次の日、Ｋ大の学食の片隅で桂月は、パック入りジュースを飲みながら、昨日の初めての経験を思い起こしながら、意味もなく髪をかきあげたりしていた。

「おーっす嘉納さん！」一人の男が桂月に声をかけた。
　長谷川徹は、大学でほとんど唯一の、桂月の男の友人だった。
　その風貌は、あのパソコン室にたむろする「オタク達」とそう変わらない。
　汗っかきの太めの体に、寝グセの残るぼさぼさの髪、度の強いメガネをかけ脂ぎった顔でそれはしばしばずり落ち、中指でそれを直す繰り返し。

　しかし桂月は、長谷川に「好意」とまではいかないが「好感」を持っており、それは長谷川の明るさにあった。教師志望の長谷川は、苦学生であり、学費を稼ぐために多くのアルバイトを経てきており、あのオタク特有のコミュニケーション不全はまったく感じられなかったのだ。

　実際には、長谷川もまたオタクではあったのだが、生活・学費に直結する必死のアルバイト生活の中で、否が応にも社交性が身についており、大学内に友達も多く、ときにその風貌を自虐的に揶揄するが、それでいて卑屈でないユーモアのセンスも兼ね備えている長谷川に桂月は、めったにしない大爆笑をする事もしばしばだった。

「学部祭は来るの？」
「うん、今年はね・・友達が来るから。」
「へー、女の子なら紹介してよ。俺デートに誘っちゃうから。」
　と長谷川が、わざと大げさに寝グセの頭を撫でつける動作をしておどけると
「可愛いくって、とてもいい子だけど・・ヤンキーでもいい？」
「ヤンキーかぁ！きれいな子多いけど、俺なんかダメだあ！ダイエットしようかな？３０キロくらい。」
　わざと真剣な表情で腹の肉をつまんで見せる長谷川に、桂月は笑った。

　長谷川君・・・すごくあなたは優しい人。
　もしかしたらあなたでもよかったかもしれないんだよ。
　もし、あなたが誘ってくれてたら私は・・・わからなかった。
　でもね、昨日の夜・・私は違う男の人に抱かれちゃったんだ・・・。
　それにね・・その人・・なんだか私の事よくわかってるみたいなの・・。

　そしてまた昨夜のベッドの上での自分を思い出して、桂月は赤面した。

　学部祭当日、正門の前で桂月は長谷川と二人で、来客を待っていた。
「嘉納さん、もう１０時過ぎてるけどまだ来ないねえ。」
「う・・ん・・昨日約束したんだけどね。」

　すると大学を訪れる人ごみの向こうから、こちらに走ってくる人影があった。
「桂月さん！ごめんね！！」
「もう、待ってたのに・・」
　アップに整えた茶色い髪、黒のチャイニーズドレスの肩口から細く白い腕が伸び、タイトに強調された体の線。
　細身でも充分な大きさの形のいい乳房と、絶妙の腰のくびれを誇らしげに見せつける装い。キツネのように細い目と、同じくらいに細く書かれた眉、そして血のように真っ赤な口紅。
「長谷川君よ、道子ちゃん。」
「こんにちはぁ！おお！この人もK大なんだね！すごいや！」
　長谷川は、屈託なく笑う松月道子を見て、硬直した。
（やべえ！・・・好みだ！！）

「しかし・・すごい・・おめかしね・・」
　桂月はまるで水商売の女のような服装の道子に言った。
「だってさぁ、昨日加藤さんが『お前、学部祭行くんなら変な格好してったら嘉納さんに恥かかせるぞ！』って脅かすんだもん。」
「気にしなくていいのに・・・そんなこと・・」
「ちょっと・・・派手過ぎた？」
「ふふふっ・・でもすごく似合ってて可愛いわよ。」
　そこに長谷川が狼狽しながら、付け加えた。
「すっ・・すごい可愛いです！びっくりしました！」
「へへへ！ありがとう長谷川さん。」
　道子は、初めて会うこのオタクにしか見えない男に、本当に嬉しそうに笑った。

