井原操と対峙した桂月は、軽く驚いた。
　てっきり辻元の女は、野坂智子だと思っていたからだ。
　しかし、不思議と冷静さを保っていた桂月は、余裕の表情で言った。
「こんにちは。」
　しかし操は顔をこわばらせて、搾り出すような声で言った。
「・・・・どういう・・こと・・」
「こういうことよ。」と桂月は笑顔で容赦なく即答した。

　女の敵は女、この言葉の通り、女は女に対しては容赦しない。
　たとえそれがこの桂月のように、おっとりした優しい娘であっても例外ではない。
　女の心に必ず住む蛇、しかし操のそれを大蛇に例えるならば、桂月のそれは、もはや蛇ではなく「虎」であった。
　操を玄関の中に入れてドアを閉めたが、桂月は部屋の中には入れなかった。
　操も長身だが、桂月もそう小柄な方ではないので、玄関の段差で、二人の視線は水平にぶつかり合っていた。

「横取り・・・する気なの・・？」と操が言うと。
「横取り？違うわよ、あなたが浮気相手なのよ。」
　と桂月は笑顔のまま答えると、桂月は両手を腰に当てた姿勢で、操を見た。

（スタイルは抜群にいい、高校生ばなれしていると言っていいだろう。少し丸めの小さい顔、細い首、きれいな脚、そして外人モデルと並んでも見劣りしないであろうこの長身、きっとこの子、ものすごくきれいになる。）

　同時に操も、体の震えを悟られまいと必死にこらえながら桂月を見た。

（この人・・すごく姿勢がいい。ぱっちりとした大きな黒い瞳、智子よりも手入れの行き届いた長い黒髪、自分も形は負けていないと思うけど大きな胸、そして・・・抜けるように真っ白い肌。）

　大蛇と虎が、たがいに牙をむきあい対峙するような空気が流れた。
　やがて桂月が操を部屋にあげると、台所のテーブルに向かい合って二人は座った。
（まさか、この娘とはね、こうちゃんったら帰ってきたらとっちめてやる。）
　操は、一応上座に通されたのだが、それは桂月が単に「客人」への筋を通したに過ぎない。
　第一、操にそんな作法の知識などなかった。
　もはやこれは、大人と子供のケンカに等しかった。
「店長とは、いつからなんですか・・？」操がかすれる声で訊いた。
「ブランクはあるけどね、気持ち的には三年くらいよ。」
　正確には意味合いが違うのだが、操から視線をそらすことなく桂月は答えた。
「店長は・・・あたし以外にも手を出してる女の子いるんですよ。」
　正直な話、一瞬桂月はたじろいだが、それを表情に出すことはなかった。
　もちろん野坂智子との関係は察しがついている。

「そうね、あの人は女好きだからね、それであなたを傷つけたのなら、あの人に代わって謝るわ。」
　桂月がこんなことを言えたのは、ひとえに自分こそがNo1であるとい自負からに他ならず、その余裕こそが桂月と操の勝負を決定的にしていった。
　操は黙ってうつむいたまま、しばらく無言の状態が続いた。
　桂月は、これで操が去ればこれ以上のことは言わないつもりだった。
　しかし、いくら桂月が、自分よりも女として、大人の情緒の持ち主だったとしても操もまた負けず嫌いな娘であった。
「あたし、あなたの方があたしよりも店長のことを好きなんて思えない！」
　根拠はなく、ただ負けを認めたくないだけだったが操は言った。
　桂月は表情を変えることなく、静かに操に答えた。
「本来、あなたにはこうちゃんの口からはっきりと言うべきよね、それは彼がずるい。でもね、それなのに私がすぐにあなたを追い帰さずにこうやって話をするのは、なぜだと思う？」
　操は桂月の目を凝視したまま、硬直した。
「私だって、あの人の浮気相手に面と向かって話すのは消耗することなのよ。でも敢えてそれをしているのはどうしてだと思う？」
「・・・・店長が好きだからでしょ・・」
　桂月の顔から笑顔が消えた、おだやかな表情ではあるが毅然とした顔になった。
「（好き）だからじゃないわ、（愛してる）からよ。この二つの言葉の持つ意味の違いを高校生のあなたにちゃんと理解できるかしら？」
「高校生の」という言葉に操は敏感に反応した。
　大人っぽく上品な濃紺の、ノースリーブのワンピース姿の桂月を見据え、じぶんの着ている制服が、異様に子供っぽく感じ、そして悔しかった。
　世間で言われる「女子高生」というブランドが、絶対なものではないことを操は初めて学んだ。自分が「若さ」と思っていたのは「幼さ」であり、言わば自分にとって、桂月に対する唯一の勝算が、崩れ去るのを操は感じた。

