第５幕


　診察室に入れば綾瀬さんと青年医師が真剣な表情で話し合いながら、僕のものであろうカルテと電子データを見つめていた。
　データに赤ペンでいくつもチェックが入って、きっと何か不具合な部分なのだろう。

　医師と女医さんと綾瀬さんは四角いテーブルに席を設けて、話しずらそうに僕をみつめた。
　しばらく待っていると、女医が入室してこんにちわと愛想よく声をかけて席に着く。
　それを皮切りに男性の医師が言葉を発する。

「えっと、木場さん。単刀直入に言いますね。
　脳に障害はありません。神経も繋がっています。で、あとは慣れの問題です。」
「慣れですか？・・・え！」
「えぇ、恋人でも作ってお楽しみ下さい。そのうち感じられますよ。」
「はぁ。」気の抜けた返事をして、チラと綾瀬さんに目を走らせる。

　彼女も明らかに意識していて、僕をドギマギさせて、同時に妻の処遇に困った。
　晴海を愛している。ここ一週間、ずっと妻と愛し合ってきた。
　こんなことは言っても判ってもらえないだろうけれど、妻は感じてくれているのだから、神経が妻に繋がっているに違いないとは思う。

　大雑把に結論を伝えられたあと、こまごまとカルテと電子データの説明を受けるけれど、訳もわからないし、あまり興味もなかった。
　それでも一通り説明を受けたと言うところで、咳払いをして青年医師が声をはさむ。
　少し照れていて、少し楽しそうに。
「えっと、綾瀬さんとお付き合いを始めたと伺いましたが・・・。」
　女性医師がぎょっとして僕と綾瀬さんをみつめる。
「聞いてないわよ。そんなこと・・・。言ってよね。リハビリ相手はいるんじゃない。
　そう言うお店の情報とか調べちゃったわよ。恥ずかしかったのに。もうっ。」

　申し訳なさそうに笑って「いやぁ、僕もさっき聞いたんだよ。ごめん。」
「じゃぁ、これで一件落着ね。彼女とのリハビリでも駄目だったら、人口ちんちんくっつけましょう。
　あぁ、それともチンチンが欲しいだけなら、保険対象外で５００万位かかるけどつけられるわ。
　治療の一環としてなら２０万位ね。高度医療給付やらなんやらの補助があるから。」

　なんとなくしょぼくれて僕は診察室を出る。
　ふいに青年医師を呼んで、妻のことを話すと、「幻覚だと思います。」の一言だった。
　どんなタイミングで話せますかと尋ねられて、鏡とお酒と応えれば、自分ですら現実なのか幻なのかわからないからなんともいえない。

　一週間、彼女を犯して、いや、自慰をして気付いたのは、鏡だけでは声が聞こえない。
　お酒を呑めば間違いなく彼女は現れてくれる。だから、呑みっぱなしだった。
　あぁ、なら、呑まなければ妻には会わないのかもしれないと思うと、少し気が楽になったかと言えばそうではない。
　妻の声を聞こえなくても、僕が悪戯をすれば妻は官能に焼かれて泣き叫ぶんだろう。
　で、あればなおさらかわいそうだ。

「あのぉ、鯖味噌定食食べにいきませんか？」
「へ？」

　我ながら間の抜けた返事だった。
　綾瀬さんが僕の袖を指先で摘みながら、じっとついてきてくれていて、病院を出てから少し歩いたところで声がかかった。
　あぁ、僕はきっと眉間に皺よせて酷い顔で考え込んでいたんだろうな。
　そう思えばちょっとばかし可笑しくなって綾瀬さんをちらと見ると、彼女もやっと微笑んだ。

「鯖味噌定食食べに行こうか。僕も久しぶりだし。」
　ふっと空気が緩んで僕達は、また自然と手を繋いでいた。
　指が絡んで初めて、あっと心に呟いてしまう。あぁ、僕は彼女と付き合っているんだ。
　どうすればいいんだろう。晴海を愛している。先生はあぁ言ったけれど、きっと存在している。
　一週間も妻と共にいた。一週間も幻覚を見続けるなんてありえないじゃないか。

