| 前編 『夢の中の少女』 「…夢…？」 人の多いファミリーレストランの中、島崎真司は知人に妙な相談を受けていた。 真昼間のピーク時、何故男二人で、しかもこんな場所で昼食を取らなければならないのか、と思っているものの相談を承諾してしまったのだから仕方がない。相手に奢らせてしまえるだけいいと思わなければならない、と真司は内心溜息をついていた。金銭の悩みの相談に乗ってやることはできないが（こちらが相談したいくらいだ）、恋愛や私生活の相談くらいなら、と思ったものである。 しかし、いざ話を聞いてみればどうだろう。話の内容はなんと『夢』である。 「…あぁ、奇妙な夢を見るようになったんだ」 『将来の夢』ではなく、寝ているときに見る『夢』。誰もが一度は見たことがあるであろうものだ。 「で、どう奇妙なんだ？」 真司が自分からそう切り出したのは、『夢』に興味がわいたからではない。正直、相談するなら医者のほうがいいだろう。 しかし、島崎真司という男は、目の前にいるこの男が、どうでもいいことを自分に相談してくる人間ではないことをよく知っている。 だからこそ、明確な回答は出来なくとも、話くらいは聞いてやろう、と思ったのである。 「…夢に、女の子が出てくるんだ」 「…は？」 『なんだそりゃ』と正直に思った。 「ただの女の子じゃない。見たことのない女の子…薄い紫色の髪の女の子だった」 前に会ったときよりも心なしか少しやつれて見えるこの男…桜野昭。その口からは、突拍子もない話が飛び出す。 （なんともファンタジーな話だな） 『夢』というものは、自分自身の過去の記憶や、逆につい最近の出来事を投影して見ることも多い。 もちろん、まったく突拍子もない夢を見ることだってある。しかし、紫色の髪の少女、というのはいささか突然すぎないだろうか。 「…それで、その女の子がどうなるんだ？」 「…ずっと、俺を見ているんだ。ただじっと、表情ひとつ変えずに、氷のような表情で。 彼女は、夢の中ならどんな場所にでも出てくる。ビルの屋上、車が飛び交う道路の真ん中、水の中にいることもあった。 でも、ただ俺を見ているだけなんだ。ずっと見ているだけなんだ。今日は…電車の片隅の席で俺を見ていた」 『何もしない』。昭にはそれが一番恐ろしいのだろう。毎日、毎回夢に出てくる少女はまるで自分に何かを訴えかけるようではある。しかし、その表情から何を訴えているのかはうかがい知れないし、口も開いてくれないという。 不思議な話だ、と真司は思う。だが、それを聞かされても、彼自身には何をどうすることもできない。 何しろ相手は『夢』である。自分自身で好きな夢を見ることすら出来ないというのに、人の夢に入り込むなどということがどうしてできようか。 「『夢』を見るようになったきっかけがあるんじゃないか？」 真司はそう言った。その少女に直接会ったことがなくても、何らかのきっかけがあって頻繁に出てくるようになったのかもしれない、という意味だ。 「きっかけ、か…」 昭のほうは相当考えたようだが、その返答はなかった。結局、明確な答えなど出るはずもなく、この場は解散しなければならなかった。 が、真司はひとつだけ助言を与えた。それが出来るかどうかはわからなかったが。 しかし、この昭が悩んでいたのは事実らしい。何しろ、出された食事にほとんど手をつけていなかったのだから。 思えば、あの少女はいつから夢に出るようになったのだろう？ 『紫色の髪を持つ少女』。もちろん、自分の記憶にそんな少女はいない。自分より二廻りくらい低い身長のようなので、大体1４５ｃｍ程度だろうか。まだ幼さの残る顔立ちで、その特徴的な髪は腰まで伸びていた。 彼女の周囲にいる人物などのことはほとんど覚えていないのに、その少女のことは鮮明に分かる。 少女が自分を見ているように、自分も少女を見ているかのように。 この少女が自分の夢に出てくるきっかけがあるとすれば、それは何だろうか？ 真司に言われてから、昭はずっとそんなことを考えていた。大学を卒業し、幸いにも就職に成功した彼は、今のところさしたる悩みはない。将来に対する不安も、ないとは言わないが差し迫ったものではない。貯蓄もないわけではなく、まだ両親も存命しているし、そちらのほうも心配はないだろう。