玲子（その1）

　築20年以上といったところだろうか、その団地群は、開発から取り残されたように寂れきって、夜になると、居住する者以外には気味悪いくらいに真っ暗であった。

　錆びつくを通り越して風化を始めたと言うべき「居住者以外の車の立ち入りを禁ず」と書かれた標識の前に、黒いデ・トマソ・パンテーラが停まり、助手席から若い女と、運転席から中年の男が降りてきた。

「ここで待ってろ」
「はい」
　喪服のスーツは真新しく、男は女に命じて歩き出した。
「社長、このヤマは『仕事』ですか？『お楽しみ』ですか？」
　思い出したように女が男に声をかけると、男は立ち止まった。
「どっちかなあ…」
　振り返らず男は答えると、そのまま団地の中に入っていった。

　何枚ものビラを剥がした跡の残るスチール製の玄関の扉に、「忌中」と書かれた紙が貼ってあり、男は呼び鈴を押さずに扉を開けた。

「御免下さい」
「…はい」
　中から出てきた女が怪訝そうに男を迎え、その喪服姿に夫の弔問と理解したらしく、中へと招き入れた。

『藤井経済研究所　所長　藤井俊哉』
　男が渡した名刺にはそう書かれていた。

「このたびは突然のことでお悔やみを申し上げます」
「おそれいります」
　正座して下げた頭を上げるとき、藤井は自分と向かい合って正座する女の膝と、わずかに見える白い太股を盗み見た。

　藤井が頭の中で、調査した内容を思い起こす。

　清水玲子：34歳
　子供は9歳と6歳の男の子
　夫である清水雄二は、脱サラして浄水器の訪問販売の仕事を始めるが、
　それが完全なマルチで、いつの間にか借金で火ダルマになり遂に自殺。

　玲子の顔を改めて見ると、おそらくは少女時代からすでにそうだったであろう幸薄そうな顔で、夫を亡くしたショックもあってか、年齢よりもやや老けて見える。
　小さな目と薄い唇、そして疲れているのだろう後れ毛がそのままになっていて、地味と苦労を絵に描いたような女だったが、胸は大きそうだった。

「ところで奥さん突然ですが」
　藤井は玲子の小さな目を見据えて言った。
「カルダモンファイナンスとターメリックローンの債権は私が買い取りました」
　玲子がはっとした顔をした。そう言えば、ノイローゼ寸前になる位に激しかった取立てが、ここ数日はピタリとやんでいた。

「今後は私にお支払い下さい」
「…は…はい」
「今月はいいですから、来月からお願いしますね？なあに、少しずつでいいですよ」
「…ありがとうございます…今、お茶でも淹れます」
　そう言って立ち上がった玲子の後姿は、喪服ということもあってか、ウェストのくびれから大きめの尻へのラインがきれいな弧を描いていた。
「いえ、奥さん！　私はこれで失礼します」
「あ、でも…」
「いえいえ、気を落とされないように…来月からお願いしますね」
「…はい」

　車のそばでは、藤井の助手である萱間里子が待っていた。
「ご苦労様」
「このヤマはお前ノータッチでいいぞ」
　そう言うと藤井は運転席に乗り込み、里子が助手席に乗り込むと同時にV8エンジンが地鳴りのような音をたて、車は動き出した。
「今回は『お楽しみ』ですか」
「ああ、そうするよ」
「まあ債権も、一千万を六掛け程度で買ったものですからね」
「ああ…俺は悪党だよな…？」
「でも悪党と行動をするのは、いいものですよ」
「なんでだ？」
「自分の良さがわかりますから」

　都心の一等地とはいえ、古い5階建て程度のビルが並ぶ裏通りに藤井が所有するビルはあった。メインは土地と証券関係だが、それ以外にも債権、高級外車、果ては偽造パスポート用の戸籍にいたるまで、何でも扱うブローカーが藤井の職業であった。

　助手の萱間里子が出勤すると、いつも藤井が先に来ている。
　黒壇の机に両脚を乗せて、2段に4台並べた巨大なプラズマテレビで株式市況と複数のニュースチャンネルを同時に見ている藤井に、コーヒーを入れるのが理恵の朝の日課であった。

　背はそう高くなく、やや太り気味で髪も薄くなっていて、第一印象は「うだつの上がらなそうな男」の藤井だが、抜群に頭が切れる男で、キャバクラ嬢だった里子は助手になってもう二年になろうとしている。
　だから里子は、藤井の「特殊な性癖」も熟知しており、それに対して特に口を挟んだりもすることはなかった。

　里子は藤井にコーヒーを差し出すと、自分の分のコーヒーを持って、自分のデスクにつき、主要五誌の朝刊に目を通した。
　藤井のブローカーという職業の性質上、夜討ち朝駆けもザラだが、ヒマなときは、こうして新聞を読んでいるだけで里子の午前中の仕事が終わってしまうこともある。

「…里子…俺、今日ちょっとでかけるわ。留守頼むな」
「わかりました」
「塩漬け食ってくるわ」
「いってらっしゃい」
　ショートカットの前髪がわずかに垂れるほど、大げさな位にうやうやしく里子は頭を下げた。
　里子はこの仕事を始めるとき、髪の色を黒く染め直した。
　水商売からの決別を誓う意味でだが、スカートのスリットの深さと血のように真っ赤な口紅が前職の名残りであった。

　事務所に独りになった里子は、書類棚から皮製のファイルケースを取り出した。
　その中には藤井の塩漬けリストが2センチくらいの厚さで入っていた。
　「塩漬け」とは、（藤井にとっては）さほど高額でない債務を負った女性のことであり、それは借金であったり家賃の滞納であったりあるいは密入国などのビザがらみであったりだが、それらは回収するより、藤井の個人的な「お楽しみ」として使われる事が多かった。

「ああ…この間の未亡人かぁ…そう言えば入金がないわね」

　バス通り沿いに立つ小さな弁当屋の裏口から、パートを終えて、疲れきった表情の玲子が出てきた。
　駐車場の入り口に藤井が立っているのを見て、玲子の足が止まった。
「藤井さん…」
「こんにちは、用件はおわかりですね？」
「はい…すみません」
「まあ乗って下さい」
　言われるまま玲子は、藤井の車に乗り込んだ。
　走り出した車の中で藤井は、事務的に切り出した。
「利息だけでいいんですよ？　しかもこれからは法定利息ですし」
「すみません…あの…どこへ行くのですか？」
　その質問に藤井は答えず、車は玲子の家と反対方向へ走り、川を渡った。その橋を渡った瞬間、玲子は昔の思い出が蘇った。
　かつて夫と交際していた幸せだった若き時代に、よく通ったホテル街がある小路。
　そして今まさに藤井の車がその小路へ入った。

「ちょ…ちょっと藤井さん」
　うらぶれた、ホテルというよりは連れ込み宿という風情の平屋の旅館の駐車場に車を停めると、藤井は言った。
「本当はね、一度遅延したら全額回収というのは原則なんですよ。でも私はあなたに約束しましたよね？利息だけでもいいって」
　玲子はうつむいて、安物のベージュのスカートの裾を握り締めた。