６

　　　　　　　　　　　　　　（Ｍ）

「なんだって！」
　電話からその事実を聞いて、私が驚愕しないわけがなかった。
　彼女の携帯電話の番号から届いたのは、警察からの、彼方が自殺未遂で昏睡しているという話だった。
　彼方は身寄りがなかったのだ。両親もすでに死亡、携帯電話のアドレス帳から私の名前を見つけ出したらしい。
『それから、貴方宛の遺書が側においてありました。中身は読んではおりませんので、お手数ですが、受け取っていただけませんか？』
　二つ返事で話を受け、私は急いで彼方が入院した病院へ向かった。

（なぜ、自殺など・・・！）
　例の『ＩＣＥ　ＭＡＮ』騒ぎのせいだろうか？だが、彼女に命の危険まであるわけがない。ましてや、自殺などするとは。

「ご足労ありがとうございます」
　病院にいた刑事から、私は一通の手紙を受け取った。そこには、こう書かれていた。

『わたしは　ＩＣＥ　ＭＡＮ　に…。

　わたしを愛してくれる、といってくれた貴方には、合わせる顔がありません。

　どうか、わたしのことは忘れてください』

　　　　　　　　　　　　　　（Ｐ）

（恋人に告白されたところへ、強姦されたのを嘆いての自殺未遂か・・・）
　目の前の男が、自分が読んだあと遺書を返してくれたのを読む。

　確かに、自殺未遂も大きな事件だ。だが、今はそれ以上に問題があることが発覚している。『ＩＣＥ　ＭＡＮ』の存在だ。
　数年前、『殺さない殺し屋』と言われ、極秘の内に対象の記憶を消す、という人間だった。目撃情報もなく、あるのは存在がある、という情報のみだった。
　だが、今度は違う。
「ＩＣＥ　ＭＡＮは、我々が必ず捕えて見せましょう」
　私は男にそれだけ言った。彼の、そして結城彼方嬢の無念を晴らさなくてはならない。

「影村警部。彼女はやはり、ＩＣＥ　ＭＡＮと関わった、というわけですか？」
「ああ。少なくとも、彼女を強姦した犯人は、『ＩＣＥ　ＭＡＮ』を知っている。ということは、何かのつながりがあるかもしれない、ということだ。まずは、彼女が意識を回復するのを待つしかないのか…」
　何よりも心配なのは、唯一ＩＣＥ　ＭＡＮと接触して記憶を奪われずに済んだ、結城彼方がもういちど狙われる可能性だ。
「時田、長崎、彼女の護衛を頼めるか？」
　腕っ節の強い刑事二人に、彼女の護衛を任せることにする。もちろん、相手が凄腕の殺し屋だということも忘れてはいない。そして、相手が拳銃を持っていないという保障もない。
「強行突破を受けたようなら、撃て。しかし、むやみに撃ってはいけないぞ。それから、被害者が目覚めたようならば、連絡してくれ。至急話を聞きたい状況だ」
「はい！」

「…ＩＣＥ　ＭＡＮの活動が署内で騒がれたのは、数年前のことだったな。有数の政治家や、他国の要人が次々と原因不明の記憶喪失になった事件だ」
　捜査本部にもどり、残してきた刑事二人からの連絡を待ちながら、今までの資料を漁るように引っ張りだしてくる。
　実体も姿もつかめていない、謎の殺し屋。接触した人物が記憶を失ってしまうため、一切の情報がないのだ。
　存在が囁かれるようになったのは、もちろん『事件が多発した』からにすぎない。

『また記憶喪失』
『今月で四人目　集団ストレス？それとも？』
　そんな見出しが新聞に載せられたものだ。

『…和歌、今日はちょっと遅くなりそうだ。何、心配ないよ。明日は非番だ。古都を連れて遠出でもしようか』
　たわいもない内容の電話を妻に入れる。電話を置いてすぐに、また電話が鳴った。
「時田か。被害者は？」
「今、目が覚めたようです。長崎が先に部屋に入っています。
「分かった。至急そちらへ行く。少し待っていてくれ」
　急いで上着を羽織り、私はすぐに署を飛び出した。

　眠っていた時は血の気がなかったためだろうか。今になってみると、なかなかの美人である。不謹慎だが、彼女の近くに歩み寄ったＩＣＥ　ＭＡＮが手を出さずにいられなかったわけが分かる気がする。
　（さて、素直に話すわけがないだろうな…正体不明とさえ言われたヤツだ、顔を見られるようなマネはしなかっただろう）
　まだ幼さが残るような顔だが、彼女は大人だ。自分が何をされたか、そしてそれを他人がどう思うか。それを考えると、警察の人間にとはいえ、話し辛いものがあるだろう。
「…貴方の恋人が、お見舞いに来ておりました」
「そうですか…」
　やはり、元気がない。自殺未遂した、助かった、ああ嬉しい、で済む問題ではない。もともと死のうとして自殺未遂したのだから当たり前だ。
「…犯人の顔を見ましたか？」
　あえて『何があったのですか？』とは聞かず、私はそれだけを聞いた。が、案の定彼方は首を横に振った。
「…目隠しされました」
　彼女も、恐らくは我々警察が事件の全容を理解していると見て話をしているのだろう。
「声に特徴はありましたか？地方の訛りがあったとか、しわがれていたとか」
「分かりません。気が動転してしまって…」
　当然だろう。犯人の声など気にしていられる余裕があるほうが不思議だ。

