３１

（純水…わたしは純水が好きだ…ずっと愛していたい…これからも…）
　わたしは純水の隣にいた。その腕を抱きしめていた。誰よりも素直な気持ちで、彼の隣にいた。

　わたしに、純水を愛する資格などあるわけがない。彼の父を殺めたのは、ほかならぬわたしだ。
　当初のわたしは、純水に体を預けることでその贖罪をしようとした。だが、そんなのは言い訳でしかない。自分の中に生まれた『誰かを好きになる』という気持ちを否定したいために自分の気持ちを都合のいいように曲げただけにすぎない。
　わたしは本当に純水を好きでいたい。そのためには…。

　視界が開けると、どこか薄暗い場所だった。まだ朦朧としている意識の中、後ろにいる誰かと、そしてわたしの前にいる誰かが話しているのが分かる。
　一人は男、もう一人は女…。
「…い、純水…っ！」
　立ち上がろうとしてようやく、わたしは椅子に縛り付けられていることに気がついた。
「あら、やっとお姫様がお目覚めね」
　後ろにいる女の声は、聞いたことがある声だった。
「でも…王子様はもう本当のことを知ってしまったわ。あなたは、彼に愛を捧げた天使ではなく、さまざまな人間の命を奪ってきた死神なのだ、と」
　そして、前にいるのは…ほかならぬ純水だった。いつもの純水に見えたものの、その表情は緊張している。
（わたしは…死神…？純水が…知った…）
「…可愛いわ、その表情…いつもの凛とした社長の姿からは想像もできない、悲しみと絶望に満ちたその顔…」
「…っ」
　うつむいたわたしを、後ろから『女』が抱きしめてきた。
「…純水…知ってしまったのか…」
「風花さん…」
　わたしは女を無視して、純水に話しかけた。この女は、わたしの素性を純水に話した、ということだろう。
「わざわざ助けに来たのに、助ける相手も人殺し、しかも自分の父親まで殺している人間。…どういう気分かしら？王子様」
「何故、風花さんを誘拐したんだ？」
　純水が質問を返した。
「…社長は…いえ、この子はわたしの大切な人なの。そして、この子を愛してしまった人も、わたしの大切な人なのよ」
　『この子』と表現されたわたしは、少し怒りを覚えずにはいられなかった。わたしのそんな気持ちとは裏腹に、女は言葉を続ける。
「この子と同じように、わたしは自分の欲に忠実、かつ貪欲でありたいの」
　わたしの頭を優しく撫でながら、女が言った。
「…ねえ、社長。わたし、彼を…殺してやりたいくらい憎んでいるのよ？何故だか分かる？」
　女の声が、突然鋭くなった。
（純水を…？）
「だって、わたしですら見たことがないあなたの裸を見たうえ、その処女まで奪っていったなんて、許せることじゃないわ」
「っ！？」
　女の右手が、後ろからわたしの胸を掴んだ。
「な…何を…っ」
「決まっているでしょう？」
　ゆっくりとわたしの右胸を揉み解しながら、彼女は言葉を続ける。
「あなたの大好きなこの人の前で、あなたをわたしのものにしてあげる」
「なっ…！」
　わたしと、純水が同時に声を上げた。
「ふふっ、楽しみにしていたのよ、このときを…」
　『女』がわたしの体を犯そうとしている。それはもちろんわたしの望むところではない。しかし、体の動かないわたしにはどうしようもなく、
　右の胸が手に包まれ、そしてその左手はスカートの中に滑り込んでくる。
「うあっ」
　スカートの中、下着の上から秘所に触れられ、わたしは小さく声を上げた。
「あっ、ふぁっ…」
「ああ、その声、可愛いわ…」
　指でねちっこく刺激されるたびに、快感を我慢できずに声が出てしまう。目の前には純水がいるというのに…。
「…い、いやだ…純水、見るな、見ないで…」
　わたしは情けない声を出していた。
「やめろ」
　わたしの耳に、純水の声が響いた。
「動かないで」
「ひっ！」
　女の言葉とともに、下着の上から指が秘所を深く突き上げてくる。
「はっ…あっ…ああぁっ…」
　涙が溢れた。自分で望むのとは違う痴態を、大好きな人に見られている。死ぬよりも辛い、拷問そのものだった。
「ここからは見えないかもしれないけれど、この倉庫の周りには何人も狙撃手が配置されてるわ。ほら、社長室を狙撃したヤツと同じよ？」
（あれは…この女の仕業だったのか）
「分かるわね？赤外線とか暗視マスクとかいろいろ持ってるから、この暗い中でも狙撃できるわ。純水くん、もちろんあなたのことも、そしてこの子のことも…ほら、そろそろ直接刺激してあげるわね。下着の上からだけじゃ物足りないでしょ？」
「…！！」
　下着の中に、右手が滑り込んでくる。わたしは声にならない声を上げ、動かない体を精一杯動かして抵抗する。
「あ〜あ、こんなに濡らして…大好きな彼の前なのに…ほら、ここはどう？感じる？」
「嫌ぁっ！」
　一番敏感な場所を摘まれ、わたしの体が無意識にのけぞった。
「あっ…はぁ…っ…い、いずみ、いずみ…ぃ…」
　絶頂に達してしまったわたしは、情けなくうなだれるしかなかった。