後自分に悩みや心配事があるとすればなんだろうか？ 考えて、彼は首を横に振る。どう考えてもあの少女に結びつかないのである。 昭は、真司に言われたことを試そうと思っていた。知人に相談しなければならないほど気になっている問題ではあるが、不思議と眠るのが怖いわけではなかった。漠然と不安はあるが、少女が何もしてこないのもあるし、顔立ちの幼さから、自分を害する存在にも思えないからであろう。 …今日の自分は、自分が勤める会社のロビーにいた。周りでは同僚、そして上司もいるし、いつもどおりに働いている。 しがない製造業に勤める彼は、まだまだ新人であり、上司に叱責を受けることもしばしばある。 しかし、周りは自分に気づかないように、いつものように仕事をしている。 そんな中、ひとつだけ異彩を放つ姿があった。 （…いた！） あの少女だ。何故か社長の椅子に座ってこちらを見ている。 （相変わらず無表情だな…笑えば可愛いだろうに） 真司に相談できたからだろうか、今の彼には少し余裕があった。いつもならば何も出来ぬまま目覚める彼だったが、今日の彼は意を決したように行動している。 社長の机…『少女』の目の前まで歩いた昭は、その姿を始めて目前で見ることになる。 自分が目の前に来たというのに眉ひとつ動かさない少女。 （改めて目の前で見ると、結構可愛いな…顔立ちは） 自分には少女に手を出す趣味はさすがにないが、妹にこんな少女がいたら楽しいだろうな、と思う。 いや無表情なのが問題ではあるが。 「…君は、いつも俺『だけ』を見ているのか」 ここは『夢』。自分自身の『夢』である。つまり、現実の昭は眠っているはずだ。自分自身が好き勝手に話が出来ることに昭は素直に驚いていた。まるでここが現実の世界なのではないか、と錯覚に陥った。 「…そうだ。お前を見ている」 少女らしく高い声で、返事が返ってきた。まさか本当に返事が来るとは思っていなかった昭は面食らった。 「…何故？」 目線が合わないのが気になったのか、少女は態勢を変えて椅子の上に正座する。そのしぐさはなんとも愛らしい。 （よく見ると…すごい服装だな） 白いワンピースの上に黒いコートを羽織った姿に、紫色の髪が映えている。周りは仕事場で、上司や同僚が忙しく動き回っている。 まるで、二人には一切気づかないように、いつもどおりに仕事をしている。 「…お前を、知りたい」 「…え？」 「…それが、わたしの役目だから」 言葉は少ないが、ハッキリと分かる声でそういわれた。 「役目？」 昭が、鸚鵡返しに言う。しかし、少女のほうは、昭の眼をじっと見つめたままである。 （…知りたい、と言った割には何も聞いてこないな。本当に見ているだけじゃないか） 目の前のこの少女は、自分に一体何をするつもりなのだろうか。 夜が明けて、昭は目を開いた。いつもどおりの朝だ。体には特に異常もない。 （あの女の子は…俺の問いに答えた。『知りたい』と言った。それはどういう意味なんだ？） 夢では仕事場の中だっただけに実感が湧いてこないが、今日は日曜日。昨日に続いて仕事は休みである。 一歩進展こそあったものの、あの『夢』が不気味なものであることには違いはなかった。 あの少女が自分のことを『知りたい』と言った以上、これからもまたあの夢を見続けることになるのかもしれない。 しかし、『不気味』とは言ったものの、あの少女と話をしたことで、不思議と不快感はなくなっていた。 語感は冷たいし、いきなりの『お前』呼ばわりではあったが、どこかその響きに安心を覚えるような声だったのである。 『自分から話しかけてみたらどうだ？』という真司の助言は、ある意味的を得ていたのかもしれない。 「しょうもない相談をしちまったかな…まぁ、いいか…」 身支度を整え、なんとなく外に出てみようと思う。一人暮らしの昭には恋人も今のところなく、休日はといえば特にすることがないのである。 とはいえ、さすがに二日連続で真司を誘うのも悪いので、一人で目的もなく出歩くことにしたのである。 「うわっ！」 青になった歩行者信号を渡ろうとしたところで、昭はあわてて立ち止まった。信号無視のトラックが突っ込んできたのである。 「危ない危ない…あんなのに撥ねられたら無事じゃすまないな」 ふぅ、と溜息をつく昭。用もないのに出歩く自分も多少悪いのかもしれないが。 （とりあえず、本屋でも覗くかな。コンビニでもいいけども） 「…あら？桜野くんじゃない？」 目指すコンビニを目前にして、後ろから声をかけられ、昭は振り向く。と、そこには黒髪の美女がいた。 「…君は？」 一瞬、誰だか分からなかった。自分の知り合いに、こんな美女がいただろうか。すると、彼女は頬を膨らませた。 「もう忘れちゃったの？志田彩（あや）だよ、ほら」 言われた昭は、『あっ』と声を上げた。最後に見てからまだ十年も経っていない、高校で同級生だった彩だったのである。 （…ずいぶん大人っぽくなったもんだなぁ） 素直な昭の感想がそれだった。高校三年生以来会っていないのだから、五年以上会っていない計算になる。 歳を経て少女の枠を出、大人の色気を持つのは当然なのかもしれないが、それでも当時の幼さの残る顔立ちを知る昭には、その姿は意外に思えるほど美しかったのである。 この彩は、高校時代の自分にとっては『高嶺の花』とも言えた存在である。 別に彼女が大金持ちの家柄だ、とかそういうわけではないし、自分がいた高校の先輩には、日本でも有数の財閥の娘が在籍していたのを覚えている。彼女はそれこそ高嶺の花で、いつも取り巻きがいたのを覚えている。もっとも、本人は酷く嫌がっており、しつこく言い寄ってきた先輩の腕をねじり上げ、投げてしまったという話が残っているが。 さて、彩のほうも自分たちの学年ではかなり人気があった…のだが、本人はそれを気取らない性格であり、誰でも分け隔てなく接していた。クラスが違っていたため、志田彩と直接話をしたことがなかったこともあり昭のほうは彼女をすぐに思い出せなかったのである。 （…ん？俺、彼女と話をしたことがないな。俺がすぐに思い出せなかったのに、なんで彼女のほうは俺が分かったんだ？） クラスも違い、話をしたこともない昭は、すぐにその疑問に思い当たった。同級生に彩を覚えている人間は多くても、彩のほうが他人のクラスの、しかもまるで話をしたことのない人間を覚えているとは思えないのである。 「君、なんで俺のこと知ってるの？」 その疑問を、素直にぶつけてみる。自分でも不思議だった。特に悪いこともしていないし、特に優等生でもなかった自分がなぜ人気者だった彩に覚えられているのだろうか。 その質問を受けた彩は、口元に笑みを浮かべた。 「…『好きだった』、って言ったら、信じてくれる？」 「…は？」 小声で、とはいえ路上であらぬことを言われた昭は、思わず『信じられない』という声を上げた。 「ふふっ、冗談よ」 昭の反応を見た彩は、可笑しそうに明るく笑って見せた。 「今日は用事があるからゆっくりと話せないけど、また後で…そうね、来週の土曜日にでも会いましょう」 そう言った彩は、自分の電話番号やメールアドレスをわざわざ昭に教えるのだった。 思わぬことが起こり、コンビニに寄るどころではなくなってしまった昭は、そのまま家に帰ってしまった。 つまり、舞い上がってしまったのである。高校時代のこととはいえ、相手はクラスのアイドル的存在である。 そして、そのアイドルは今大人の色気を持って自分の前に現れ、自分から声をかけてきたのだ。 正直なところ、彼自身もまた彩に憧憬の念を持っていたのだから、舞い上がるのも無理はない。 来週の土曜日…どうなるのだろうか。彼は、昨日友人に話した悩みのことなど忘れてしまうほどに胸を躍らせていた。 少女は、昭の部屋を見下ろしていた。今頃はもう寝るところだろうか。とすれば、またやることがある。 「他の者ならもっと素早く、手際よくやるんだろうが…わたしにはこの方法しかないか」 少女の瞳はあくまでも光がなく、声には感情がこもっていなかった。 「…また君か」 今度は、前にもあった電車の中だった。片隅の座席に座っている。周りは超満員で、ぎゅうぎゅう詰めになっていたが、自分もこの少女も運がよかったのか、きちんと席に座っている。しかも隣同士だ。 そんな状況でも、少女はやはり表情を変えない。眉ひとつ動かしていない。 （不思議な子だな…） 思えば、この少女が夢に出るようになった直後に、あの彩との出会いがあった。 （ひょっとすると、この子は、俺が不安を持ったのとは逆に、幸運を呼んだとかなのか？） 身勝手な解釈だ、とは思ったものの、そう思わずにはいられない。 