その26

　八月に入り、店も忙しさを極めていたある日の朝、加藤は栗原裕美のアパートのベッドの上で目覚めた。
　昨夜はずっと桂月とさと子の悪口を聞かされていただけに、その後のセックスも、内心加藤はしらけていた。

　確かに裕美は、加藤の同級生の女の子よりは床上手であり、セックスのときの喘ぎ声もよかったし、おそらく大抵の高校生くらいの少年は簡単に裕美の体に溺れてしまうだろうが、加藤は違った。
　なにせ加藤は初体験からして、相手があのさと子である。

　今までどの男も遠慮して指摘しなかったのだろう、裕美のフェラチオは歯が当たって痛いときがあるし、「男はこれを喜ぶ」と勝手に思い込んでいるのか、ペニスの竿の部分を舐めながら袋を愛撫するのだ。
　これがまた乱暴で痛い。
　もちろん女から見てもそういう男はゴマンといるだろうが、裕美の場合は自信たっぷりだっただけに始末が悪かった。

　さと子だったら、下唇を軽く噛むだけで充分に妖艶な挑発で、他にも、上になった加藤の二の腕を細い指がゆっくり軽く引っかく動作など枚挙にいとまのないテクニックなど、裕美とさと子では確実に「ベッドにおける女」の格が違いすぎた。

　決定的な二人の相違点は、「おざなりに責めて、あとは受身」の裕美に対してさと子は「責めながら受ける」セックスだった。

　しかしさと子や裕美よりも、加藤が胸に秘めた存在は桂月だった。
　桂月が辻元と関係を持っていることは知っていたし、辻元が初めての男かどうかはわからないし、おそらく自分が桂月を抱く日など永久に来ないであろうことは間違いなかった。

　だからせめて加藤は、昨夜のしらけたセックスのとき桂月の顔を思い浮かべながら裕美を抱いた。

「加藤君、朝ごはんにおにぎり買ってきたよ」
　玄関から裕美がちょうど帰って来たところだった。
　無造作にテーブルに置かれたコンビニの袋をぼんやりと見つめ加藤は思った。
（ただトーストを焼いただけでもいいから、女に作ってもらうのに男は弱いんだけどなあ…この人のこういう所があれなんだよな…）

　ちなみにさと子の場合は、加藤が目覚めるころには出勤の準備を済ませ鏡に向かい化粧をしながら、背中を向けたまま、
「早く着替えなさい。ご飯食べに行きましょう」と急かし、学校の制服に着替えた加藤を連れて、近所のファミレスへ行き、加藤にモーニングセットを食べさせながら、自分はコーヒーを飲んでいた。

　Tシャツに短パン姿であぐらをかくと裕美は言った。
「あたし今日から三日間休みなんだぁ」
「えー、店忙しいっすよ」
「関係ないよ。加藤君もシフト入れなきゃよかったじゃん！」
「うーん…」
　頭を掻く加藤に裕美は続けた。
「だって社員じゃないんだし」

　確かに正論ではある。しかし加藤は高校三年生の夏というこの時期、進路に関して色々思うところがあった。
　自分の頭では、大学はどう考えても無理だし、稼業の土建屋はすでに兄が継ぐことになっているし、「グリフォンの社員」という肩書きは、加藤にとってかなり現実味のある未来の選択肢だった。

「ごちそう様！　ちょっとシャワー借りるっす！」
　そう言って加藤は立ち上がった。

　盛夏の太陽がアスファルトからも照り返してくる外に対して、エアコンをフルに効かせた店内だったが、忙しさで走り回っていると結局暑く、桂月はテーブルの片付けをしながら軽く額に汗をかいていた。
「桂月さぁん！」
　桂月の片付けているテーブルに道子が手伝いに来た。
「暑いと巨乳の人は胸の谷間に汗かくよねえ！へへへ」
「そうなのよねぇ…」
「今日店長が飲み会やるって！　桂月さんも来るでしょ？」
「どこで？」
「ここ」
　道子が地面を指差した。閉店後に店でやるということらしい。

「やってらんねぇよぉ…」
　桂月がバックヤードに戻ると、生ビールサーバーに寄りかかって辻元がぐったりしていた。
「店長、今日ラスト終わったら飲み会やるんですか？」
「ああ、もうくたびれたし人手はいねえし、もうヤケだ！」
「私…あとで家に電話します」
「あー、でも俺は今日飲むから送って行けないぞ」
「タクシーで帰りますのでご心配なく。それとも私が参加すると何か不都合でも？」
　桂月はちょっと斜に構えて辻元をちらっと見た。

「俺が送って行きますよ！　ほら店長どいたどいた！」
　倉庫から20リッター入り業務用生ビールを二つ軽々と持って現れた加藤が、サーバーによりかかる辻元を押しのけた。

