奈緒（その1）

「ふっ藤井ちゃぁん」
　藤井の事務所に一人の男が入ってきた。
　180センチはある長身の男は、異様に痩せ細り、頭蓋骨の輪郭がはっきりわかる、これ以上ないくらいにこけた頬。
　スキンヘッドの頭頂部には、曼荼羅のような刺青が入り、耳、まぶた、鼻、唇に無数のピアスが入っていた。

　男は事務所のソファに座って、かくかくと頭を左右に揺らしながら言った。
「ててててってて手に入れてほほ欲しいものがあるんだ」
　いつものように黒壇の机に足を乗せたまま、藤井が笑った。
「どうした？レンちゃん、何が欲しいんだ？」

　藤井が「レン」と呼ぶこの男が、里子はあまり好きではなかった。
　理由は、レンがいつも着ている革ジャンから漂う革の匂いにあった。
　皮革製品の匂いは別に嫌いではなかったが、初めてレンに会って、藤井からレンの「職業」を聞いた瞬間、その匂いが嫌いになった。

「ああああのね、かかカーボンナノチューブ欲しいの」
「カーボンナノチューブって…あれか？」

　里子も名前は聞いたことのある素材で、即座に毎朝チェックしている新聞で紹介されていたのを思い出した
　確か…炭素から精製される恐ろしく強靭な素材だったはずあんな「仕事」をしているレンが、それを何に使うのかは怖くて考えるのもイヤだった。

「そっそっそそうなの、俺お金出すのに、かか数がないって」
「…どれくらい欲しいんだ？」
　藤井も何に使うのかを訊かなかった。
「とっとっとりあえずじっじっ10グラムくらい」
　藤井は人差し指をこめかみに当て、少し考えると、大きく息をついて言った。
「米軍経由で横流しが…手に入るかもしれないが高いぞ？」
「いっいっいいよ」
　レンは生気のない顔の、口元を歪めて笑うと立ち上がり、バッグの中から薄茶色の封筒を出すと、藤井の机の上に置いた。
　レンガくらいの厚さから見て、一千万くらいはあるだろうか。
「ふっふっ藤井ちゃんだからあ安心してままま前払いだよ」
「わかった、手に入ったら連絡するよ」

　小指を立てて紅茶を飲みながら、レンが思い出したように言い出した。
「そうそう藤井ちゃん！ほっほっ保険ってはは入ってる？」
「天涯孤独の俺がそんなもん入るかよ」
　藤井は契約している通信社から届いた官報から顔も上げず答えた。

「しっしっ知り合いの生保レディが、やばい事になってるんだよぉ」
「やばい事？」
　藤井が顔を上げた。

「せっ先々月あたりからのっノルマが取れなくて、今月なんかゼロらしいんだ」
「レンさんが入ってあげればいいんじゃないですか？」
　里子がレンと目を合わせないように言うと、レンはけらけら笑いながら、
「だだだって俺ってこっ戸籍のない人間だしさ」

（戸籍がない？）里子は表情には出さなかったが、一瞬驚いた。
「まあ…保険の世界ではよくある話だからなあ」
　藤井が椅子の上で大きく伸びをしながら言うと、レンはカクンと立ち上がった。
「こっこっこのあたりで飛び込み営業しっしてるみたいだよ」
「生保が飛び込み営業ってのはよっぽどなんだなあ」
「まっまあ俺、個人的な知り合いだから、来たら話くらいっきっき聞いてあげてよ」
　レンは「逝ける王女のためのパヴァーヌ」を鼻歌で唄いながら事務所から出て行った。

　塚越奈緒は焦っていた。
　保険の外交の仕事を始めて2年、ただでさえノルマのきつい中、数少ない加入者が同時に二件のロスレシオ。つまり保険金支払い対象案件になってしまったのだ。

　本来、外交員は加入者を確保するのまでが仕事なので、その加入者が事故に遭おうが死のうがペナルティは関係ない。
　しかし、それはあくまで建前であり、このご時世にあって成績不振者によるロスレシオの発生で、奈緒の営業所では奈緒への風当たりが強くなっていた。

　奈緒は今年で38歳になる主婦である。
　ほんの一年前までは、ごく普通の専業主婦だったが、中学生になる息子が、電車の中で乗客に暴力をふるい、後遺症の残る怪我を負わせてしまい、慰謝料による負債を抱えてしまったのだ。

