３０

「えっ？風花さん？僕のところには来ていないけど…」
　突然の夜の電話は、弓華ちゃんからだった。今日のデート（？）の感想かなぁ、と思ったけれども、そうではなく、彼女の声はとてもあわてていて、押しつぶされそうなくらいに緊張していた。
『そう…ごめんね、夜遅くに』
　弓華ちゃんはそう言って電話を切った。けれども、僕のほうも風花さんが心配になってきたのは言うまでもない。ひょっとしたら、僕の家に来る途中で、今にも『夜遅くにすまない』とか言いながら入ってくるんじゃないか、とも思ったけれども、その気配もなかった。

（僕にも何かできないだろうか）
　そう考えた矢先に、携帯電話が再び鳴った。受信ではなく。メールが届いていた。
（…誰のアドレスだ？）
　見たこともないアルファベットの羅列が並ぶメールアドレスだった。
『今すぐ外へ出ろ』
　メールの内容はそれだけだった。

　家の外はもう夜の静けさに包まれていた。普通の人はもう寝ていてもおかしくはない時間のせいか、窓に灯りがついている家は少ない。
「呼び出して悪かったな」
「！」
　不意に、後ろから声をかけられ、僕は振り向いた。そこには、あの男…カラスに良く似た雰囲気を持つ、黒尽くめの男が立っていた。
「…烏丸、翔一…」
「俺を覚えていたか」
　この男の雰囲気を忘れられるわけがない。見た感じは普通の人間だが、どこか鋭く、威圧しているような、まるでスキのないような雰囲気。
（この男…雰囲気と外見はカラスだが、中身はツメを隠す鷹そのものだ…！）
　額に汗が滲むのが嫌でも分かった。
「単刀直入に言う。お前の力が借りたい」
「…何だって？」
　まさしく単刀直入に切り出した烏丸に、僕は戸惑いを隠さなかった。この男に僕が頼まれることなど何ひとつとしてないはずだった。
　この男はただのジャーナリストで、僕とは何の交わりもない。だが、この男の言葉には、見た目とは裏腹に緊張感が漂っているのは分かる。
「…雪村風花が誘拐された」
「！？」
　闇の中、カラスから語られた言葉は、僕の胸を打ち破ったかのように衝撃を与えた。
（あの風花さんが、誘拐された…？）
「もともと何者かに狙われていたのは知っているし、俺はそれを、社長本人に気づかれないように護衛していたのも事実だ。素直に護衛されてくれる人間ではないからな」
「しかし、何故風花さんが？」
　愚問だということは分かる。彼女は見た目は少女でも社長だ。だが、身代金を目的として風花さんを誘拐するよりも、より誘拐しやすいであろう聖架さんや弓華ちゃんを誘拐するほうがうなずける話だ。
　どこか儚げで達観した様子がある風花さんでも、実の姉、妹に対する優しさは並ではないことを僕はよく分かっている。
　風花さんなら、姉妹のためにいくらでも金を出すだろう。
「…そこまでは俺にもわからん。聖架や弓華を誘拐するほうがよほど楽だからな」
「あんたは…聖架さんたちのことまで知っているのか」
「当たり前だ。俺は『護衛していた』と言ったはずだ」
「僕の力を借りたいとはどういうことだ？」
「そのままの意味だ。風花を助けて欲しい。さらわれた場所は分かっている。…助けてやってほしい」
（…この男、何故僕にそれを頼むんだ？場所が分かっているのならいくらでも対処はできるだろう…社会的に警察を挟むのを嫌がっているのか？）
　風花さんは社長だ。会社の地位を落とさないために警察を間に入れたくない、という可能性ももちろんある。だが、この場合は状況が違う。
　すでに人通りもなく、僕達の声も小さい。誰もいないのは好都合だった。
「何故それを僕に頼む？あんたが行けば済むんじゃないのか？」
「それができれば苦労はしない。…頼む、このとおりだ」
　僕は、何が起こったかよく理解できずにいた。カラス…いや、烏丸翔一という男が僕に突然頭を下げたのだ。
　この男が僕に頭を下げた、というのは、相当深い理由があるに違いなかった。
「…場所は？風花さんがいる場所は！？」
「…！引き受けてくれるのか！」
　僕の言葉に、カラスが再び顔を上げた。
「あんたのためじゃない…僕には…僕を『好きだ』と言ってくれた風花さんを…そして、僕が大好きな風花さんを…守る理由がある…！」
　僕は、自分の意思を確かめるように言い放っていた。…風花さんだけじゃない。僕は…僕にとっては、聖架さんも、弓華ちゃんも大切な存在だった。