「…君は、何者だ？」 隣の少女に向かって、そう声をかけた。相変わらず、まわりの世界は音を失っている。 ただ『いるだけ』という存在であり、自分たちには気づいていないようだ。時折電車が揺れるが、駅に着く気配はない。 ここが夢の中だからだろうか。 「…わたしは、お前を知って…そして、お前の願いを叶える」 「え？」 その瞳からは表情はうかがい知れないが、少女はまっすぐに自分を見てそう言う。嘘をついていたり、あるいはからかっているだけのようには見えないし、この少女にはそういった機知がないように思える。 （だから、『願いを叶える』って言ったのは…本当のことなのか） 昭はそう思う。しかし、この少女にそんな力があるとでもいうのだろうか？ 「だから、こうして毎晩お前の夢に出て、お前を知ろうとしている」 「何故、俺なんだ？…その理由を、はっきりと言ってくれないか？」 「それは無理」 そっけなくそういわれた昭は、なんとなくムッとした。友人の真司に話したことで多少気が楽になったものの、この少女の存在が自分の不安を煽っていることには変わりはないのである。 反射的に、少女の肩を掴んでいた。少女のほうは声を上げるどころか、嫌がる素振りも見せなかった。 「もし俺が、今ここで君を襲いたい、って願ったらそうさせるのか？」 もちろん、そんなつもりは毛頭ない。第一ここは夢の中である。不思議なことに、昭はもう、ここが『夢の中である』という自覚を持っていた。 そして、夢の中であるはずなのに、冷静にものを考えることが出来ていた…のだが、それが異常であることには気づいていなかった。 「構わない。好きにしろ」 なんと、少女はそう言った。相変わらずその瞳に感情はない。 「だが、わたしは見ての通りだ。たぶん何をしても、お前が望むとおりの反応は返せない」 （そうだろうな）と、昭は思った。目の前の少女の瞳には感情がない。自分がどんな酷いことをしたところで声を上げたりもしないだろう。 ただ思うがままにさせることはあっても、させるだけであろう。 「やれやれ…」 昭はその肩を離してやると、溜息をついた。 「…しないのか？」 「悪いが…いや言った俺のほうが悪いが、子供にはさすがに興味はない」 「そうか。いや、そういう人間だと分かってる」 そのとき、少女の口元が、ほんの少しだけ微笑むように緩んだのが見えた…が、それは気のせいだったのだろうか。 再び見返すと、またもとの無表情に戻っている。 「…さあ、そろそろ朝だ。お前は目を覚まして、いつもどおりの日常に戻るんだ」 「まだ、君が何者なのか、俺には教えてくれないのか？」 「今はその必要はないだろう」 ぱっ、と目を開くと、そこは電車の中ではなく、見慣れた自分の部屋だった。目が覚めたのである。 あんなよく分からない夢を見たというのに、目覚めは不思議とすっきりしている。 「…夢の中で女の子と話をする、っていうのは不思議な気分だな…」 ふと、自分が少女に言った言葉が思い起こされる。 『今ここで襲いたいと願ったら、そうさせるのか』という言葉。その後の少女の小さすぎる微笑。 （やっぱり、襲うべきだったのかな？） あの少女が感情を表す瞬間を見てみたい、という願望が残っていた。どうせ、彼女が存在するのは夢の中なのだ。 夢の中で未成年と淫行をしたところで、警察に逮捕されるわけでもない。 が、あの少女は『そういう人間だと分かってる』という。まるで見透かされているような気分でちょっと腹が立っているのも事実である。 （次に出会ったら…悪戯してみようかな） と、いかがわしいことを考えてしまうのであった。 平日の日常が再び始まり、昭はまた忙しい日々を送ることになった。もちろん仕事で、である。 しかしどういうことだろうか、体の調子もよく、今までにないくらいスムーズに仕事が進んでいくのである。 上司からは『君もどうやら分かってきてくれたようだ』と褒められもした。 あの『夢』のせいなのだろうか、それともこれが本当の自分の実力なのであろうか。 その日から毎日、あの少女は夢の中に出てきた。やはり見ているだけ、である。 こちらから話しかければ応えるが、必要なことしか喋ってくれない。まるでそれが仕事であるかのように。 