その24

「海ぃ？」
　夏休みに入って何日かたった日の、ランチピークが終わりアイドルタイムになった店長室で辻元が怪訝な声をあげた。

「そう！　あたしとぉ、あたしのダーリンとぉ、桂月さんとぉ、」
　休憩に入った道子が、まかないのプリンサンデーを食べながら言うと、いつもはお目付け役の加藤が珍しく同調した。
「店長、まだ夏休み入ったばっかですから大丈夫ですよ」
「うーん…」
「桂月さんね…気合入れてビキニ買ったんだよ！へへへっ」
「何ぃ！？」
　意外にも加藤の方が目をむいた。

　辻元はなにげなく、下げ場でトレイを拭いている桂月を見てのんびりと答えた。
「まあ…今ならヘルプも呼びやすいからな…」
「ね？」

　その翌週、辻元の車に乗った一行は、高速で二つ目の出口を出た近くの海水浴場に着いた。
　天気もよく、砂浜にはまだ海水浴客はまばらであった。

「徹さん！　泳げる？？」
　道子は長谷川をからかうように訊いた。いつも自分の部屋の薄暗がりで見る、道子の白く細い体が夏の日差しにまぶしかった。
「僕は、田舎が海沿いだからこう見えても泳ぎは得意だよ」
「そう？じゃああそこまで行こうよ！」
　道子の指差す沖合いの1キロほど先に岩礁があった。
　ブイはもっと先にあるから、潮流は問題なさそうであり、初対面の辻元に軽く会釈をすると、長谷川は道子に誘われるまま海に入っていった。

　それを見送りながら、辻元は仰向けに寝そべり、桂月はその隣に膝を抱えるように座った。
「店長は…泳がないんですか？」
「俺はここで日光浴だ」
　桂月も辻元の隣に横たわると、辻元の肘のあたりに自分の頭を乗せて甘えるように寄り添った。
　辻元は、並んで泳いで行く道子と長谷川の後姿を見てつぶやいた。
「なんかさあ…長谷川君って…トトロに似てるな」
「…こら」
　桂月は辻元の頬を軽くつねって、少し間を置いて訊いた。
「あのね…店長…春日さんと店長って…昔どうだったの？」
「俺とさと子ぉ？古い知り合いってだけで何もないよ」
　本当は一回だけ辻元はさと子と関係を持っているのだが、それは言わずにおいた。

　春日さと子はまだ物心がつく前に両親が離婚して母親に引き取られた。
　さと子の母親は、放任主義な上、無神経であった。
　初めて男と女の交わりを観たのはさと子が中学生のときで、それは母親と母親の恋人のそれであった。

　思春期の少女がショックを受けたのは言うまでもなかったが、さと子は、必死でそれを抑えこむべく自分の「女」を否定した。
　それは思春期の少女によくある現象で、それが病的に進展すると「性同一性障害」と今日では呼ばれる現象であった。

　わざと男が使うようなガサツな言葉遣いでしゃべり、育ちを疑われるような無作法な振る舞いもためらわず、片親であることも手伝ってか、周囲の目は冷たく、次第にさと子は孤立していったが気にしなかった。

　高校生になったとき、さと子は軽音楽部で、一人の上級生と出会う。
　麦倉哲也である。

　クラスの同級生たちが夢中になるのに冷笑的な態度を取りつつも、その端正な顔立ちは、実はさと子自身にも内心魅力的だった。
　初めての夏休み、さと子は麦倉と学校で二人っきりになる機会があった。
　それは、軽音楽部のバンド練習予定に、麦倉とさと子それぞれのバンドのメンバーが割り当ての日を間違えて学校に来なかったのだ。

　さと子は音楽室で麦倉と長い時間話した。
　いつもと違うよそいきの言葉遣いになっている自分がさと子は恥ずかしくてたまらなかったが、今さらいつものべらんめえ口調に戻すとかえっておかしかった。
　それに耳が熱い。たぶん自分は真っ赤な顔をしている。

　緊張で最初は何を話したのか憶えていないが、麦倉はうまく会話をリードしてさと子の緊張を少しずつ解きほぐし、元々興味を持ち合っていたもの同士、惹かれ合うのは早かった。
　さと子の脳裏に、ベッドの中で知らない男を乗せて激しく応える母親の姿が浮かんだ。

　あの汚らわしい行為を、もしかしたら自分はこの人とするのだろうか？
　誘われたら、自分は拒むだろうか？

　そして夕方となり、音楽室の外を、一日汗まみれになって練習にはげんだ、野球部かバスケ部の部員たちが引き上げてきた音がする。
「帰ろうか」
　音楽室のカギを締め、それを職員室に帰すと麦倉とさと子は外へ出た。

「帰るの遅いと…怒られるかな？」
「いえ、うちは放任主義だから」
　さと子が答えると、麦倉は突然さと子の手を引いて体育館の横にある、体育倉庫にさと子を連れ込んだ。

　薄暗い倉庫の中で麦倉はさと子の唇を奪った。
　それが軽音楽部の女の子達ほぼ全員が憧れる瞬間でも、さと子の中にあったものは、優越感でもなく、（この男と絶対セックスしてやる）であった。