「本当？　じゃあ加藤君に甘えちゃおうかな…」
　桂月の言葉が、加藤の脳裏で「甘えちゃおうかな」だけが何度もエコーがかかった。
　そのとき「じゃああたしも送ってよ」と道子が加わった。
「お前は歩いて帰って途中でタヌキにでも追われてろ！」
「ひどい！」
「だまれ！」

「まあ、ここんとこヘビーな営業を同じようなメンバーでやってるからな」
　辻元が言うと、加藤が大きく頷いた。辻元は長く店長をやっているだけあってこういう人心を掴むイベントのタイミングが抜群にうまい。
　加藤は、辻元のようになりたいと思ったのが、グリフォンへの就職を検討させているかなりの大きな理由だった。

「加藤君…道子ちゃんも…いい？」
「わかってますよ！　冗談っすよ」
　加藤は道子の頭を掴んでぶんぶん揺さぶった。

「夜になったらさと子も来るだろうから、たぶんさと子も参加だろうな」
そのときセンサー作動のチャイムが鳴り、辻元はフロアに出て行った。

　閉店後、売れ残りの食材で作ったつまみと生ビールで、ささやかな宴がもうけられた。
「えー…まもなくお盆で、これを乗り切ったらヒマになると思うので、各自頑張るように」
　乾杯の音頭を取った辻元をからかうように、厨房のアルバイトが
「一番頑張る気ねえの店長じゃん」と言うと一斉に皆笑った。

　加藤の隣にはさと子が座っていた。
「まこちゃぁん！お姉さんにお酌は？」
「はいはいはいはい！」
「まこちゃん飲まないの？」
「あ、俺は桂月さんと松月を送って行くんで」
「そう、道子ちゃん一緒なら大丈夫ね」
「な…何がっすか！」
「まこちゃん…弱いだろ、ああいうタイプ」
　さと子は小声になると、加藤のマネをして言った。
「おれはかつきさんみたいなおじょうさまたいぷのおねえさんすきっす！」
「わっ悪いっすか！！！」
「い〜え〜私は別に」

　麦倉との関係を修復したさと子は終始上機嫌だった。
　さと子と麦倉が従兄妹だったことまでは知らないが、昔ただならぬ関係だった事は察していた加藤は少し安心した。

　そうして夜も更け、宴の片付けを終えると従業員達は、駐車場で解散した

　ついつい楽しくて飲みすぎてしまった桂月はすでに加藤の車の助手席で眠り込んでおり、桂月を起こさないように道子は静かに後部座席に乗り込み、加藤も運転席のドアを開けようとしたら、さと子が現れ加藤の耳を引っ張ってかがませると耳打ちした。
「まあ、道子ちゃんいなくてもまこちゃんは何もしないだろうけどね」

　車を走り出すと、道子が訊いてきた。
「加藤さん、桂月さんの家知ってるの？」
「知ってるよ。龍哭丘にある、でぇっけえ家だろ？俺の友達が近くに住んでて知ってたよ『嘉納家』って」
「へえ…」
　本当は、密かに店長室で桂月の履歴書を盗み見て、バイトが休みの日に車でこっそり見に行ったのだが、そんな事は口が裂けても言えなかった。
「それよりお前だ！　言っとくが男の所には送らないぞ！」
「ええ〜！！！」
「ったりめえだ！　たまには家帰れっての！」
「夏休みじゃーん！」
「だ・め・だ！　夏休みじゃなくたって家帰らないくせに」

　加藤にとって道子は妹のようなもので、道子にとっても加藤は口やかましい兄のような存在だったので、道子は渋々、加藤の言う事に従った。
　やがて、車は道子の自宅の前に着いた。

「お前明日遅刻すんじゃねえぞ！　俺はきっちり早番来るからな！」
「はいはい」

　加藤の車が走り去ると、道子は不機嫌そうに自宅のアパートの階段を登り、軽く舌打ちをしながら、ポーチの中からカギを取り出し玄関を開けると真っ暗な家の中に入った。
「たっだいまあっと」
　そして、居間の電気もつけず道子はしばらく立ち尽くした。
「どうせクソババアは店なのに…」

「桂月さん…着きますよ…」
　加藤は桂月の家の近くまで来ると、桂月に声をかけた。
　なぜか自分でも驚くくらいの小声で。

　しかし桂月はそのまま熟睡している様子で返事がなく、加藤は造成中の街灯の光が届かない一角に車を停めた。
　実はそこは、辻元の車の中でいつも桂月が抱かれている場所なのだが、そんな事加藤は知る由もなかった。