「そうだ、貴方の恋人からこれを渡されておりました」
　長崎刑事が彼女に歩み寄り、一通の手紙を取り出した。彼女は震える手でそれを受け取ると、中を開いて便箋を読み始める。
（彼女から分かることはなさそうだな…）
　こんな時に、明日が非番なのが悔やまれる。日が経てば経つほど、ＩＣＥ　ＭＡＮの影が遠ざかっていく気がするのだ。
　早く、ヤツを捕えなければ。ヤツは、『殺さない殺し屋』から、女性を犯すまでに堕ちた犯罪者なのだから。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　（Ｆ）

『それでも、貴女を愛している』

　わたしが開いた便箋には、たったひと言だけ書いてありました。わたしは、刑事さんたちがドアの外へ出て行ったあとも、そのたったの一文をいつまでも見つづけていました。
　死を選んではいけなかった。でも、これほどまでにわたしを愛してくれるからこそ、今の自分が許せなかったのです。
（ＩＣＥ　ＭＡＮ…『殺さない殺し屋』。でも、あの時わたしを襲ったのは…）
『危害を加えたりはしない』。わたしのところへやってきたＩＣＥ　ＭＡＮは確かにそう言いました。確かに、あの人はわたしの命を奪ったりはしませんでした。
　しかし、そのあとのわたしは、『死んでしまったほうがよかった』という思いに駆られました。気がついたときには、引き出しからナイフを取り出して自分の手首に当てていたのです。

　馬鹿なことをしたものだ、と他の人は思うでしょうか？あの人を含めて…。でも、わたしはおかげで気付くことができました。
　先日のことを申し訳なく思い、命を投げ捨てる覚悟ができるほど、あの人がわたしの心の中に根を下ろしてしまっている、ということに。
（人を愛するということは…何よりも残酷なことなのかもしれない…）

「ＩＣＥ　ＭＡＮ…」
　奇しくも、その存在はわたしの心に大きな不安、恐怖、そして罪悪感を残しながらも、わたしからあの人へ捧げる愛を気付かせてくれたものでもありました。
　しかし、わたしは先日のことをすべて忘れられるほど、強い女なのでしょうか？

　　　　　　　　　　　　　　　　（Ｉ）

　結城彼方が自殺を図った、というニュースは、謀らずも私の耳にすぐ届いた。
（私のせいだ・・・。彼女をそこまで追い込んだのは私だ…！）
　焼け爛れた喉をかきむしりたくなるような、そんな罪悪感が胸の底からこみ上げてくる。生きていたからいい、という問題ではない。先日のことは、彼女の心に一生影を落とすだろう。
　ビル街の人ごみの中、私は彼方のことだけを考えて歩く…。どうすればいいだろう？彼女の悲しみを取り除くことはできないだろうか？
　そう考えていた時、うしろから肩を叩かれた。つい先日、私がとある男にやったときのように…。

「お前か。この前は逃がしてやったが、今度は何の用だ？」
　予想通り、振り返った先には、前見た顔と同じ顔があった。あの時、彼方の後を尾行していた男だ。
　顔に傷があり、見るからに悪人ヅラだ。見間違えるはずもない。
「…あんたの、得意分野だろう？」
「何が言いたい？」
　無意識の内に内ポケットに手を忍ばせる。確かに、記憶殺しからは足を洗った。だが、腕が落ちたというわけではない。
「…あの娘なら、今病院にいるだろう。お前さんなら簡単なことだろうが」
「…なぜ、お前が私にそんなことを示唆する？お前に何の得がある？」
「さぁな。お互い裏の人間だ。詮索はナシにしようぜ」
　傷の男が言うのももっともだ。だが、私には彼方の記憶を消す権利はない。彼女の中には、恋人同士のふれあい、という何物にも変えがたい記憶もあるのだから。

　私は男が通り過ぎていったあと、無意識に自分の右手を見つめていた。まだ、この右手には彼女の乳房の感触が残っているような気がして…。

　　　　　　　　　　　　　　　　　（Ｐ）

「別人の可能性が高い？それでは、彼女を襲った犯人は、ＩＣＥ　ＭＡＮとは違うものだと仰るので？」
　長崎刑事が目を丸くした。当然のことだ。やっと見つかった殺し屋の手がかりが薄れることになるのだから。
「よくよく考えれば、いくら被害者が若く魅力的な女性とはいえ、今回のような事項があれば、他に記憶を消された女性たちも強姦されるのではないか、と思ったんだ」
　私は、部下たちに話を続ける。
「それに、ＩＣＥ　ＭＡＮは『記憶殺し』だ。つまり、もし彼が犯人ならば、自分と接触した人間である被害者の記憶を消していくのが筋ではないのかな？」
「しかし警部。一体、誰がＩＣＥ　ＭＡＮを騙るというのですか？」
　時田刑事が首を傾げた。
「ＩＣＥ　ＭＡＮ…という通称が、何でつけられたか知っているか？」
「冷酷、冷静に記憶を消していく殺し屋、だからでしょう？」
「もちろんそうだ。だが、その通称は我々警察が内部的に命名したコードネームのようなものに過ぎない。『指名手配犯何何号』と同じ、というわけだ」
　私は次に自分の考えを述べる。
「警部、まさか我々警察の人間の中に、ＩＣＥ　ＭＡＮを騙る人間がいる、と…？」
　飛躍しすぎな考えとも言えるが、ＩＣＥ　ＭＡＮ本人が犯行を行ったとしたら、やはり被害者である結城彼方の記憶を消していくのではないだろうか。
「…考えすぎだとは思うが、その線も当たってみたい」
　私は、最後に方針を決めた。