（…本領町三丁目の倉庫群…確かに、人気がある場所じゃない）
　カラス…いや、烏丸翔一からもたらされた情報はそれだった。
「あんた、どうやってそれを確かめたんだ？」
「風花は、泣きながら会社を飛び出してきたところを、後ろから眠らされて誘拐された。俺は、犯人が風花を車に乗せ、ドアを閉める際の音にあわせて、屋根に飛び乗ったんだ。あとは犯人が案内してくれた。
　幸いにして、倉庫群の中に鍵がつけっぱなしの車があって、俺はそいつを使って戻ってきた…というわけだ」
（どっちが犯罪者か分からない話だな）
　場合が場合だけに咎めるようなマネはしないが、とっさにそんなことができる以上は、やはり只者ではないことが分かる。
「さすがに運転はできないだろうから、俺が運転する。俺が連絡を取った『仲間』も向かっているはずだ」
「仲間？」
　どうも分からないことだらけだった。僕は、烏丸の車（といっても盗んだものらしいが）に乗り込みながら、これまでのことを整理していた。
　第一に、犯人は何故風花さんを誘拐したのか。簡単に考えれば身代金が目的だ。だが、風花さんを誘拐するくらいなら、その姉妹である聖架さんや弓華ちゃんを誘拐したほうが効果があるはずだ。
　第二に、その風花さんのこと。…社長だという立場は理解しているものの、ここにいる烏丸という男は、社長の護衛としてはあからさまに不適切だ。
　護衛とかシークレットサービスとかいうよりは、忍者か暗殺者のようにしか思えない。
　第三に、烏丸が言ったセリフ。『狙われているのは知っていた』と彼は言った。前々から誘拐しようとしている連中がいることに気づいていた、という意味だろうか？
それとも…？
　そして、最後に、『仲間』…。この男には仲間がいる、という意味だ。普通に考えれば、風花さんの会社の社員と見られる。社員が向かう意味はあまりないだろう。
　むしろ警察を通したほうがやりやすいのも事実だ。十七歳の社長が誘拐された事件に警察を通したからといって、後々経営に影響が出るだろうか？
（この男が…警察機関の人間だとしたら？）
　それならば、『仲間』という言葉にも重みが出てくる。だが、普段から警察の人間が護衛している必要がある社長というのも不自然だ。

　僕がそんなことを考えている間にも、車は闇を切り裂いて走り続けた…。

「…俺が誰なのか、聞かないのか？」
　突然、そんなことを聞かれた。
「何故雪村風花…社長を守っていたのか、そしてお前に頼み込んでまで守ろうとするのか、気にならないのか？」
「…気にならないわけがないさ。あんたが風花さんにとって必要な人間だ、ということは分かっている。風花さんが信用している人間だとすれば、僕が信用しないわけにはいかないだろう？」
　僕はそう答えた。この男が僕に頭を下げてまで風花さんを守りたい理由なんてどうでもいい。僕は、風花さんを守りたい。…それだけだ。
「…そうか、風花はお前のそういうところに惚れたのかもしれないな」
　初めて、この男のまともな微笑を見た気がした。ごく自然な、本当の微笑。烏丸翔一という男には不釣合いな表情ではあったが、僕にはなんとなく親近感が持てた。
「抱いたのか？彼女…いや、彼女達を」
　思わぬ質問に、僕はダッシュボードに頭を打ち付けそうになった。少なくともこんな状況でする質問ではない。
「心配するな。とがめだてするつもりはないさ。お前はそれだけの価値がある男だ。自信を持っていさ。聖架、風花、そして弓華…。あの三人は、自分にとっての『最高の男』としてお前を選んだんだ」
　ほめられているのかどうか、僕には分からない。ただ成り行きに任せてしまった部分だって多々ある。けれども、今の状況になって、こんなに風花さんを心配している。それは間違いなく、僕が…三人とも同じように好きでいるからだ、と思う。
　もちろん、それが『愛情』かどうかなんて、僕には分かるわけもない。

