「あー！終わったぁ！」
「私、あと二科目ある…」
　K大の喫茶室で桂月と長谷川が向かい合って座っていた。
　テストの大半の日程は終わっており、すでに夏休みに入った学生が多く、構内には学生の姿はそう多くなかった。この時期までテストがあるのは長谷川のように教職の関係で科目が増えている学生か、桂月のように実習とレポートの関係でテスト日程が飛び石になっている学生だった。
「夏休みの予定は？」
「俺？うーん…一応実家帰るんだけど…」
「あら、道子ちゃんが寂しがるんじゃない？」
「そうなんだよなあ…こっちでバイトしてようかなあ」
「私も…そうなるのかなあ」

　桂月は長谷川を見つめた。
　道子と付き合い始めてから、長谷川はほんの少し変わった気がした。
　具体的にどこがというわけではない。外見的に長谷川は、相変わらずボサボサの頭に、セイウチのような体型で、汗っかきの首に無造作にタオルを巻いている。
　しかし、どこかが違って見えた。

　長谷川から見た桂月は、まったく別人になっていた。
　それは毎日会っているから「劇的な」というほどではないのだが、化粧にせよ、服装にせよ、上品ではあるが大人のそれに変わっていたのだ。

　お互いに相手に見るともなしに観察しながらも、それぞれ異性の体を知ったことによる自分の変化に気づかない二人は、相手の変化に感心しながらその場は別れた。

　長谷川と別れて桂月は、バスに乗って市内に出た。
　待ち合わせのデパートの入り口で、制服姿の道子が待っており、茶色い髪が、強い夏の日差しに映えていた。
「桂月さんごめんねえ！まだテストあるんでしょ？」
「大丈夫よ　あとは大したことない科目だしね」

　回転ドアを入ると、冷房の効いた店内に一気に汗が引いていく。
　エスカレーターに乗ると道子が訊いてきた。
「桂月さん、去年どんな水着買ったの？」
「去年は…買ってないなあ…」
　去年どころか、水着を買うなんて高校のときのスクール水着以来であるが、なんとなく恥ずかしくてそれは道子には言わなかった。

　スポーツ用品売り場は、その大半が水着売り場の様相を呈し、見回すと客はもちろん、店員も女ばかりで、ただ一人スーツ姿の男の店員が居心地悪そうに段ボールを運んでいた。
「桂月さん！試着室とっといて！」
　言われるまま桂月は試着室に向かったが全部埋まっていた。
　水着の試着は、ほとんど全裸になっての試着のため、一着一着に時間がかかるから、なかなか空きそうもなく、桂月は銀行のATMに並ぶような感覚で、手ぶらで立ち尽くしていた。

　するとその中の一室のカーテンが「ガシャン！」と乱暴に開き、中から出てきたのは栗原裕美であった。
　とっさのことで桂月も裕美もびっくりして絶句したが、先に我に帰った裕美は無言で歩き始め、桂月の前を通り過ぎるとき聞こえよがしに舌打ちをして立ち去って行った。

　あっけにとられて無人となった試着室に桂月が入ると、両手いっぱいにハンガーを持って道子が現れた。
「桂月さんも選んでおいでよ！」
　道子が持って来たのは、極彩色のハワイアン柄のビキニばかりで、桂月は圧倒されてしまったが、少し考えて自分もビキニを選び、二つばかりハンガーを持って、試着室の前に立つと桂月は声をかけた。
「私も選んできたわよ」
「あー、じゃあちょっと入っておいでよ！」

　おそらくはこの季節だけしか設置されないであろう大雑把なパーテーションで作られた試着室は、やや大きめで、二人が入っても充分な広さだった。
　水着姿を見て桂月が思わずため息をついてしまうほどに、道子の体は細く、ムチのようにしなやかに伸びる手足が美しかった。
　グリフォンの更衣室で何度も道子の下着姿は見ているのに、あらためて水着姿の道子の体の美しさは、女の桂月が嫉妬するほどのものだった。
「道子ちゃん…すごいきれいなスタイルだね…」
「えーそう？へへへ！でもさあ、もうちょっと…こう…谷間がさあ」
　道子は無造作に自分の乳房を真ん中に寄せて谷間を作って笑いながら、鏡ごしに、桂月が持ってきた水着を見た。
「桂月さんのは…あー…シックだねえ」
「地味？」
「いや、いいよ…桂月さんらしくて」

　そう言うと道子はそそくさと水着を脱ぎ、別の水着を着始め、桂月も服を脱ぎ、少し照れくさそうに初めてのビキニを着てみた。
　エスニック調のパープルを基調にしたビキニを身に着けると、鏡の前で一回りしてみる桂月を、今度は道子が見とれた。
「いやー…桂月さんって、超ないすばでぃだなあ！」
「何言ってるのよ！」
「なんと言うか…特にこの、むしゃぶりつきたくなるいいケツ！　」
　道子は桂月の尻を両手で持ち上げ、わざと酔っ払いの中年男のような口調で言うと笑った。
「こら！！」

　桂月が腰にパレオを巻き、腰骨のあたりで結んだ。
「パレオ巻くとお尻大きく見えちゃうかなあ？」
「いやあ、ますますたまらなくなるケツだぜぇ」
「もう！」
　結局桂月は、最初に選んだ水着を、道子は何回か選んで少し桂月に影響されたのか、ハワイアン柄のものをやめてエスニック調の、それでも桂月よりは派手めのものを買った。

