１.　１９７８年８月

　夏期補習を終えて出てきたら、校庭のバックネットのあたりがゆらゆら揺れているように見えた。篤郎は太陽の直射を受けてよろめきそうになるところをなんとかこらえて、自転車置場に向かった。後ろから同じクラスの雅士の呼ぶ声がする。篤郎が振り返ると、雅士はガムをクチャクチャ噛みながら寄ってきた。
「なぁ、『モナ』で涼んでいかんか？」雅士は言った。高校の近くの喫茶店で涼もうということだが、本当はその店に置いてあるゲーム機で遊ぼうという誘いである。
「きょうは、やめとくわ。」篤郎は興味ないという表情を作った。
「なんや、まっすぐ帰るんか？」
「帰る。」
　篤郎は雅士に背を向けて、自転車の荷台に鞄をくくりつけた。雅士は情けない声を出した。
「この間、やっと３万点出るようになったのによぅ。つまんねぇな。」
　涼むのはいいが、雅士のゲームの付き合いをするのは御免だった。賭けに勝って雅士からジュースなんかをせしめても、ゲーム機につぎ込む金はそれ以上になる。本当は、篤郎はもう前からあの店のゲームには飽きていた。
「尾崎とか、小島がいるだろ？」
「あいつらは、映画さ。新島館。」雅士はニヤリと笑った。
「新島館？」それは、町の繁華街の裏通りにあるポルノ映画館だ。
「捕まるんじゃないか？」
　篤郎は自転車にまたがって、中学時代からの級友である雅士のニキビ面を見た。
「警察はそれどころじゃないさ。いまはみんな選挙の取締りで忙しくて。」
　篤郎は、訳知り顔の雅士に大きくうなずいてみせて、それから手を振った。
「じゃあな。」
「今度、お前のオートバイに乗せてくれ。」雅士は手をメガホンのようにして、叫んだ。
　男を乗っける気はねぇよ、と小さくつぶやいて篤郎は校門に向かった。
　自転車に乗った篤郎は日なたを避け、しばらく裏の路地をくねくねと走った。建物の陰を走ると、体に受ける風もいくぶんは涼しい。広い県道を渡るときは、交差点のうんと手前の日陰で信号待ちをした。その交差点の斜め向かいに『純喫茶　モナリザ』がある。雅士が『モナ』と言っていた店だ。昼前のこの時間は、やや広めの駐車場に、軽自動車が２台止まっているきりである。
　そこを過ぎると、もう太陽の防ぎようはない。むっとする熱気が全身を包み、篤郎は顔をしかめながらペダルを踏んだ。ブロック塀の角を曲がったところに、どぎついポルノ映画のポスターが二枚張られていた。新島館の広告板だ。日本髪の女が一糸まとわぬ裸で突っ立っており、あぐらをかいた男が女の両足を両手で抱き寄せ、恥部のあたりに顔をすりつけているのが一枚、もう一枚は明るいパラソルの下、金髪の女がプールサイドに全裸で寝そべっているものだ。こちらの方は誰かが剥がそうとしたのか、右３分の１くらいがえぐられていて、前に張られていたポスターがその下からのぞいていた。
　誰が見ているというわけでもないのに無関心を装いつつ、篤郎は横目でしっかり裸の女の姿を焼き付けた。そして反芻するうちに、下腹に精がたまってくる感じがしてきた。寝そべっているのに形が崩れず丸々と隆起している金髪女の乳房を、股間に愛撫を受け恍惚とした表情を浮かべる女を、自分で好きなように嬲ってみたい衝動に駆られた。尾崎や小島も、この瞬間、暗い映画館の中で同じような焦燥を感じているのだろうか。喉の渇きを覚えた。
　不意に、甲高い女の声が耳に飛び込んできた。「丸山、丸山、丸山でございます。いよいよ投票の日まであとわずかとなりました。ご町内の皆様、丸山、丸山、丸山にぜひ清き一票をお願いいたします。」声はだんだんと近づいてきた。ずっと先の大きなクスノキの陰から、ぬっと選挙カーが現れた。屋根の上に白地で赤く「まるやま」とかいた看板を載せている。篤郎は、狭い道の左端に自転車を寄せて、選挙カーをやり過ごすことにした。
