その27

　夏休み最後の日とあって、その日のアイドルタイムは久々に閑散としており、フロアでは、加藤が退屈そうにコーヒーメイカーのフィルターを交換して、その加藤の姿を、窓際の奥まった席に座った辻元と、本部のスーパーバイザーの吉岡が見ていた。

「加藤真人君ねえ…でかいなしかし」
「まあ、根性は入ってますよ」
「そんな感じだな…おい、加藤君！　コーヒーおかわり！」

　加藤がすかさずコーヒーを持って来て注ぐ。そしてその一連の動作を吉岡が、観察するように見守っていた。
「ごゆっくりどうぞ」

　加藤の後姿を見送りながら吉岡は、辻元に言った。
「まあ、お前が推すんだからハズレはないだろうな…麦倉も店長昇格最短記録保持者だし」

　辻元は頭を掻きながら、照れくさそうに顔をしかめた。
「加藤には、フロアもキッチンも書類も仕込んであります」
「え！　お前、バイトに書類まで仕込んでるのかよ」
「それが何か？」
　本社の管理職は、店舗の従業員で社員以外の人間が、書類を扱うことを、建前上は嫌うのだが、建前なのをわかっているから辻元は悪びれる様子もなく答えた。
「…まあ採用は決定だな…本人にはそう伝えておけ」
「今から言っておくと本人、気が変わったりするかもしれないですね」
「それはそれでいいさ…ところで辻元…お前のことだ」
「俺？」
「そろそろ異動」
「どこですか？」
「禄南町店が、またメチャクチャになってるらしいんだ」
「禄南町店ねえ…」
　辻元は表情を変えなかった。しかし頭の中に真っ先に桂月の顔が浮かんだ。
　ここから山を二つ越えた、およそ50キロ先の店への異動は、桂月との関係が、遠距離恋愛になることを意味していた。

　確かに桂月は魅力的であったし、この浮気性の自分が桂月と付き合っている間、遂に一度も他の女に手を出すことがなかった。

　しかし、それはあくまで近いところにお互いがいたからであり、大学生の桂月が、遠距離恋愛に耐え切れるかどうかは甚だ疑問であった。
　これは、女にどれだけ「想われているか」ではない。
　どれだけ女が「寂しさに耐えられるか」の問題で、それに関していくら健気に辻元を慕っているとはいえ、まだ二十歳になったばかりの桂月が、そこまでの情念の持ち主とは到底思えなかった。

「今ならお互い傷口は浅くて済む」これが辻元の出した結論だった。

「暑い…」
　店の近くにあるコンビニで買ったペットボトルの麦茶が入ったビニール袋をぶらさげて、店に戻る途中の桂月が空をあおいだ。
「桂月さーん！」
　振り向くと、死にそうな顔をした長谷川が、こちらに向かって自転車を漕ぎ、その後ろから道子が手を振っていた。

「徹さん、ありがとね！」
「今日はうちに帰るんだよ？あさってから学校だろ？」
「はぁい…」
　桂月とも二言三言話してから今来た道を戻る長谷川を、見送りながら、道子は憂鬱そうに頭を抱えた。
「やべー…あさってから学校かあ…いいね桂月さん大学は夏休み長くて」
「んー…道子ちゃんも大学行けば夏休みは長いわよ？」
「あたしバカだからだめだぁ！はははははは！」

　店の裏口で二人は、辻元に見送られて帰る吉岡とすれ違った。
　とっさに会釈すると、吉岡は特に関心なさそうに目の前を通り過ぎ辻元に言った。
「正式には来週の頭からだけど、明々後日くらいには行ってくれ」
「はい」
　辻元は事務的に答えた。

　桂月はきょとんとしていたが、道子は顔つきが変わった。
　瞬時に辻元の顔を見たが、桂月の顔も見て道子は押し黙った。
　辻元の後から店に入ると、辻元はそのままバックヤードへ行き、二人は控え室に入ると、加藤がいた。
「おはよう松月、今日は早いなあ。まだ夕方になってないぞ？」
「うん…」
「あ、大変！　私着替えないと！」
　そう言うと桂月が慌てて、更衣室のブラインドを閉めた。
　そして、桂月が服を脱ぐ衣擦れの音を確認しながら、道子は机の上にあった雑記帳に、何やらすらすらっと書くと、人差し指を唇に当てながら加藤に、雑記帳を見せた。
（店長異動？）
　加藤が無言で頷くと、道子はブラインドを見つめて天井を仰ぐと目を閉じた。

