土曜日の朝、言われたとおりに桂月はグリフォンに現れた。
　駐車場の掃き掃除を終えた加藤が、昨日とはうって変わって笑顔で迎えた。
「おはようございまぁす」

　加藤は桂月を従業員控え室に通した。洗濯待ちの制服や白衣が山積みになり、テーブルの上の灰皿は山のようになって、漫画の本やジュースの空き缶などが雑然となっていたその部屋に、加藤は舌打ちしながら
「すみません。これ本当は早番の人間が掃除するんですけど・・・今日そいつ遅刻してて・・。」
　そう言うとテレビの下から、ごそごそと数本のビデオテープを取り出した。
「えっと・・・接客用語と・・・業務マニュアルと・・これと・・これだ。」
　加藤は桂月の前にそのビデオテープを並べて
「これ、一本だいたい5分とか10分くらいなんですけど、教育ビデオなんです。
　これ全部見てだいたいの業務の流れを・・ホントだいたいでいいんで掴んで下さい。」
　そう言うとタバコに火をつけた。桂月は（あなた高校生じゃないの・・？）と思ったが昨日裏口で会ったときとは正反対に人懐っこい笑顔の加藤を前に、その言葉を飲み込んだ。

　一本目のビデオを再生し始めると加藤は控え室から出て行った。
　ドアの向こうに加藤の「松月ぃぃ！あのガキャぁまた遅刻かよ！！！」という怒鳴り声が去って行った。
　教育ビデオは、あまりに当たり前の内容で、まじめな性格の桂月でも退屈なものであったが、それでも律儀に桂月は全部観終えた。時計を見ると10時を少し回っており、見終わったことを加藤に告げに行こうと思い最後のテープの巻き戻しボタンを押そうとしたとき控え室のドアが勢いよく開いた。

　そこにはスレンダーな色白の少女が立っていた。髪はほとんど金髪と言っていい茶色。キツネのようにつりあがった切れ長の目と、同じくらいに細くかかれた眉。
　一目でドラッグストアで万引きしてそうなタイプの少女だった。
　肩で息をしながら慌ただしく控え室に入って来た彼女に、桂月は少し怖かったが
「こんにちは。今日から入った嘉納です。」と挨拶をした。
　するとキツネのような目をした少女は意外にも、あの加藤のような人懐っこい笑顔で
「あ、おはようございます。松月でぇす」と答えた。
　高校一年だという松月道子は、時計を見るとため息をついて桂月に訊いた。
「あのぉ・・・加藤くん怒ってました？？」
「・・・何やら不機嫌そうでしたけど？」と桂月が答えた。
「やっべえ・・・・けど・・まっいいか。」と道子はカバンからタバコを取り出して一本口にくわえると火をつけた。桂月はやれやれと思ったが、黙っていた。

　するとドアの向こうから加藤の声が近づいて来た。
「おらぁ！なんかネズミがドタドタ入って来たなぁ！！松月ぃ！てっめええ！！」
「ごめんなさぁい！！！！」と道子はタバコをくわえたまま首をすくめた。
（女の子にてめえだなんて・・・）と桂月は思ったのだが、道子がさほど怖がっていないのを見て
もしかして自分が思ってるほどの険悪な関係ではないのかもしれないと思った。
「この人、新人の嘉納さん。お前制服用意してやって、ロッカー確保してあげろよ。」
「はぁい、じゃ加藤さんあたしのタイムカード押しておいてよ。」

「ざけんな！！」と加藤が控え室を出て行く後姿に道子はあかんべーをした。

「嘉納さんって・・・大学生ですかぁ？」道子は真新しい制服を桂月に差し出して訊いた。
「そうですよ。」桂月はそれを受け取りながら答えた。
「へぇ・・どこの大学？まさかK大じゃないよね？」と道子は笑って言った。
「いえ、そのK大です。」と桂月が答えると、道子は細い目をかっと見開いた。
「すっげえ！！あたし地元なのに本物のK大の人と初めて話すよ！」