一時は『悪戯してみようか』とは思ったものの、まるで抵抗の様子も嫌がる様子も見せない少女にそんなことをするわけにもいかない。 とはいえ、何故か昭は、毎日見る夢のことを少し楽しみにするようになった。 視線が冷たいというより感情のない彼女ではあるが、なぜか見ていると安心感があるのである。 それとは真逆だが、ある種の危うさも彼女の中に感じる。どういう理由かは分からないのだが…。 「お前も酔狂だな。何故わたしに何度も話しかける？わたしは、特に答えることもないというのに」 数日経っての夢の中、今度は少女のほうから話しかけてきた。 「そりゃそうだろう、毎日違う夢なのに決まって君がいるんだから気になるに決まってる」 「そうなのか」 やはりこともなげにそう言うので、昭は逆に苦笑させられてしまった。 「わたしがお前の夢の中に出るのは…お前があまりにも強情だからじゃないか」 「は？」 やっと、質問に答えらしい答えが返ってきたと思ったら、この言い方である。『強情だから』とはどういう意味なのだろうか。 とくに『いい迷惑だ』みたいな言い方はしないし、いつもどおりの無表情なので逆に腹は立たなかったが、気になる言い回しではあった。 「もう何日かしたら、『大切な日』だろう。わたしに構っている暇はないだろう」 『大切な日』というのは、次の土曜日…つまり彩に会う約束になっている日のことだろう。この少女は何もかも知っているのだ。 もっとも自分の夢の中にいるくらいなのだから知ってて当然なのかもしれないが。 この少女は、自分の夢が生み出した産物なのだろうか、それとも外部から何者かが入ってきたものなのだろうか。 前者ならば、自分の精神が彼女の存在を求めていることになる。後者ならば、誰かが自分の体をどうにかしようと思っている。 しかし、現実的に考えて後者はありえないだろう。夢の中に入り込める存在など…。 「そういえば、今まで聞いたことがなかったが」 昭は深く考えようとはせず、思い出したように言う。 「君、名前は？」 そう、今の今までずっとこの少女の名前を知らなかったのである。 「名前？」 「そうだ、俺の名前は知ってるだろう？」 そういわれた少女は、こくん、と一度ゆっくりうなずいた。 「わたしに、名前なんてない」 そういわれたとき、いつものとおりに意識が遠くなった。いや、目覚めるのだから意識が遠のく、というのも微妙な言い方だが。 「名前か…」 完全に途切れる瞬間、少女の呟く声が聞こえた…ような気がした。 『ここのところ妙に忙しいな』、と島崎真司は思う。といっても、一週間程度やたら多忙だっただけなのだが…。 会社の仕事で急に出張が決まったり、遠い身内で結婚があったり、そして逆に知人に不幸があったり、である。 そんなこんなで、不幸や結婚で休みを取ったにも関わらず、やっと訪れた金曜日の（正規の）休日にはすっかり疲れが溜まっており、『ただ寝ていたい』という状態だった。 目を覚まして朝食を取った彼は、『体に悪い』というのを承知ですぐにまた横になった。このまま昼まで寝てしまえ、である。 ところが、その直後に電話が鳴り、彼は『やれやれ』と飛び起きる。 （仕事の電話じゃなきゃいいんだがなぁ） この前の土曜日も電話をきっかけにして予定ができたな、と彼は思う。しかし思えば…。 「はい」 『あぁ、真司、いたか。朝早くからすまない』 （えっ！？） と内心思った。電話の向こうからは桜野昭の声が聞こえた。聞き間違いかと思ったが、その声は間違いなく昭のものだった。 しかも、どことなく明るくなったようにすら聞こえる。その電話の内容とは、高校時代にアイドル的存在だった志田彩と次の土曜日…つまり明日会う、という話だった。向こうは言いたいことだけまくし立てるように言って、電話を切ってしまったが真司のほうは呆気に取られて、言葉を返すこともできなかった。 （そんなバカな） 頭を振って考える。そんなことがあるわけがない。あの昭から電話などあるわけがない。ではあの電話は誰なのだろうか？ 「…あいつは…」 |
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| 2012.6.30掲載 |
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