　もちろんこの時点でさと子は処女であり、母親のセックスを目の当たりにした経験から、その行為への嫌悪感が強かったのだが、それが強ければ強いほど、「本能」へのリバウンドも強かった。

　押し倒されたマットは埃っぽいにおいがした。
　麦倉が、さと子のブレザーのボタンをはずすと、汗ばんだ手が白いブラウスの上からさと子の乳房を揉んだ。
　そして何度もさと子の唇を吸い、舌を入れてきた。
　それだけの行為を、1時間以上麦倉はさと子にすると、やがて体を離した。

　制服の乱れを直して、二人は体育倉庫を出ると、そのまま校門を出てお互いの家路についた。

　さと子が麦倉に処女を奪われたのは、その三日後で麦倉の部屋だった。すでに女の体の扱い方を知っている麦倉は決して性急にさと子を犯すようなことはせず、恥ずかしさと、わずかな痛みと、余韻を残しさと子は女になった。

　さと子は麦倉に夢中になった。
　そしてそれは、さと子を今まで支配していた妙な無頼を消し去った。
　軽音楽部、いや全校でもっとも女子の人気を集める麦倉が自分を選んだことにより、彼女たちの嫉妬はすさまじかったが、さと子は平然としていた。

　夏休みとあって、さと子は毎日のように麦倉と会い、あの体育倉庫の埃っぽいにおいのマットの上でセックスした。
　そうしてさと子と麦倉の関係は、二年後麦倉が卒業する頃まで続いた。

　終わりは突然やってきた。
　さと子は初めて麦倉の両親に紹介されることになり、麦倉の家を訪ねた。
　しかし初めて会ったはずの麦倉の母親は、意外な事を言った。

「さと子ちゃん…おばちゃん憶えてる？」
「…え？」
「おばちゃんは…さと子ちゃんのお父さんの妹だよ」
「つまり俺たちは、従兄妹ってわけだよ」
　麦倉が笑顔で付け加えた。

　さと子が半狂乱になって麦倉に殴りかかり、家の中が騒然となった。
「まっ待てよ！従兄妹って法律的には…」
「聞きたくない！！」
　さと子は絶叫したと同時に、初めてのキスから体育倉庫でのセックスまでこの二年間のすべての光景が脳裏をかけめぐり、その場で嘔吐した。

　さと子は麦倉と別れてからは、表面的には明るくなった。
　学校で男友達と普通に話し、文化祭の打ち上げの流れで、気が合った同級生と制服のままホテルに行ってセックスしたりもした。
　しかし恋人は決して作らなかった。

　大学に入ってからも、さと子のそんな暮らしは続き、やがて就職してから家を出て、アパート暮らしを始めたさと子は、OL稼業の薄給を補うため、グリフォンでアルバイトを始めた。
　社会人になると、なかなか決まったシフトで入れないため、何度か辞めては数ヵ月後に復帰したりのパターンだった。

　そしてある日、副店長として麦倉哲也が配属されてきたのだ。

　始めは、初めて音楽室で二人っきりで話したあのときのようにさと子は緊張していたのだが、歳月が少し自分を冷静にしたと信じ、勇気を出して、何度か普通に麦倉に話しかけた。

　しかしそっけなかったのは麦倉の方だった。
　ある日のラストで、さと子は麦倉に言った。
「ねえ…車でしょ？送ってってくれないかな…」
「いや…俺明日早いから」

　さと子はそれっきり店には現れなかった。

　辻元と桂月が寝そべる砂浜からおよそ1キロの沖合にある50メートル四方ほどの岩礁に這い上がると、道子と長谷川は並んで仰向けになっていた。
「いやあ、僕はこれくらい普通だけど道子ちゃん意外と泳げるね」
「セイウチが泳いでるみたいだったよ、徹さん！へへへ」

　道子が起き上がり、長谷川の腹の上に頭を乗せた。
「徹さん…ここでしようか…」
「え！でも…ここじゃ…」
「ほら…」
　道子は長谷川を、反対側の岩陰に誘った。ここならちょうど砂浜から正反対になって見えないが、数百メートル先に断崖が見える。
「あそこに人がいたら…」
　少し長谷川が躊躇したが、すでに道子は長谷川の体の上に乗りキスしてきた。
「見えてもいいじゃん！」
　言うが早いか道子は、ビキニのブラジャーをするっとほどいて脱ぐと、それでピタンッと長谷川の顔を軽く叩いた。

　グリフォンでは、さと子と加藤が開店の準備を済ませていた。
　昼ピークのバイトも予定通りの人員が出勤してきてはいるが新人が多く、桂月と道子までいないのは若干不安であると、辻元はヘルプ要員を他店舗に依頼していた。

　思いのほか客の出足が遅いので、さと子が暇つぶしにナプキンの補充をするためにバックヤードに消えた瞬間、加藤の目に、白いスープラが駐車場に入って来るのがうつった。
「来たぁ…やっぱあの人だぁ…」

　大きさの割には軽い、紙ナプキンの入った段ボールをよっこいしょと持ち上げたさと子が顔をあげると、裏口から入ってきたその男はいた。
「よう…さと子」

　約二秒ほどの間さと子は、麦倉哲也と呆然と対峙していた。