　無論、辻元にとって、桂月にも力不足な部分はあるだろう、
　しかしそれこそが「若さ」であって、自分の「幼さ」とは根本的に違うのだ。

　ああ、きっとこの女はベッドの上で辻元に、自分よりも上手に抱かれているのだろう。自分にとって、自分への勇気を奮い立たせながらしたフェラチオも、この女の唇は、ごく自然な流れでできるのだろう。

　この女には・・勝てない、自分はまだ女の「子」なんだ。
　操は完全に自分の負けを悟ったが、引っ込みがつかなくなっていた。
　それを察した桂月は、操に冷酷なとどめを刺した。
「私ね・・妊娠してるの。」
　右手を軽く下腹に添えて静かに言った桂月の言葉に、操の全身の血液が逆流した。

　男が女を争うときは、女の「意思」さえ相手に向かせなければチャンスはある。
　しかし、女同士のそれは違う。「妊娠」それはその女がこれからの未来を決定づける凛とした覚悟と意思表示による、高らかな勝利宣言にも等しい。
　そんなことは高校生の操にも当然わかっている。
　操は放心状態になった。

　実際には桂月は嘘をついていたのだが、いずれ本当になることだから、予告の意味合いを込めて、嘘ではないと自分に言い聞かせていた。
　桂月は、辻元に抱かれているときはマゾヒスティックな快感に溺れる自分が、この小娘に対しては、いくらでもサディスティックな気持ちになれることに正直自分でも驚いていた。

「あなたは、まだ高校生でしょう？いずれあなたにふさわしい人が現れるわ。」
　と言い、さらに付け加えた。
「ただそれがこうちゃんではないだけよ。」
　桂月という名の「虎」の爪が、操という大蛇をねじ伏せ、鋭い牙がその頭を食いちぎった瞬間だった。

　操はよろよろっと立ちあがり、やっと蚊の鳴くような声で
「・・・さようなら・・・」と言って玄関を出ていった。
　操を見送ることなく、しばらく桂月はその場に座って、壁の一点を凝視していたが、やがて落ち着いたのか、一仕事終ったように大きくため息をついた。

　辻元は、後任の店長になる加藤との引継ぎを、あっという間に済ませた。
　店長業務の引継ぎの速さは、異動の回数に比例する。
　加藤もかなり異動経験はあるが、ここまで書類や鍵や在庫管理をまとめている店長は辻元くらいのものだ。

　これで宮田店における辻元の、店長としての全業務は終った。
　あとは明日、不動産屋へ行って、新しい部屋を探し、新しい店へ行って挨拶をして、新しい生活を始めるだけだ。
　送別会までまだ時間があるので、辻元は車の中で一眠りすることにした。
　智子がちらっと辻元を見たが、すぐにむこうを向いた。

「じゃあ俺一回帰って、一眠りしてくるから、終ったら電話してくれよ。」
　辻元は、奥寺に声をかけると店長室を出てバックヤードを歩き出した。
　通用口の前に桂月が迎えに来ていた。
「ごくろうさん。」
　と辻元が言うと笑顔になった桂月の表情がふいに凍りついた。

　・・・・・どん

　辻元は、背中に何かがぶつかったのを感じた。
「きゃあああああああ！」智子が叫んだ。
　辻元の背中に、厨房から持ち出した包丁を突き刺して、血まみれの包丁を持って呆然とするセーラー服姿の操がそこにいた。
　とっさに富樫勝が操の背後からとびかかり、包丁を取り上げた。
「早く！救急車だよ！！！」真紀が叫んでいた。
「わあああああああああああああっ！」我に帰った操が絶叫した。

　倒れ込む辻元を、桂月が抱きとめて、何かを懸命に叫んでいたがよく聞こえない。辻元は遠のく意識の中で、かすかに言った。

「どの娘も・・みんな、天使だったんだよな・・俺が・・・天使を食い物にしたから・・」

　辻元は顔面蒼白で、桂月の胸の中で桂月の乳房に甘えた。
　桂月は泣きじゃくりながら、辻元の顔をぎゅっと自分の乳房に押し当てた。

おわり