　ほかに誰も通らない道なのに、身を乗り出すようにして候補者は白い手袋をはめた手を振っていた。しゃがれてしまった声で「お願いしまーす。」を繰り返す。日焼けをした顔に、玉のような汗をいっぱい浮かべて、張り付けたような笑顔を篤郎に向けてきた。
　選挙カーは、ゆっくりと前を通り過ぎた。車に同乗しているウグイス嬢が、にっこりとこちらに微笑んできた。赤い帽子に赤いスーツ、白く化粧した顔にルージュを引いている。目のぱっちりした美人だった。
「暑い中、道路に出ていただきましてのご声援、ありがとうございます。」
　車上のスピーカからよく通る声が降ってきた。そして有権者でもない篤郎に向かって会釈した。肩まで届く長い黒髪が揺れた。
　目で追いたくなる自分が恥ずかしく思えて、篤郎は遠ざかる選挙カーを後にして自転車をこぎ出した。連呼の声はだんだん弱くなり、替わってセミの鳴き声が大きくなった。道の左側に広がる林の木陰の中を進みながら、頭の中の妄想は広がっていった。あのウグイス嬢のこんもり膨らんだ胸をやさしく揉んだら、あの白い首筋にキスをしたら、彼女はどんな喘ぎ声を出すだろう。聞いてみたい。
　体中から汗が噴き出した。すでに林を抜け、道の両側には田んぼが広がっている。上から直射日光が容赦なく照りつけてきた。遙か向こうに国道が横に広がり、篤郎がいま通っている道と交差するところで陸橋になっている。上の国道を通り過ぎる車の窓に日光が反射して、キラッ、キラッと目を射してきた。
　ずっと前方、陸橋の橋脚の影になっている部分に、白いライトバンが止まっているのが見えた。と思うと、道端から突然二人の男が転がるように飛び出してきた。そして、あっという間に車の中に消えたかと思うと、キキーッというタイヤの擦れる高い音がして、砂埃を舞い上げ、車は視界から消え去っていった。刑事番組で犯人が逃げるシーンとよく似ていた。
　ペダルをこぐ足の力を強めた篤郎は、ライトバンが止まっていたところで自転車を止めた。まだ、細かな砂塵が辺り一面に立ちこめている感じがする。周囲を見渡すとコンクリートの橋脚に自転車が一台立てかけてあった。そこから田んぼのあぜ道に降りていく途中に、鞄が落ちていた。ファスナーの部分にかわいいマスコット人形の飾りが付けてある。どこからか、ひやりとした風が頬を打ったような気がした。
　自転車は、スタンドを立てないまま、ただコンクリートの壁にもたれかかっていた。後輪の泥よけの、赤い反射板の上に黄色い蛍光塗料のシールが張ってあり、黒マジックで「Ｍ中学校　中邉菜都美」と書いてある。自分の自転車をその傍に残し、あぜ道の方に下りてみた。草むらに落ちている鞄には、よく見ると誰かに踏まれたのか靴底の跡がついている。そこから１０メートルばかり離れた場所に、農機具を入れているような古ぼけた小屋が立っていた。篤郎は、何かに引き寄せられるように自然と足がそちらに向いていた。胸の鼓動が高まった。
　小屋の引戸をそっと３分の１くらい開けて、おそるおそる顔を突っ込んでみると、石灰と機械油が混じり合ったようなにおいがぷーんと鼻をついた。