　桂月は少し当惑したがそれでも笑顔でいた。桂月の通うK大は日本で三指に入る国立大である。
　もしかしたら、こういう子特有のコンプレックスを痛く傷つけたかもしれない。
　しかし訊かれたら答えないわけにはいかないし、ちょっとまずい事になったと思っていた。
　だが道子の反応は、桂月の危惧していたそれとはまったく違っていた。

「でもさ、なんでK大の人がグリフォンなんかでバイトするの？家庭教師とかあるでしょ？」
「うーん・・・こういうのやってみたかったから・・・。」

（自分を変えたかったから）なんて桂月は言わなかった。
　ブラインドカーテンの間仕切りを無造作に閉めると、道子はばっと服を脱いだ。
　白い肌にくっきりと映える黒い下着の上下、そして細い肩、細い腰、きゅっと上をむく尻。
　同じ女だというのに、道子のスレンダーでいて均整の取れた体に、桂月は呆然と見とれた。

「えっと・・嘉納さん・・サイズはMかなあ・・これSしかないんだけど。」
「なんとか着てみますから大丈夫です。」

　桂月もおずおずと服を脱ぎ始めた。ブラウスを脱いだときに道子が言った。

「嘉納さんって・・・胸でかいね・・どれくらい？」
「・・・85の・・・・」
「85の・・・？」
「・・DとEの間くらいかな・・・」

　桂月は恥ずかしくなってしまった。女同士でこういう会話をする事は別に初めてではない。
　しかし道子の屈託のない態度は、まるでいやらしい男の子に訊かれてる思いがしたのだ。

「すごい！！巨乳だ！！あたしなんかようやっとCだってのに・・分けてよ嘉納さん。へへへ。」
「分けてあげたいわよ私も・・・」と桂月も笑った。
「重くない？」
「・・・・重い・・」
　また二人は笑った。

　どうにか制服を着た桂月は姿見の前に立った。
　淡い水色のワンピース。しかしサイズが小さいのを着てるせいかスカートの丈が少し短くなっていたし、全体に体に食い込んで見えた。
　その不恰好さに桂月は落胆したが、鏡の中で桂月の後ろから道子が顔をのぞかせ
「おお！ボディコンだ！あたしもちょっと丈詰めてみようかなあ！へへへ」と笑った。
（もしかしたらこの子は、見かけによらず人の気持ちを察するいい子なのかもしれない）
　桂月はそう思った。

　控え室を出て、タイムカードを押すために店長室に行くと、辻元が眠そうな顔で電動カミソリで髭を剃りながら昨日の売上日報を見ていた。
「おはようございます」
「おはよう・・・じゃ今日からよろしくね。」辻元は言った。
「店長！嘉納さんの制服SだからMの制服用意しといてね。」と道子が言うと
「ああ、宮田店に確か女物の制服でMの新しいやつあったな。」と辻元はあくびをしながら答えた。

　フロアのパントリーから、女の子の声で「いらっしゃいませぇ」という声が聞こえた。　空になったコーヒーメーカーを3つ抱えた加藤が、いそいそとバックヤードに入って来た。
「店長！そろそろっすよ！ご新規だいたい10名様くらいっす！」
「よっこいしょっと」辻元が立ち上がった。道子もすでにハンディターミナルに自分のIDを入力し終えていた。桂月は何をしたらいいのか戸惑ってしまった。
「あの・・」と辻元に声をかけようとしたが、辻元はすでにフロアに出ていた。
「大丈夫、あたしと一緒にやろうよ。へへへ！」道子が桂月に耳打ちした。

　フロアには辻元と加藤、そして道子と桂月のほかにもう一人女の子がいた。
　ネームプレートに「栗原裕美」と書かれた彼女は、桂月に軽く会釈しただけでフロアの中を忙しく走りまわっていた。道子に一度手本を見せられてから桂月はコーヒーのおかわりを注いでまわった。