　それに僕は晴海を愛していて、綾瀬さんも好きだけど・・・、でも、裏切れない。
　なにが裏切りでなにがそうでないかなんて応えられないけれど、きっと僕が綾瀬さんと恋愛をすれば妻は悲しむと思う。だから、できない。

　でも・・、と僕が綾瀬さんの指を握り締めながら定食屋で御飯を食べる位は許して欲しい。
　愛している。晴海を愛している。僕は愛している。
　でも、なんど妻を愛しても溜まる一方の欲情と、乾く一方の肌寒さの記憶が拭えない。
　記憶・・・、違う、今現在、僕は乾いて溢れることができないでもがいているんだ。

　食後、食欲が満たされると同時に別の飢餓が首をもたげる。
　それでもそ知らぬふりをして綾瀬さんの手を引いてすこし歩いた。
　指先の温かさがジワリと僕の飢えを潤して、僕の溜まりすぎた欲情を沸騰させる。
　彼女を見詰める僕の瞳はどれ程興奮しているのだろう。
　血走ってしまっているかもしれない。でも、しょうがないじゃないか。
　僕は耐えられないよ。こんなわけもわからない状況になんて・・・。
　道すがらのガラスに妻の表情が映る。
　泣きそうなほど怖がっていて・・・、誰を恐れているの？
　僕を恐れているの？それとも綾瀬さんを？
　晴海は・・・・、僕を本当に愛してくれているの？

　これまで疑ったこともない疑念に心が縛られて、指先の優しさは僕が苦しんでいた時に逃げ出した妻とは、比較にならないほど優しくて柔らかかった。

　でも・・・、僕は晴海を愛している。これは本当のことなんだ。
　こんなに苦しくて辛くても、晴海だけは助けたいって・・・、あぁ、もう助けようもない。
　彼女は肉体を失って、でも、僕は彼女を幸せに出来るかもしれないじゃないか。

　気付いた時には、綾瀬さんと指を絡めて自宅のマンションの前だった。
　どうしよう。きっと、このまま部屋に連れ込んだら、僕は耐えられないかもしれない。
　彼女の瞳を見つめれば恥ずかしそうに、僕にひしとしがみ付いて・・・。

「わ、わたし、辰巳さんのこと好きですよ。あの、変だけど、好きです。
　女性とのそういうのは初めてで、怖いけれど、辰巳さんなら・・・。」
　潤んで深い湖のような黒い瞳は僕を雁字搦めにした。
　どうすれば良いかなんてわからない。ただ、抱きしめたい。

　ぐいと指先を絡めたままマンションの入り口に引けば、抵抗もなく僕の腕にしがみ付いてついてくる。
　エレベーターに乗って彼女の唇に目をやれば、ドクドクと痛い程心臓が脈打って、その衝動に駆られて彼女の吐き出す呼吸の全てを吸い込んだ。

　じゅると唾液が混じって僕の口腔を甘く染める。
　ぎゅっと抱きしめれば、彼女の胸の感触が柔らかく僕の心を埋めて、いつまでも抱きしめたい希望に支配される。
　激しく跳ねる心臓が心地よい。あぁ、可愛い唇。甘い息。
　柔らかい・・・あぁ、あの日のキスと同じとろけるようなくちづけ。

　僕は綾瀬さんに完全に酔いつぶれて、主導権を彼女に無条件に与えた。

　部屋に綾瀬さんと一緒に入っただけで、なんとなく部屋がいつもとは違うような錯覚さえ起こして、居心地の悪さと期待と、そして堪えられないような欲情が沸く。

　官能を得て体を沈めるなんてどうせ無理だと知っていたけれど、それでも自慰ではない、しかもこんな可愛い女性から愛撫を受けたら、僕の体はどんな反応を起こすんだろうと、希望が湧かないわけもなかった。

　僕はドギマギする気持ちを無理やり抑え込んで、キッチンでお湯を沸かす。
「綾瀬さん。コーヒー？紅茶？あ、お酒をあるけど・・・。」
「えっと、お酒はちょっと早くないですか？あ、あの綾瀬で良いです。呼び捨てで・・・。」
「うん。じゃぁ、僕のことも辰巳で良いよ。えっと、僕は少しだけお酒呑もう。」
「え！昼からお酒ですか？体に悪いですよ。」
「うん、わかってるんだけど、なんか最近落ち着かなくて・・・。」
「あ、ごめんなさい。そうでした。あの、体はきっと慣れますから・・・。」