　外から差し込む光で、床にランニングシューズが転がっているのが見えた。篤郎が視線を奥に走らせた瞬間、びくっと体中が硬直するような衝撃が走った。ごくりと喉が鳴ったような気がした。肥料袋だか、石灰袋だかが積んである上に投げ出されているのはマネキン、ではなく、本物の人間だった。それも、半裸の娘である。白い体操服は首のところまでまくり上げられ、襟ぐりの日焼けした部分と、その下の白い肌の部分が水着の線に沿ってくっきりした跡を残していた。胸のところはちょうど陰になっていてよく見えない。腰に巻き付いているのは、青い制服のスカートらしい。それにしても相当汚れている。すらりと伸びた脚の足首の片方に、紺のブルマーが引っかかっており、中から白いパンティのようなものが見える。娘の両手は軽くバンザイするような格好で頭の両側に投げ出されており、片方の手にはリストバンドがはまっていた。
　胸の膨らみを触りたい、という一心で、篤郎は倒れている少女の傍らに腰を落とした。まくり上げられた体操着の間から、ブラジャーの紐がだらりと腕の付け根の部分に垂れているのが見える。篤郎はそろそろと右手を胸に伸ばしていった。
　娘の肌に触れる瞬間、篤郎は手を止めた。もし死んでいたらどうしよう。でも、その考えはすぐに欲望によって退けられた。生きていようが死んでいようが構わない。
　手に、ヌメヌメとした感触が伝わってきた。冷たいネバネバする粘液の膜が乳房をおおっていて、滑るようだ。そのとき、なにか固いものに指が触れたので一瞬手を引っ込めた。ヌチャッと音がして、肌から手に何本かの糸が引いた。乳首だ。篤郎の頭の中で興奮が高まる。今度は両手で少女の胸をまさぐった。
　両の胸の膨らみを感じながら、ゆっくり指を滑らせた。びっしょり濡れた乳房は程よい弾力をもっている。胸の突起を指先で挟んだときに、手のひらにトコトコという鼓動が伝わってきた。生きている。自然に手に力が入った。そうやっているうちに、十指がネバネバする液にまみれてきた。片手を鼻にもっていくと、その粘液は卵が腐ったような強烈な異臭を放っている。精液が塗りたくられていたのか。篤郎は少し吐き気がした。
　篤郎は、気を失っている娘の下半身に目を移した。腰のところにある青いスカートは、よく見ると、巻き付いているのではなくて、ただ恥部を隠すように上から掛けられているだけである。そこにも白い精液の痕が点々とシミになってついているのが分かった。それに触れないようにして、そっとスカートを持ち上げてみた。少女の陰毛が濡れて肌にへばりついているのが見える。生え方はそんなに濃くない。そろりそろりと娘の股間の方に手を伸ばしていった。
　ひんやりとした肌の感触を楽しみながら、篤郎は顔を下半身の方に近づけてみた。両足がまっすぐに近い形で投げ出されていたので、股間がよく見えなかった。篤郎は、片足の膝の下の部分に手を入れて少し持ち上げ気味にして脚を開かせてみた。
　一番奥で、赤く爛れた柔肉が、トマトをつぶしたような光景を見せていた。花弁の中央部分から、白い精液と、糸を引いたように赤い血液がどくどくと吹き出していた。あまり気持ちの良い眺めではなかったので、篤郎は視線を下半身から顔の方へと戻した。形よく膨らんだ胸の双丘の間から、少女の喉や、顎や、睫毛が見える。確か自宅のベッドの下に隠してあるエロ雑誌にもこういう構図があった。
　何してるんだ。今こそ童貞を捨てる絶好のチャンスだぞ。頭の中をこだまする声が聞こえた。焦った篤郎は、腰のベルトを緩めるのももどかしく、ズボンをずり下げ、ブリーフの中に手を突っ込む。その途端、
「しまった！」と思わず情けない声が出てしまった。
　ブリーフの中は、すでに冷え始めた自分の体液でぐっしょりしていた。そして、全身びしょ濡れのペニスは、只のふにゃふにゃの肉片と化しているではないか。篤郎の頭の中は興奮状態でも、体の方はこれ以上の性的刺激を受け入れきれなくなり、透明な粘液を放出して役立たずになっていたのだ。
　しかし、そんな体を置き去りにして、篤郎の頭の方はどんどん昂っていった。
