その日の忙しさは、昨日の土曜日とは比較にならないものだった。
　何人か人員も多めに配備され、桂月の知らない男女も加わっており、その中に栗原裕美もいた。
　昨日面識のある裕美に桂月は「おはようございます」と挨拶したが、裕美は桂月を見ずに
「おはよう」とだけ言って桂月の目の前を通り過ぎた。

　加藤と裕美、そして道子を始めアルバイトのいわゆる「最強メンバー」を集めたらしく彼らは押し寄せる客を次々にさばいていた。そして道子は昨日と同じく、常に桂月に気をつけ
「大丈夫？適当でいいの適当で！」と耳元に事あるごとに声をかけてきた。

　日曜日に飲食店が混雑するのは当たり前ではあったし、桂月も客として経験した事はある。
　しかし、従業員として向かう混雑とは、客として見るものとは全く違っていた。
　さっき補充したばかりのコーヒーがもう空っぽになり、またコーヒーメーカーに行く
　しかし、容赦なく客は「すいませーん」と次々に桂月を呼ぶ。それを優先するあまり桂月は、うっかりコーヒーメーカーのスイッチを入れ忘れる。すると補充に行っても当然できてない。
　そこにすかさず「すいませんコーヒーのおかわり下さい」と客の声。
　桂月は目の前が真っ暗になった

　それに気づいた辻元が、客のところに詫びに行こうとすると、道子が辻元を制止してそそくさと客席に行くと、人懐っこい笑顔でうまくあしらい、カウンターの中に戻ると本当にすまなそうにする桂月の腰をポンポン叩き
「こういうときには裏技で、厨房持ってって直接ガスにかけちゃうんだよ！」
　と笑った。

「えー！私今お客さんからコーヒーのオーダー取って来ちゃったわよ。」
　裕美があからさまに迷惑そうな顔をして、大きなため息をついた。
「ごめんなさい・・・・」桂月が謝ると、道子が割り込んだ。
「何卓？あたしが謝りに行っておくよ。」
　道子は笑顔だったが、裕美に対してのみ伝わる臨戦体勢の表情で言った。
「もういいわよ。私が言いに行くから。」と裕美が返す。
　客席から空いた食器を片付けて来た加藤は、横目にそれを見て肩をすくめて通った。
（女は怖ええな・・・）

　あっと言う間に４時になっていた。本来３時に終わるはずだったのだが、気づいたらその時間になっていた。辻元がすまなそうな顔をして
「嘉納さんごめんね！じゃあもう上がっていいよ。お疲れ様。」
「お疲れさーん！」と道子も笑った。

　控え室に入って桂月は大きなため息をついた。
　すると中には休憩中の栗原裕美がいて、桂月と目が合った。

（苦手だな・・）と思いつつ桂月は今日のミスを詫びた。
　裕美は桂月の方を見ずに言い捨てた。
「向いてないんじゃないの？」

　それは桂月がおそらく初めて直接受ける、明確な「悪意」であった。
　戸惑う桂月に裕美はある種の快感を感じたらしく、さらに続けた。
「Ｋ大なんだからぁこんな所でバイトしなくたって、広告代理店とかテレビ局とか
　マスコミ関係でもっといいバイトあるんじゃないの？」
　確かにＫ大は一流の国立大学であり、マスコミや官庁や一流企業のアルバイトはある。　桂月は、この同じ歳の裕美から突風のように吹き付ける悪意にただ黙っていた。
「迷惑なのよね。元々向いてない人に教えるこっちも。教えてもつまらない事でぱっと辞めるし。」
「私はマスコミに就職するつもりはないのですが・・・。」

　多少の例外を除き大学の紹介でアルバイトをする人間は、その会社、もしくは業種に就職するためのコネクション作りのために行くので、桂月はそういう意味で言ったのだが
「じゃああなたグリフォンに就職する気なの？Ｋ大卒で！」
「いえ、別にそういう意味ではないんですけど・・・。」
　完全に論破した気になってる裕美に、（誤解なんだけどな・・）と思いながら、桂月が更衣室のカーテンを開けると先客がいた。