　真っ赤になって俯きながらピタと揃えた膝に拳を置く。
　肩にかかった艶やかな髪がさらとこぼれて、僕はその一瞬に見惚れてしまっていた。
　グラスにウィスキーを半分程まで注いで、お湯で割る。
　湯気が甘くて力強い独特の薫りを鼻腔に運び、ちゅっと一口だけ啜る。
　濃さが丁度良かった。

「ねぇ、紅茶にウイスキー垂らしたことある？」
「え？ないですけど・・・。じゃぁ、お付き合いします。」
「うん。紅茶にお砂糖とウイスキー。悪くないよ。」

「あ、ちょっとだけウイスキーの薫りしますね。えっと、でもほんの少し。」
「うん、スプーンで１杯半位だからね。どう？」
「美味しいです。」
「どういたしまして。」
「こちらこそ。フフフ。」

　僕は強めのウイスキーを喉に滑り込ませながら、焼け付く感触を楽しんでいた。
　綾瀬さんの・・・、綾瀬のスカートのスリットから白い内腿が見えていて、目をやらないように努力するだけで、引き攣りそうなほど辛い。

「あの、辰巳さん。あ・・・あの、辰巳。」
「ん？」
「やっぱり辛いですか？」
「えっと・・・。ごめんね。うん。」

　ドキとした。心臓が跳ね上がって呼吸が止まる。
　このままなし崩し的に・・、そんな期待を抱かせて彼女の瞳は僕を溺れさせるほど深い。

「そうですよね。奥様のこと凄く愛していらしたんですよね。」
　え？
「あ、あぁ、そうだね。うん。」
　なんだ。そのことか。
　そのことかと思って僕は妻への愛がこんなに軽いはずなかったのに、一瞬でも晴海を軽んじた気持ちに自分を卑下せずにはいられなくなった。
　鏡が見たい。妻に謝りたい。あぁ、綾瀬さんを部屋に入れたことも謝らないと。

「でも、私が慰めてあげます。あの、私、辰巳のこと好きだし。
　女の子の体のこと、きっと辰巳より良く知っているし。」
　がばと僕を押し倒して綾瀬に唇を塞がれる。
　甘い薫りに蹂躙されながらも、驚きが先行して、とにかく驚いて、彼女を一度引き離そうかと思った。

　くちゅっ。

　うわ。電撃が心臓を貫く。
　乳首を綾瀬が僕の乳首を指で触れただけで、官能が走った。
　２ヶ月ぶりの官能。体を失う前から数えればもう何年も経っている。
　ほ、欲しい。もっと・・・。

　綾瀬は慣れた手つきで僕の服を脱がしながら乳首や乳房を嬲って、いちいち反応せずにはいられない僕を眺めながら、頬を染めて喜んでいた。
「う、あぁ、綾瀬。気持ち良い。こ、こんなの。」
　上着を全て脱がされて乳首に吸いつかれれば、もう思考する余裕もないほどに、内側からドクドクと溢れてくる快感・・・。
「う、うわあ。で、出る。」
　出るものなぞ何もないはずなのに、射精感がこみ上げる。
　ビクと信じられないような灼熱が走って、射精した。

「あ、あの、乳首・・・・・。気持ち良い？」
　じわじわと指先で乳首を触られて、何度も何度も射精して、でも、激しすぎるくせに射精後の満足間は薄かった。
　実際には何も出ていないのだから当たり前なのかもしれないけれど、それでもその感覚は射精だった。
「も、もっと、出したい。う、うわぁ。駄目だ。激しい。あぁ、綾瀬。激しいよ。」

　陸に打ち上げられた小魚みたいにびくびくと跳ねて、綾瀬は僕の官能を自由に操れることが堪らなく楽しいみたいだった。

（こ、こんなの酷い。イキすぎてきついの。辰巳。お願いやめさせて。あぁぁぁー。嫌ぁ〜っ。）
「は、はぁ。も、もうすぐで全部出ちゃう。綾瀬。もう少しだけ。うわぁ。」
　僕の願いを聞き入れて、くちゅと唇に含まれれば、ないものも全てを引き摺りだされるような、絶頂の杭に貫かれる感触に僕は鳴いた。