「着いたぞ。この中に風花がいる」
　…着いたぞ、といわれても、真っ暗なせいで風景が良く分からない。いかにも悪人が立てこもっていそうな場所ではあるが。
　車を降りると、なぜか冷たい空気が僕を包んだ。雑音すらしない静寂。…あの時、風花さんを打ちのめしたような恐怖感が、そこにはあった。
　目の前に広がるいくつもの倉庫の姿は、まるで化け物か妖怪とも思える威圧感を、僕に与える。
　一歩踏み出したとき、烏丸が僕を制した。
「…電話が来た。どうやら、『仲間』も近くに来ているようだ。純水…俺は、表立って行動ができない人間だ。だから、お前をここに連れてきた。いや、彼女を助けるのはお前でなくてはならない。そう思った」
「あんたじゃダメなのか？僕は一般人だ」
「だが、ただの一般人が俺の誘いに乗ってここまできた。風花を助けたい、そう言った。できることじゃない。
　相手は確実に風花を傷つけるつもりでいる。殺す可能性だってある。当然、助けに行った人間だって無事じゃすまないかもしれない。
　お前はそういった危険をすべて受け入れる、と言ってくれた」
　この男の意図が本当に分からなくなってきた。ただ、言葉の端々からは、彼が風花さんをどんなふうに思っているかは読み取れる。
　ただ、どういう形の知り合いか、だけは悟ることができないけれども。
「…よし、僕が行こう。守ることができなかったなら…いや、なんでもない」
『後は任せる』と言おうか迷ったけれども、結局やめた。

　不思議と、恐怖も何も感じなかった。僕の度胸は意外に据わっているのだろうか？それとも、ちっぽけな正義感が僕を奮い立たせているのだろうか？

　僕は、一つの倉庫の前に立った。烏丸の話では、風花さんはこの中にいる…。
（風花さん…）
　かつて見せた、風花さんの儚げな笑顔が頭に浮かんだ。『たとえわたしに何があっても』のセリフは、ひょっとしたらこんな場合のことを考えていたのだろうか？
　いずれにせよ、僕には風花さんや烏丸が一体何者なのかは分からない。ただ…風花さんを失いたくない。

　僕は、重い扉に手をかけ、左右に開いた。金属がこすれあうイヤな音とともに、目の前がまた暗黒でふさがった。

「…誰だ？」
　中に入ったとたんに、誰かの気配を感じた。中が闇だからこそ、気配を感じることができたのかもしれない。
　瞬間、ぱっ、と灯りがともった。空になった倉庫の中に、小さな椅子が一つ。そして、そこに座っているのは…。
「…風花さん！」
　そこには、風花さんの姿があった。座らされているのではなく、縛られているのが分かる。ぐったりとしていて、動く様子がなかった。
「…誰が来たのかと思えば…思っても見ない人間が来たわね」
　灯りに浮かび上がった風花さんの横に、影が差した。そして、それと同時に、僕の知らない女性の声。
「貴方は…確か、社長が熱を上げている高校生…だったかしら？」
「僕を知っているのか？」
「まあね。彼女を捕らえるのに苦労したわ。準備にも実行にもね。何しろなかなかスキを見せないんだもの。無理もないわね。彼女はプロ、わたしは素人同然なんだもの」
　『プロ』、『素人』…僕には理解できない単語がまた浮かんだ。
「…何のことだ？」
「決まっているでしょう？ここにいるかわいらしい十七歳の少女は…『人殺しのプロ』なのよ。そして、時久純水くん…あなたのお父さんの首をはねた張本人よ？」
　女の言葉は、僕の胸の中を深々と突き刺したような衝撃を与えた…。
（風花さんが…人殺しだって！？僕の父を…殺しただって！？）