　厨房のパートの白衣を脱いでいた３０歳くらいの女性は、桂月が見下ろしてしまうくらいに小柄でほとんど小学生高学年くらいしかなかった。そして化粧っ気はないが、その顔は大きな瞳で小さな鼻、そして真一文字に結ばれた唇の持ち主だった彼女が白衣を脱ぐと、地味な下着ではあるが、小柄な割にスタイルのいい白い体が現れ、黙って彼女は野暮ったいモスグリーンのTシャツを着て、これまた野暮ったい黒のスカートを履くと無言で軽く桂月の肩をポンポンと軽く叩いて、カーテンを小さく開けて出て行った。
　それと同時にカーテンの向こうで控え室のドアが開き、加藤が入って来たようだった。
「やっべぇ！ポタージュ制服にかけちまったぁぁ！あ、久辺さんお疲れさまっす！」
　裕美の陰湿な言葉を浴びた桂月の肩を軽く叩いて無言で励ました彼女に
（久辺さんっていうのか・・・）桂月はひそかに感謝した。

「ねぇーん加藤くん大丈夫ぅ？ヤケドしなかったぁ？」
「は？いや・・大丈夫っすよ。」
　聞こえよがしに猫なで声の裕美に加藤は戸惑いながら答えた。
「ねえ・・・今日疲れたよねぇ・・・」と同意を求めるように裕美が言うと
「まあ日曜だから当たり前ったら当たり前っすよ！」
　カーテン越しに裕美の落胆が伝わってきそうな明快な加藤の答えだった。
「加藤くん・・・今夜もうちに来るぅ？」
「いやぁ明日学校だからダメっすよ！」

「うーっす！」ドヤドヤと数人の男女が控え室に入って来たらしい。
「うーっす！」と加藤が答えた。夜のピーク要員のアルバイト達がいっせいに出勤してきたのだ。
「昼どうだった？」とその一人が加藤に訊くと、加藤が答えるよりも前に裕美が
「もうイヤだったあ・・・！」と更衣室の桂月に聞こえるように大げさに答えたが、
「毎度の日曜だよ！いつも通り！」と答えた聞き慣れた声があった。

「あたしも終わったぁ！」
　カーテンを開けて入って来た道子が笑っていた。
「桂月さん！まだ着替えてるのぉ？もう夜の連中来たからさっさと出ないと！」
　安心した表情の桂月に、ここまでの大方のやり取りを察した道子はまた笑った。

　着替え終わった桂月と道子が出ると、夜の要員が思い思いにタバコを吸ったり、漫画を読んだりコンビニの弁当を食べていたりしており、すでに裕美はいなかった。
「新しく入った嘉納さんだよ・・なんとＫ大！」
　しかし彼らは桂月の大学には関心ないようで、特にそれに反応せずに
「おぉ！ないすばでぃだぁ！」とその中の女の子までが口々に言った。
　それはそれで桂月は恥ずかしかったが、はにかみながら挨拶した。

「ねえ桂月さん、すぐ帰らなきゃダメ？」
　母親に告げた帰宅時間はとうに過ぎていたが桂月は笑顔で首を振った。
「じゃあさ・・・『プレステージ』でスモールピザ奢って！」と道子がへへへっと笑った。

「おーい加藤。休憩行けばぁ？」一斉にタイムカードを押した夜要員たちが声をかけると「おー今メシのまかない作ってるところ。」デシャップで加藤が答えた。

　それを背中で聞くような形で店長室で、辻元と久辺公子が話していた。
「久辺さん、シフト増やすのはいいけど大丈夫ですか？」
「・・・はい」うつむき加減で公子は答えた。
「いやぁ、こっちは助かるけどかなりきついでしょ？」

　公子は厨房のパートの中では一番若いわりには真面目で、誰ともほとんど話す事なく、口を真一文字に結んだまま黙々と、そしてきびきびと働き、時間が空くとゴミ置き場の床に汗びっしょりになりながらデッキブラシをかけているようなパートだった。
　ファミレスには、どこの店も絶対にパート同士の強烈な派閥がある。
　アルバイトたちにも多少はあるが、パートの派閥はバイトのそれと比べて強固さも陰湿さも桁違いだ。
　しかし公子は、とにかく一時もじっとせずに働く上、無口なものだから、どの派閥もその「中立」を認めざるを得なかった。

「・・・えっと・・正直子供にお金がかかるので・・。」
「旦那さんからもらる養育費じゃ足りないんだ・・。」
　辻元は面接の段階で、公子が離婚してシングルマザーなのは知っていた。
　そういうワケありの人間は、辻元のキャリアの中で珍しくはない。
　だから辻元は、ひいきにならない範囲で公子に便宜をはかることも多かった。
　そして公子もそれに感謝して、狂ったように働いていたのだ。