　全て出し切って、グタとする頃には、パンツも脱がされて、見上げた彼女も柔らかい乳房を揺らしながら白い肌の全てを晒していた。
　それが目に入るとまるで男のそれみたいに力が湧いて、綾瀬の乳首にお返しとばかりに口付けをする。

「あん。」と小さく鳴いて、僕の首を抱き、むにゅと押し付けられた乳房の感触に恍惚とする暇もなく、彼女の指が僕の割れ目に潜りこんだ。

　ギクリと腰が動く。
　指が入っただけで、全身から力が抜けて、全身の筋肉が緊張して、染め上げられた。
　ぬるぬると内側を撫でられるだけでいても立ってもいられなくなって、
　ただ我武者羅に綾瀬の乳房に吸い付いて、抱きついて、震えているのが精一杯だった。

（やだ、やだ、やだ。女の子なんかにイカされたくないの。辰巳、辰巳。嫌よ。あぁ〜、イ、イク。）
　晴海の声がしたような気がしたけれど、僕はもう綾瀬に全てを支配されて、生まれて初めて得る女性の官能に、もう夢中だった。

「辰巳。あの、良かった。体、治ったね。それに、凄く可愛い。綺麗だし。大好きよ。」
「あ、あぁ、綾瀬。僕も、僕もだよ。あぁ、ゆ、指が凄い、クリトリス、凄い。あぁ、イ、イク。」
「ふふふ。ね。私の方が女の子の体に詳しいでしょ？」
「うん。綾瀬ってＨだったんだね。」
「え？も、もう。馬鹿。恥ずかしいよ。馬鹿。」
「あは、可愛い。僕もしてあげる。」
（お、お願い。辰巳。辰巳。もう、嫌なの。辰巳。）

　晴海の声がして、でも、仕方がないじゃないか。僕は綾瀬としたいんだ。
　その日、彼女とは夜まで何度も交わって、妻がずっと泣いていたけれど、綾瀬のイキ顔を見たらそんなのどうでも良くなってしまった。



「ふぅ。ちょっとばかし冗長に過ぎましたかな。ヒッヒッヒ。
　えぇっと、ここからご想像通りに愛する妻を無視して、神の寵愛を受けるこの木場辰巳は堀切綾瀬と交わるわけでござんしてねぇ。
　ですが、どうやら自慰では自分はイケないけれど妻はイク。
　綾瀬との性交では自分も妻もイク。
　これに気付いた辰巳が、何をするかはまぁ、ご想像にお任せしやす。」

　神経質に蹄を鳴らして議場を廻り、先程からずっと俯いている四枚の羽の少女天使をからかう。
「お譲ちゃん。これが人間ですが、どんなご感想ですかな？ヒッヒッヒ。」

　脇からそれに水を差す。
「まぁ、よかろう。お前の仕事は終わった。地獄に帰るがよい。」
　ミカエルに冷たく突き放されても、勝ち誇った表情でメフィストは帰り支度をする。


　人間なんざ、せぇぜぇが地獄生まれの地獄育ち。
　あっしのような悪魔よりもそれよりも下賎の輩。
　まぁ、天使も大同小異。神ですら大差ありゃしねぇ。
　自由に愛して自由に交わり、自由に楽しみゃ、地獄も天国とくらぁ。

　それにしても、泣きながら喚きながらも木場晴海っちゅう女も楽しんでるじゃねぇか。
　さてさて、木場辰巳の残虐性を証明するだけで随分手間どっちまったい。
　あっしの楽しみはこんなママゴトじゃすまねぇんですがねぇ。
　天使にあんなもんみせたら地獄ごと消されかねねぇからな。フヒャヒャヒャヒャ・・。


「おっと、そこの可愛いお譲ちゃん。続きがみたいのかい？
　なら、その羽黒く染めて降りておいで。こんなもん、腐るほど見せてやらぁ。
　お望みとありゃ、体験コースをご用意いたしやすぜ。」


完