　その日の夜、さと子は職場の同僚に誘われて居酒屋にいた。
　藤川というその男は、さと子より少し年上の30歳になる男で、何ヶ月か前に、東京の本社から出向扱いでさと子の部署に来ていた。
「春日さんは…彼氏いるの？」
「さあどうでしょうね」
「特に作らない主義なのかな？」
「質問の多い人ですね」
　さと子はそう言うと笑い、藤川も苦笑した。
「いやぁ、春日さんってガードきつそうだからさ」
「相手によるんですよ」
「そ…それはどういう意味かな？」
「どういう意味かしらぁ」
　さと子は焼酎をストレートのままあおった。

　居酒屋を出ると、藤川はおもむろにタクシーを拾うと、さと子を乗せ、自分も乗り込んできた。
「16号沿い走って」
　そう藤川が運転手に告げ、訳知り顔の運転手は車を出した。
（16号沿いね…）
　さと子とて、その意味はわかっていた。やがて車は、煌々とライトアップされた建造物群が左右に広がる通りに入り、運転手は（さあ、どこに入るんだ？あんたら）とでも言いたげに、左側車線を、速度を落として走った。

「あのさ…春日さん…よかったら休んで行かないか？」
（なーにが「よかったら」よ）とさと子は思ったが、藤川の目的はそもそも今夜、居酒屋に誘われたときからわかっていたから、ちらっと藤川の顔を見上げて、ふっと目をそらして小さく頷いた。

　ラブホテルのフロントは無人式で、好みの部屋のボタンを押すと自動的にカギが出てくる仕組みになっており、パネルを見ると、大半の部屋のランプは消えており、残った数少ない部屋から藤川は、割高な和室を選んだ。

「お風呂先にどうぞ」
　座椅子に座るとさと子は言った。
　言われるままに、藤川が浴室に消えると、さと子はテーブルの上のリモコンを手にとって、テレビをつけると同時に思い出した。

　バッグの中から携帯を取り出し、その番号を押すと、携帯を肩と頬の間にはさみ、そのまま腰をあげて、タイトスカートをめくりあげストッキングを脱ぎながら相手を待った。
「あ、もしもし？まこちゃん？今日さ、『マネーの禿鷹』ビデオに録っておいてよ…うん…今あたし友達とカラオケだからさ…お願いねー！」
　電話の向こうの加藤に一方的に用件を告げると、電話を切った。

　やがて藤川がバスローブを着て浴室から出てくると、入れ替わるように髪をほどきながら立ち上がったさと子を後ろから抱きしめた。
「ちょ…っと…ふふっ…ダメだってば…」
　藤川がブラウスの上から優しく、さと子の乳房を持ち上げるように揉みながら首筋から耳元にキスをした。
「あ…ん…」

「こらー加藤！お前仕事中に携帯出るなって俺言ってるじゃん！」
　辻元が注意すると、店長室の加藤はすまなそうに言った。
「はい！すみません！いやーこの着信音はさと子さんっすから」
「出ないと怖いか」
「…はい…俺さと子さんの子分っすから」
　加藤を見上げて辻元は笑った。
　そのときフロアで怒号があがった。

「ふざけんじゃねえよ！！！」

　洗い場の前で洗浄器から出てきたスプーンとフォークを磨いていた桂月は一瞬凍りついたが、辻元は何食わぬ顔でその声のするフロアへ出て行き、客席へと向かった。

　顛末はこうである。

　夏休みのアルバイトのためにグリフォンに入った高校生の丸山千恵が、ハンディと呼ばれるオーダー送信機で、慣れないオーダーを取りそのあとの送信済みを確認しなかったのである。
　ハンディは、入力項目が間違っていたらそのまま送信されるが、入力項目が「欠けて」いたら、エラーとなり、いつまでも送信されない。
　この場合は、客の座っていた「卓番」が入力されていなかったのだ。
　そのためこの客はかれこれ一時間近く待たされていたのである。

　こっちにまで聞こえるような大声で激しく罵る客と、平身低頭の辻元の後姿を、桂月はパントリーの陰からこわごわ見守った。

「大丈夫っすよ桂月さん」
　加藤は平然としていた。
「こんなのよくあることじゃないっすか」
「でも…あんなに怒っててケンカにならないかしら…」
「俺でさえ、あれくらいのクレームはまとめちゃいますよ」

　そう言うと、加藤はクーラーボックスの中からディッシャーで盛られたアイスクリームを二つ用意して、お盆にスタンバイした。

「この稼業にクレームはつきものっすからね、たぶん店長はお詫びにこれ持ってけって言いますから、桂月さんお願いしますね」

　そう言って加藤はバックヤードに消えた。
　冷蔵室の前で、騒ぎの張本人である丸山千恵が平然と、同級生である厨房の男子アルバイトと談笑していた。
「おい、店長が謝ってるぜ」
　厨房の男子アルバイトは加藤が怒っていることを敏感に察し、そそくさと仕事に戻ったが、千恵は平然とした様子で、それどころか談笑の邪魔をされて不愉快そうに、無言で横を向いた。
（この女ぁ…）