわしが頼んだのじゃよ」
　老人は、この近くの寺で住職をしている。名前は浅見空海…ただしそれは、あくまでも表の顔である。
「小野沢に関しては、風花に任せることはできんからな。氷室が言うには『わたし自身がカタをつける』と言っていたようだが、それをさせるわけにはいかん。迅速にわしが手を下すつもりでいる」
　『目撃者』。奇しくもそれは、バッド・スクエアの社長雪村風花の部下であったことは、ジュンの言葉からも知っている。小野沢慎太郎…。
　ただ、その小野沢が、目撃した犯人が風花であることに気づいているかどうかまでは分からない。
「面倒な事態になっているようだな」
「うむ。しかし、お前さんの手は煩わせぬよ。そのためにわしや氷室がいる。父を失って情緒不安定になっている風花には、できるなら『仕事』をしてほしくないんじゃよ。きれいごとなのは分かっているがのう」
　この男は、住職を表稼業にし、そして明確な『社会悪』を裏稼業としながらも、人の世の儚さも喜びも知っている人間である。
（…奇しくも、そんな人間だからこそ、今の稼業をやっていられるのかもしれんが…）

「二代目の社長は、人情味がありすぎるか…」
　誰もいなくなった路地裏で、俺はぽつりと呟いた。

「やれやれ…」
　部屋に戻った俺は、ため息をついた。
　ベッドの上に、何も纏わない素っ裸の女性が布団もかけずに仰向けで横たわっていたからだ。もちろん、寝ていた。
　近くにはブランデーのビンが転がっており、イヤでも飲んでから寝たのがよくわかる。
「高いんだがな、こいつは…」
　俺が誰にとでもなく呟いたとき、
「いいのよ。体で払うから」
　と、当の本人から返事が帰ってきた。振り返ると、いつの間にか、赤い顔をしたジュンがベッドの上に座り込んでいる。
　赤い顔なのは恥ずかしいからではなく、酒に酔っているからだろう。今の彼女には羞恥心というものはまるでないらしく、乳房から秘所まで何ひとつ覆い隠そうとせず、俺の前にその裸身を晒していた。
（記憶を失っている割には、すごいことを言うもんだ）
　俺は苦笑した。こんなときにも人間の本能は残っているのだろうか？
「遠慮はしないぞ？」
　俺はあえて聞き返した。
「記憶も何もなくして、これからどうすればいいのかまるで分からないわたしを引き取ってくれた恩くらい返さなきゃね」
「おいおい」
　セリフに反して、ジュンは笑顔だった。酒の勢いももちろんあるのだろうが、俺は素直に彼女の言葉を好意として受け取ることにする。
　今の彼女の状態を見る限り、朝になれば綺麗さっぱり忘れているだろう。それに、全裸の女性を前に『抱いて』と言われて反応しないほど、俺の体は老いてはいない。
「酔いが冷めるくらい激しくしてやるからな」
　俺は、そう言って服を脱ぎ始めた。彼女の秘所はもう濡れているようだった…。