　その晩、いつもならアルバイトが終わった後も夏休みということで、加藤も道子もしばらく店長室あたりで、ジュースを飲みながらのんびりしているのだが、その日は二人ともさっさと帰り、厨房のラスト要員のパートも帰ると、店は桂月と辻元だけになった。

「店長…なんか今日は変ですね」
「うーん…」
「加藤君も道子ちゃんもさっさと帰っちゃいました」
「あのさぁ桂月」
「はい？」
「俺異動するんだ」
「…どこへですか？」
「禄南町」

（遠い！）
　桂月は、今までの幸せな関係を継続するには、これからは距離という障害を背負う必要があることを瞬時に理解したが、辻元の結論は唐突だった。
「桂月、お別れだ」

　桂月は息を呑んで絶句した。

「俺の役目は終わりだ」
「……」
「お前は一人前のバイトになったし、一人前の女にもなった」
「……」
「でも距離だけはどうしようもない。始めは大丈夫かもしれないけど『寂しい』っていうのは女にとって、ハンパな『痛い』より耐えられないものだ」
「……」
「俺は、お前には本気だったけど、これ以上お前を好きになると、新しい男ができた事をお前に告げられる瞬間が耐えられそうにない」

「どうしてそんなことを決め付けるんですか！」
　桂月が初めて目をむいて大声で辻元を責めた。しかし辻元は終始冷静だった。

「距離だけはどうしようもない。これは俺の経験則でもあるし、これは結婚でもしてないと、乗り越えられない障壁だ」
「結婚……します！」

　辻元は黙って笑いながら、桂月の頭を撫でたが、桂月はその手を振り払ってそのままバックヤードへ歩き出した。
「バカ！！！！」
　それだけ言うのが精一杯だった。桂月は泣きながら、着替えもせずに制服のまま、裏口から小走りに帰った。
　フロアに、いや店に独り残された辻元は虚空を睨んでいた。
「つれえなあ…思ったよりも…」

　翌日、店内の全従業員は辻元異動の知らせを聞いて一様に驚いたが、もっと驚いたのはその突然さであり、今日、早くも新しい店長がやってきて引継ぎを行い、明日は辻元がこの店の店長である最後の日であった。

　その日のシフトは桂月と加藤が早番だったが、桂月は店に現れなかった。
　しかし加藤は黙って一人で、桂月がいない分の業務もこなし、開店準備を整えた。加藤は桂月の心を察していたのと同時に、「あらゆるトラブルに冷静に対処する社員」を目指すべく、突然の試練を嘆いたりはしなかった。

　辻元は、桂月のことを考えていた。
　やはり、桂月は自分にとって特別な女になっていたのだが、自分の決断は間違っていないと信じるしかなかった。
（あれだけの上玉だから、どうせすぐ次を見つけるさ…）

　その頃桂月は、街中のカフェで、さと子と座っていた。
「ごめんなさい…さと子さんお仕事だったのに…ダメですね学生って」
「そんなことないよぉ！　あたし結構サボるんだよ？」

　桂月はあれから一睡もしていなかった。
　泣き腫らした目がそれを物語っていた。

「こうちゃん…異動かあ…」
「簡単に…男の人は…女を捨てられるんですね」

（それは男も女も関係ないんだけどなあ…）
「こうちゃんも、言ったのはあっさりだったろうけど、色々悩んだと思うよ？」
　桂月は、テーブルに落としていた視線をさと子に向けた。
「私…学校やめて…」
「だめ」
　さと子が遮った。

「何言ってるんだよぉ…そんなことして何になるのよ」
「でも…」
「『忘れる』か『待つ』かしか選択肢ないよ」

　桂月はさと子の目をじっと見た。そしてその視線を受け止めながらさと子は思った。
（この目で見られたら…男はダメだなあ…）

「あの…さと子さんは…麦倉店長を…ずっと待ってたんですか？」
　思いがけない桂月の言葉にさすがのさと子も一瞬ひるんだ。
（なんでこんな世間知らずの小娘が鋭いツッコミするのよぉ！）
「待って…たかなあ…忘れてはいなかったからねえ…」
　だがさと子はこう付け加えた。
「でもその間、誰ともセックスしなかったわけじゃないよ？」
「でも…待ってたんですね…」
（うわぁ…この子って物凄い頑固者だぁ…まいった！）

「桂月ちゃんさぁ…健気さを失くさないようにしながら、タフになりなよ」
　そう言って、さと子は頭を掻いた。