　加藤は倒した助手席に眠る、桂月の寝顔を凝視した。
　美術室で、授業に退屈した自分がヒゲを書いた彫刻のような、整った鼻筋から静かな寝息が聞こえ、真一文字に結ばれた唇は、落ちかけた口紅がかえってなまめかしかった。

　加藤が、心臓が飛び出そうに緊張している自分を落ち着かせるため必死で深呼吸をすると、桂月が使っているムースの香りがした。
　加藤はもう一度車の周りを見回した。

（俺は何をしようとしてるんだぁ…）
　リンゴを握りつぶす握力を誇る加藤の手が、細心の動きで、そぉっと桂月の胸元に近寄り、静かに乳房を撫でると、ブラジャー越しからでもその弾力は伝わってきた。

　そして軽く乳首のあたりを人差し指で弧を描くようになぞってみた。
　シャツのボタンを真ん中あたり一つはずし、遂に桂月の乳房に触れた加藤は人差し指と中指をシルクのブラジャーの中に滑り込ませ、かるく乳首をつまんでその感触と温もりにしばらく恍惚とした。

（俺は何をしているんだぁ…）
　まるで年上の女性に誘われた童貞の少年のように加藤は極限まで緊張していたが、桂月は依然寝息をたてていた。

（やめろ俺ぇ…）
　やがて加藤の右手は震えを抑えながら、桂月の乳房を離れると、軽く開いた膝の間からスカートの中で太股をゆっくり登った。
　やや太めとはいえ、バレエで鍛えた桂月の太股は女性としては筋肉質だった。

　そしてたどりついたパンティの上から軽く愛撫してみたが、当然のことながら、濡れて愛液が染み出てくるわけもなかった。
　しかし、加藤にはパンティごしとはいえ「桂月の性器に触れている」という事実と感触とぬくもりだけで充分だった。

　加藤は桂月の乾いた唇に、軽く自分の唇を重ねた。
　そして人差し指が、軽くクリトリスのあたりを撫でたとき
「…ん…」と桂月がかすかに声をあげた。

　これが他の女だったら加藤は、そのまま行為に及んでしまうが、桂月に対する加藤の想いは、もはや憧れと言うより神格化と言った方がよく、そのかすかな声を聞いた瞬間、加藤は心臓が止まり、全身からどっと脂汗が吹き出てきた。

　慌てて、しかし注意深く、右手を桂月のスカートの中から出すと、加藤は桂月のめくれたスカートを整え、はずしたボタンを止めなおし、衣服の乱れはないか確認し、ルームミラーで自分の唇に桂月の口紅がついてないか確認すると、もう一度深呼吸してから、妙に明るく裏返った声で、桂月に声をかけた。

「桂月さん！　着きましたよ！」

　とろんとした目で、桂月が起き上がった。
　朦朧とした意識がはっきりするまでの桂月沈黙は、加藤には地獄だった。

（ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい！）

「…あぁ…私寝ちゃったのね…ごめんね、送ってもらったのに…」
「いやいやいやいや！とんでもないっしゅよ！」

　もはや加藤は活舌さえも、コントロールできないくらいに狼狽していたが、桂月は特に気づかなかったようだった。

「ありがとう加藤くん…気をつけて帰ってね…」
　そう言うと桂月は車を降りて、フラフラと数十メートル先の自宅の門を目指して歩いて行った。

　運転しながら加藤は、何度も深呼吸しながら桂月の残り香を吸い込みながら、誰もいない車内で絶叫した。
「俺のバカ！！！！！」
　パンツの中でわずかに射精しているのがわかっていた。
　加藤は極限の自己嫌悪と羞恥で、焼かれる思いがした。
　結局桂月にはあれ以上の事はできず、結果的にそれでよかったが、しかしそれはそれで、さと子の予言通りなってしまった。
「さと子さん…イヤな人だぁぁぁぁぁ！！！」

　気を落ち着かせるために、国道沿いのカラオケボックス前の駐車場に車を停めると、整然と並ぶ自動販売機にむかって歩き出した。
　すると、見た顔の集団がいた。

　加藤の顔を見て一斉に表情を凍りつかせた集団は、あの丸山千恵の差し金でゴルフ場の駐車場で加藤をリンチしようとして、返り討ちに遭った少年たちだった。

「よう…これは運が悪かったなあ！」

　自動販売機の前にしゃがみこんでいた少年達の、一人がナイフを抜いたが、立ち上がるヒマも与えられず、次の瞬間哀れな彼の顔面には、加藤の靴先がめりこみ、そのまま後頭部は自販機の広告ウィンドウを突き破った。

「俺は今、非っっ常に機嫌が悪りぃんだよ！」

　その晩加藤は、ケンカにおける「一度にぶん殴った人数」の記録を更新した。