「イっちゃったの…？その顔も可愛いわ…。ねえ、純水くん。『バッド・スクエア』って知ってる？」
「…バッド・スクエア？」
　ようやくわたしの体から手を離した彼女は、わたしの横に立って、そしてわたしの頭を左手で優しく撫でながら語りだした。
「金次第で人殺しでも誘拐でも引き受ける、そんな組織よ」
「…ち、ちが…」
　わたしは反論しようとしたが、声がうまくでてくれない。絶頂の余韻が、わたしを支配しつつあった。
「そして、ここにいるこの子は、その『裏の組織』の社長…つまり、頭領というわけね。こんなに可愛い顔をして、仕込み杖を使った居合いの達人…すれ違い様に首をはねたりできる人間なの」
「…」
　わたしは何もいえなかった。それは真実だったからだ。そして、それがあったせいで、わたしはこの心を純水にさらけ出せずにいた。
　全てを純水に晒せずにいた。
（そうだ…それが悲しかった、辛かったんだ…わたしは…純水に愛されたいと思うようになってしまったから…）
「…風花さん」
　純水の声が、少し震えていた。無理もないことだろう。自分と体を交えた女が『殺しのプロ』だと知ったら、誰だって驚くだろう。
「…今の話は、本当のことなの？」
　わたしは、目を閉じた。
（…いずれは、自分から言おうと思っていたことだ。わたしは…それを純水に言って初めて、本当の彼女になれる。
　自分のすべてをさらけ出せない限りは、わたしは彼女になれない。愛する資格も、愛される価値もない…）
「…本当のことだ。すべて、この女の言っていることは本当だ…。すまない、わたしは…」
　わたしは一度言葉を切った。どういえばいいのか分からなかったからだ。仕事の交渉で言葉を選ぶのとは違う。
　どういえばわたしの気持ちが、そして真実が伝わるのか。わたしにはそれが分からなかった。
　自分よりも遥かに年上の人間たちと、いわば狸の化かしあいをしてきた経験のほうが長いわたしには、自分の気持ちを言葉で伝える手段が分からなかった。
（…だから、わたしは一番最初に、純水に体をぶつけた。そのほうが、わたしの気持ちが伝わると思ったし…贖罪になると思った…）
「わたしは…純水の…父親をこの手で殺した…それなのに、純水を…好きになってしまった…」
「…皮肉なことに、貴方を好きになってしまったことで、この子には罪悪感という、この職業に携わる人間にはあってはならない感情を抱いてしまったわ」
「…いや。わたしは、純水に感謝している」
　わたしは、そう言った。
「たとえここで断罪され、純水に殺されたとしてもかまわない。わたしは、純水にすべてを告白してようやく、本当に純水に告白する資格を得られる…」
「何が資格よ。貴女は人を殺したのよ？しかも彼の父親を。例えすべてを告白したところで、彼が貴女を愛してくれるわけが…」
「黙れ！」
　純水の声が、倉庫中にこだました。女の声が途切れる。
「やっと分かったよ…なんで僕の中で毎度毎度、『自分でよかったのか』という疑問があったのか…。風花さんと同じだ。
　僕は…今まで誰かに愛されたことなんてなかった。自分に愛される資格がないと思っていた。誰かを好きになったところで、自分が愛される理由なんてないと思っていた。でもそれは違う…」
「純水…」
　純水の表情は穏やかだった。わたしは声を出せず、彼の言葉に聞き入った。
「僕は愛されることから逃げていた。風花さんにも…弓華ちゃんにも聖架さんにも、心から触れ合うことから逃げていたんだ。
　三人と触れ合って…体も交えて…僕は、三人に想っていてほしい、そして彼女でいてほしい、と思うようになった。『好きだ』と心から言えるようになった。
　例え何があっても…変わるものか…変わるものか…！」
「純水っ！」
　わたしの両目から、先ほどのものとは違う涙が溢れた。父さんが死んだとき以来、初めて感情をこめて流した涙に思えた。
「風花さんを離せ」
　純水が『女』を睨んだ。今までの純水からは想像もできないほどの鋭い瞳は、わたしの背筋をも凍らせた。
「…嫌よ。この子はわたしのものだって言ったでしょう？…出てきなさい！」
　女の声と同時に、暗闇からあわただしい足音が聞こえると、わたしの周りを十人あまりの男達が囲んだ。
　その手には一様に銃器が握られている。
「…わたしが一人でここにいるとでも思ったかしら？動いたら死ぬわよ？純水くん、あなたは、目の前でこの子がわたしに犯される風景を見るしかないのよ」
「やめろ！」
「純水っ！」
　一歩踏み出した純水に向かって、男が銃を向けた。銃声が轟き、わたしは目を背けた。

「ぐああっ！？」
　しかし、苦痛に声を上げたのは純水ではなかった。思わず顔を上げると、純水の後ろのほうに人影がある。
　両手に銃を持ったその姿に、わたしは確かに見覚えがあった。いや、見覚えどころではなかった。
（何故…何故、お前がここにいるんだ？そんなものを持っているんだ！？）