　土曜日とあって、店は混雑していた。レジの前には案内待ちの客があふれかえっており、桂月は大変なプレッシャーを感じていた。（こんなに待ってるなんて・・・）
　お客の食べた食器を片付け、テーブルを拭き、洗い場に運ぶと厨房は戦争のようで怒号が飛び交い、桂月はその雰囲気に圧倒されてしまい、貧血を起こしそうになった。
　だがそのたび道子が、めざとくそれに気づき二言三言話し掛けては、あの「へへへっ」という笑いで励ました。

　辻元はその間もフロアをまめに見回り、料理はそろっているか、水はあるか、何か用事はないかと店中にアンテナをはりめぐらせていた。その辻元の姿に、あの車の中での寝相や面接のときの無防備さはなかった。桂月の中で、道子に続いて辻元の印象もまた変わっていった。

　桂月の終業時間である3時になった。店の客足は土曜日とあってまだダラダラと続いていたが、辻元らにしてみれば「ピーク終わり」の部類に入るらしく、桂月に「お疲れ様」と言った。
　ひとり控え室に戻ると桂月は大きくため息をついた。

　さっきは道子と一緒に着替えた間仕切りの中で制服を脱ぐと、ワンサイズ小さい窮屈な制服に押し込められていた、桂月のグラマーな体が開放感に満たされていく。
　するとブラインドカーテンのむこうから、中年の女性たちの声がした。
　同じ女でも、下着姿の桂月は一瞬緊張したが、女たちは当然気にもせず
「失礼しますよ！」とカーテンを開けて入って来た。
「こんにちは」と桂月が挨拶すると、50代とおぼしき二人の女たちは
「あら、新人さんね？よろしく」と笑顔で答えた。
　厨房のパートであるその二人もまた、白衣を脱ぎ始めた。
「えっと嘉納さんだっけ？」
「はい、そうです。嘉納桂月っていいます。」

　花田と清水と名乗ったその中年女性は、下着姿の桂月をまじまじと見つめた・
「やっぱ若い子は肌の張りが違うねえ！」と花田が言った。
「見てよ、この子のおっぱい。あたしも昔はこうだったんだよなぁ！子供二人に吸われちゃって今はほれ！」と垂れ下がった乳房を持ち上げて清水がおどけた。
「子供だけじゃないだろ！旦那が一番吸ってたんでしょ！」
　二人はびゃははははっと笑った。桂月は当惑しながらスカートを取り出した。

「しかし、あんた・・いい尻してるねえ！」
「え・・・そ・・そうですか？」
「うーん、これは子供3人くらいポンポン産めるよ」と清水が言うと、
「男が追っかけまわしたくなるお尻だよ」と花田が付け加えた。
「よ・よくわからないです。」と桂月ははにかみながら俯いた。

「またまたぁ！今どきの子は凄いからねえ。あの松月って子とか」
「あんたのおっぱいも、彼氏に揉んでもらったり吸われたりして大きくなったんでしょ？」

　桂月は顔から火が出そうなくらいに赤面していた。
　特に強固に守っていたわけではないが、桂月は大学の二年の今日まで処女だった。
　女子高とはいえ、セックスを経験する子は少なくないし、その赤裸々な話を耳にする機会も多かったが、そんなとき桂月は自然にその会話の座を離れる術を無意識に身に付けていた。しかしこの狭い空間で経験豊富な中年女性二人から自分を話題にされたとき、桂月はただ赤面して黙り込むしかなかった。
　やっとの思いで、着替え終わり二人に挨拶をして店の外に出た桂月は、初夏の空を見上げて、大きくため息をついた。

　着替え終わった花田と清水は控え室で一服していた。
「あの嘉納って子・・・たぶん処女だね。」
「そうだねえ・・でもあの子は男知ったらのめり込むよ。
「男の方ものめり込むよ。あのスタイルだもんね。」
「男を狂わせて自分も狂う素質の子だねえ。」