「じゃあとりあえず再来週から試しに週７でやってみますか・・。」
「お願いします。」
　その公子の意志の強そうな顔を見て、数秒の沈黙の後辻元が言った。

「ところで久辺さん、明日は休みだよね？何してるの？」
「え・・洗濯したりしてるだけですけど。」
「じゃあさ、俺明日やっと休みだからデートしようよ。」
　公子は大きな瞳をまんまるに見開き、みるみるうちに真っ赤になった。
「て・・店長・・からかわないで下さい！」
「ダメ？結婚してくれって言ってるわけじゃないでしょ。」
「だって・・・店長・・・私・・３０のおばさんですよ？もっと若い子に・・」
「俺も３０過ぎてるじゃん、ダメ？一生懸命働くのもいいけど、ちょっと息抜こうよ。
　化粧っ気のない顔を真っ赤にして、まるで初めてデートを申し込まれた女子中学生のように黙って公子は頷いた。
「メシだメシだぁ！」と加藤が店長室の外を通り過ぎた。

　グリフォンからそう遠くない所に位置するファミレス「プレステージ」に桂月と道子はいた。
　ピザを食べ終え、満足げに食後の一服に火をつける道子と向かい合って座り、桂月は紅茶を飲んでいた。
「いやぁ朝から何も食べてなかったからお腹すいてたんだぁ！」
「ちゃんとおうちに帰って食べなきゃだめよ。」
「うち帰っても何もないのは同じなんだけどね！へへへ！」

　桂月は身を乗り出して道子の目を見て言った。
「松月さん・・道子ちゃんって言うわね・・・今日はありがとうね。」
　道子は嬉しそうに恥ずかしそうに笑いながら、
「コーヒーの事？それとも・・たぶん控え室で栗原さんの事？」
「ん・・全部・・・道子ちゃんに全部フォローしてもらってるから。」
　道子が照れくさそうにかきむしる茶色の髪が西日に照らされ、秋のススキ林のようだった。

「あたしもあの女ムカつくからさぁ。」と道子は笑い、こう続けた。
「あの女だって特にみんなに好かれてるわけじゃないよ。ただ男好きなだけ。」
　それで桂月は更衣室での加藤に対するあの態度に合点が行った。
「大丈夫！桂月さんはあたしが全部教えてあげるし、なんかあったら助けてあげるから。」
「ありがとう・・でも道子ちゃんがそれで誰かに恨まれないといいな・・。」

　道子は本当に照れくさそうに笑った、そして話題を変えようとして桂月に少しばかり意外な頼みごとをした。
「あのさぁＫ大って毎年今の時期にお祭りやるでしょ？」
「学部祭のこと？」
「そうそう、あのたこ焼きとか売ってるあれ。」

　学部祭とはＫ大が秋の文化祭とは別に、初夏のこの時期に近隣住民との交流をはかるため行う学部の特色を生かしたイベントである。たとえば医学部だったら「健康相談室」桂月の理工学部だったら「ロボットのデモンストレーション」や「発明コンテスト」などがあり、有志の模擬店やバンドのライヴもあり、事実上の文化祭であった。

「あたしあれ行ってみたいんだぁ！」
「え・・あれは地元の人は誰でも入れるのよ？地元の人のためにやるんだから。」
「うーん・・でもあたしみたいなのは一人で行きづらいんだよね。」
「じゃあいらっしゃい。私待ってるから。」
「やった！あたし桂月さんの・・・えーっと・・なんだっけこういうの」
「？？？」
「ほら・・縄張りのこと・・モノポリーだっけ。」
「テリトリー？」
「そうそう！テリポリー！あははははははモノポリーだって！あたし。」
　桂月は「テリポリー」までわざわざ訂正しなかった。

　それから２時間近く道子と話し込み、桂月が帰宅したのは7時を過ぎていた。
「桂月！あなた大学生だからうるさい事は言わないけど、ちゃんと電話しなさい！」
　母親に怒られたが、いつもならしょんぼりと叱られるままになっているところだが、
「へへへ！」と今日は、道子を真似て桂月は笑った。
　すると母親だけでなく父親までもが「なんだその態度は！！」と怒り出し、結局いつも通りにしょんぼりと怒られた桂月は、部屋に戻った。
「なんか今日は大変だったけど楽しかったな・・・。」

　静かに高揚した気分で、桂月は収納の見開き扉を開けると、洋服の衣替えを始めた。