　Ｋ大の研究棟の階段を三人であがりながら、長谷川は横目で道子を見た。腰近くまでの深いスリットから、なまめかしくのぞく道子の白い脚が、めまいがするほど悩ましく、わきの下からほんの一瞬、白いブラジャーがのぞいたとき、長谷川はパンツの中でわずかに射精してしまった。

　自分のゼミが研究発表をしている教室に着くと、
「えっと・・これが僕の作った質量分析プログラムです。」
　と長谷川は大まじめに道子に説明を始めた。
（長谷川君ったら・・道子ちゃんにそんな説明しても・・・）
　と桂月は思ったが、道子が黙ってニコニコしながら聞いていたので、そのまま様子を見ていた。

　長谷川は緊張のあまり、それが道子にとって退屈な話とわかっていながらも、
「えっと・・簡単に言うと」
　を何度も繰り返し、どんどん話を複雑にして収拾がつかなくなり、べそをかきそうだった所に桂月が助け舟を出した。
「ねえ、２号棟に行きましょうよ。お店もあるし、
　道子ちゃんの好きそうなライヴもやってるわよ。」

　ほっとした表情の長谷川と対照的に道子が（気を使わなくて別にいいのに・・）
と言う表情をしたのが少し桂月は意外だった。

　大きめの教室がライヴハウスに仕立てられていた。
　ドアを開けると、ギターのフィードバックの轟音が響き、道子の表情が嬉しそうになった。

「あ、ツベルクリンだ。」
「まっ・・・松月さんは、これ好きですか？」
「好きぃ！『コミュニケイション・ブレイクアウト』やってくれないかな」
　しかし、レッド・ツベルクリンのコピーバンドだったそのバンドのライヴはたった今終わったところだった。

「あー・・残念。」
「今度は、午後にまた出てくるようですから、その曲やるよう頼んであげます。」
「ええ？いいですよ、そんなのぉ」
　と言う道子と、居心地悪そうにコーラを飲む桂月を置いて、長谷川は、友人であるそのバンドのメンバーの所に行って、何か交渉を始めた。

「桂月さん・・あの人なんだかやさしいねぇ」
「道子ちゃんが気に入ったのよ、きっと。」
「えー！・・本当にぃ？・・へへへ」

　Ｋ大の広大な敷地を、桂月と長谷川に連れられ道子は、好奇心いっぱいにキョロキョロしながら、歩き回った。
　大学という空間は、道子にとっては未知のもので、それまでは漠然と「なんだかすごいひとたち」だったのだが、彼らの「テリトリー」に実際入ってみて、それは「未知のもの」から「あこがれ」になっていった。

「道子ちゃん・・私そろそろバイトなんだけど・・どうする？」
「あれ？こんなに早く？」
「それはどこかの誰かさんが、休んだからよ。」と桂月は笑った。
「あー・・・・へへへへへ！」
「ぼっ僕があとは、お相手します！」
「だってさ！じゃあ桂月さん行ってらっしゃぁい！」
（長谷川君・・がんばってね・・・）桂月はそのまま立ち去った。

「あの・・・松月さんレッド・ツベルクリン好きなんですか？」
「うん！今日本に来てるんだけどねえ、チケット手に入らなかったのよ！」
「あのっ・・あのぉ・・僕が手に入れます！一緒に行きましょう！！！」
「えー・・無理だよぉ・・あっという間に売り切れたんだよ？」
「何とかします！！！！」
「じゃあ、手に入れたら一緒に行こうよ。へへへ！」

　その夜、道子と別れてアパートに帰った長谷川は、必死であちこちのプレイガイドや、金券ショップに電話したが、どこにもチケットは売っていなかった。
　もう十数か所に電話して、大きくため息をついた長谷川は、なにげなく目の前あった新聞を広げると、そのコンサートの記事が載っていた。
　そこで長谷川はある記述が目に付いた。
　そのコンサートの協賛企業が、自分の兄が勤める会社だったのだ。
　長谷川は電話に飛びつくと実家に電話した。