何とか勃起しないものかと、腰を少女の脚の間に割り込ませ、萎えた陰茎をそこにあてがった。しかし、それ以上進むはずはなく、いくら腰を前後に動かしても、力を失った男性器官は弱々しく陰唇をノックするだけだ。汗が篤郎の額を流れ落ちる。
　その汗が柔肌に落ちたのか、不意に、倒れている少女の若い肉体が緊張し、喉が大きくゴクリと鳴った。篤郎は生身の女のそのわずかな動きに慌てて、急いで身を離した。娘は、苦しそうに頭を左右に振らしている。篤郎は我に返り、ズボンの前を手で押さえながら小屋から逃げ出した。幸い外に人のいる気配はない。
　急がねば。しかし、自転車の置いてあるところまで駆け戻る途中、篤郎は立ち止まって、「アチチチ。」と激痛に顔を歪めた。走りながら身繕いをしようと焦る余り、ズボンのファスナーで男根を挟んでしまったのだ。情けなさと痛みに舌打ちしながらファスナーを引き上げ、ベルトを締めた篤郎は、自転車に飛び乗った
。
　そこから、どうやって家に帰ってきたのかは、よく思い出せない。帰ってくるなり、篤郎はまず手を洗った。洗っても洗っても汚液の臭いが残っている。シャツやズボンにも汗やら体液やら埃やらがついている。誰にも見られないように素早く服を脱いで、ぐるぐる巻きにして洗濯かごに放り込んだ。それから、篤郎は自分の部屋にこもり、頭を抱え込んだ。もしかしたら、自分が婦女暴行の犯人にされるかも。何か証拠になるようなものを残してこなかったか。彼女は自分の顔を見ただろうか。悪い方向へ悪い方向へと考えは進み、篤郎はまっさかさまに奈落の底に落ちそうだった。

　よく眠れない夜を過ごした次の朝、篤郎は、喉に重い鉛を呑み込んだような気持ちのまま高校に向かった。いつ自分の前に警官が現れ、「お前を逮捕する。」と告げられるか、気が気ではなかった。教室でも、他愛もないクラスメートの話に聞き耳を立てる自分がいた。しかし、誰も昨日の「事件」を口にするものはいなかった。何もかもが、いつもどおりだった。篤郎たちの県立高校の夏期補習は、出席するもしないも自由という建前だったが、国立大文系への進学クラスとされている篤郎たちのクラスはほぼ全員が出席していた。尾崎や小島も、篤郎と同じクラスである。二人は教室の一番後ろで隣同士に座り、補習中もひそひそ話をしていた。
　休憩中に、雅士が尾崎と小島に「よう、昨日はどうだった？」と声を掛けるのが聞こえた。篤郎は自席からそちらの方を振り返った。
「どうだったって、何が？」軽くあしらうように小島が雅士に問い返した。
「何がって、昨日の映画だよ。」意味深な笑顔を浮かべて雅士が言った。
「何の話だよ。」尾崎は、分かっているのにわざととぼけたような口調だ。雅士は焦れて、
「行ったんだろ、新島館。」と声を張り上げた。
「しいっ、大きな声出すな、雅士。」鋭く小島が止めた。
「ああ、映画な。やけにリアルだったよな。」尾崎が意味ありげに小島の方を見た。
「リアル？そうだ、リアル。すごくリアルだった。」小島がニヤッと笑ってそれに応じた。
　篤郎は、尾崎たちの様子を見て、怪しいと思った。昨日、白いライトバンで逃げた二人は、あの敏捷さから言ってせいぜい２０歳代前半くらいまでの年齢なのではないか。背格好も尾崎たちによく似ていたと言えなくはない。しかし、冷静に考えると、昨日補習が終わって、制服を私服に着替え、車であの現場に移動し、少女に乱暴するなどということは、時間的に不可能である。篤郎が学校を出て自転車であの現場にさしかかるまで２０分とはかかっていないはずだ。
　篤郎はため息をついて窓の外を見た。校庭のバックネットのあたりで、真っ黒に日焼けした野球部の一年生が何人かバットを振っていた。