　奈緒の夫もまた、会社を辞めざるを得なくなり、家族は逃げるように引っ越して来て、奈緒は借金を返すために、保険会社に外交員として入ったのだった。

　団体加入の口を見つけるのが一番手っ取り早いのだが、奈緒はどうにも要領が悪く、結果的に個人や商店を一軒一軒回る営業をするしかなかった。
　ほとんどの場合は、名刺すら受け取ってもらえないが、それでも奈緒はその営業をする以外に手段はなかった。
　そうして今日は、この雑居ビルの立ち並ぶ界隈に足を踏み入れた。

　一階から五階までのビルの一階から営業することはしなかった。
　なぜなら一階の会社で断られて、上の階まで行って帰るときに一階の会社の人間に会うのが気まずかったのだ。
　このあたりが、主婦あがりの奈緒の営業力の限界とも言えた。

　奈緒は「藤井経済研究所」と書かれたパネルが貼り付けられたドアを開けた。
「ごめん下さい。私白檀生命の塚越と申します」
　藤井は、一目でレンの言っていた生保レディであることを理解すると、冷淡にではあるが、応接室のパーテーションに奈緒を通した。
　まずここまでこぎつけた客はずっといなかったものだから、奈緒は必死で藤井に保険を勧め始めたが、藤井は適当に聞きながら、奈緒を値踏みしていた。

　あまり美人ではなく、一言で例えるならタヌキ顔。
　下ぶくれの頬は赤く、そばかすが浮いており、やや小太りの奈緒は、普通だったら「体をエサに勧誘をできるタイプ」ではないことは間違いなかった。実際奈緒は、契約の条件に関係を迫られたことはなかった。

「一番保障の大きいのはなんでしょうか？多少掛け金高くても税金対策になるでしょう？」
　藤井が奈緒の説明を遮って尋ねた。
　奈緒は降って沸いたような幸運に舞い上がるようにバッグから、一番高いガン特約のついた生命保険のパンフレットを取り出して、藤井に渡し、説明しようとしたところで藤井がまた遮った。
「塚越さん、とりあえず今日は帰りなさい」
　奈緒がきょとんとしていると、藤井が続けた。
　本気であることを奈緒自身に伝えるためにも、奈緒の目を見て。

「あなたの体が条件です。なに、生保の世界ではよくあることでしょ？抱かせてくれたら、確実に契約しますよ」
「しゃ…社長さんったらもう冗談が…」
「本気ですよ？だから今日は帰って、よく考えて、この条件飲めるなら…ここに」
　藤井は懐から名刺を取り出し、携帯の番号を書くと奈緒に渡した。

　奈緒は、帰り際オフィスの机にむかっていた里子の顔を見た。
　たった今の藤井の、単刀直入で露骨な要求が聞こえていたはずなのに、里子はとくに冷静を装う様子でもなく、本当に無関心そうにデスクトップに展開するエクセルで作った何かの表を眺めていた。

　その夜、結局他の契約は取れず、消耗した奈緒が帰宅すると夫の大志が、夕食を作って待っていた。
　息子は夜遊びに出かけて行ってしまったようで、夫婦二人だけの夕食になった。
「仕事…大変か…？」
「…ううん…大変なのはみんな同じだから…」
　失業中の大志は、ねぎらうように訊いて来たが、奈緒はとても今日の話はできず、当たり障りのない返事しかできなかった。

　ただ言葉の代わりに、その夜は久しぶりに奈緒の方から大志を求めた。
　大志の突き上げに激しい声で応え、一回目が終わっても奈緒は、即座に大志のものを何度も舐めまわし、新婚以来の貪欲さでその晩三回の交わりを済ませると、大志は疲れ切って眠ってしまった。

　大志が眠ったのを確認して、奈緒はベッドから起き上がるとタンスを開けた。中には来月に近づいた結婚記念日の夜のために通販で買ったシルクの下着の上下がしまってあった。
　藤井を悩殺するつもりなど毛頭ないが、せめてそのとき下着くらいは上等のものをつけていないと、みじめな気分から立ち直れそうもなかったのだ。

　奈緒はバッグの中から携帯を取り出すと、洗面所に向かった。
　デジタル時計のLEDにぼんやり照らされた自分の顔がうつっている。
　思春期の頃から可愛いなんて言われた事はなかった。
　38歳になって衰え始めたこの容姿でも、夫は抱いてくれる。
　育て損なった感があるが、息子もいる。自分は家族を守らなくてはいけない。
　自分が、ほんの数時間耐えれば済むのだ。

　奈緒は覚悟を決めたつもりで、それでも軽く震える指で携帯のボタンを押し始めた。そして留守番電話になっていた藤井の携帯にメッセージを残した。極めて事務的な口調は、せめてもの虚勢だった。

「藤井様、白檀生命の塚越でございます。保険ご加入の件ですが、藤井様の提示された条件で承りますので、つきましては日時をご指定下さい。失礼します。」