二　

　矢加部冴子の横顔を思い浮かべながら、大助はキーを叩いていた。夢の世界を小説につないでいる。新しく笹山という男が登場するが、もちろん彼も大助の小説中の人物である。
『――――
　ひどくしゃっきとした中居に案内されてその部屋に入った時、数寄屋風の細い床柱に背をもたせて、中年の男が手勺で杯を重ねていた。
　じろりと笹山を見て、姿勢を崩したまま、横柄に頭を下げた。
「笹山さんですね」
　しかし、言葉だけは如才なく、さ、さ、と既に用意されていた膳部の前に笹山を座らせた。
「失礼して、先にやってます」
　笹山は神妙に男の前に座った。
「ここはね、カニが旨いんです。当節、なんでも輸入もんばかりだが、ここのカニばかりは、トレトレの日本海産だ」
　笹山を見て人懐っこく笑った。
　それから笹山に杯をもたせ、片手でひどく邪魔くさそうな酒のつぎ方をした。
　笹山は恐縮して見せながら、両手で杯を干し、ゆっくりと杯を膳部にもどした。さらに注ごうとする相手を遮り、
「ご用件といのを、先に伺いましょうか」
　ぴしゃりといって相手の顔を見た。男のあまりの馴れ馴れしさにちょっと辟易したからであった。もちろん警戒心も解いていない。
　――桜井興業の桜井社長がその話をもってきた時、社長はいくら笹山が問い質しても、その依頼主の名は明かさなかった。ただ、関西の大手企業の経営者であるとだけ言った。「だから、話を引き受けるか引き受けないかは、君が当の本人と会ってから決めればいい。悪い話でないと私は思うよ」とだけいって桜井社長は言葉を濁した。
　この男との会見は、すべて桜井社長がセットした。男はその大企業の会長秘書だと言う。
「本来なら、まず、ここで自己紹介というところですがね、お願いすることがお願いすることですから、あなたにお受けいただけるかどうかが決まってから――
ということで、こちらの名前を明かすことについてはご勘弁いただきたい」
　男はちょっと改まった口調になった。
「桜井社長は信用の置ける人物だ。――その口の堅い桜井さんのご推薦だから、私どもとしても、あなたには全面的な信頼を置いています。で、――一方的で失礼だが、話を聞いて戴いて、お引き受け戴けると決まってからこちらの身分は明らかにしたい。いかがでしょう。そういう前提で、この話、聞いていただけますか」
　桜井社長は笹山が信頼する興業会の大物である。笹山が駆け出しのころ、いろいろ親身な面倒を見てらったりもしているし、篠山が事業に失敗した後も、それとなく援助の手をさしのべてくれたりしている。少なくとも、笹山にとっては頭のあがらない恩人であった。受諾するしないを云々する前に、話を持ってきた笹山社長への儀礼としも、この男の話は聞くべであろう。笹山はそう考えて、ここへやってきたのである。
「まあ、そうお堅くならんと。――酒でも飲みながらでないと、こんな話、まともには付き合っていられませんわな」
　笹山は、会長秘書と称するこの男からの再度の杯を受けて、聞く姿勢をとった。
「ここにある女がいる――と思っていただきたい。もと女優だ。芸能界に嫌気がさして今はさる実業家の妾になっている。三十二歳の女盛り。純日本的な美女です」
　細長い箸で、男は器用にカニの肉をつまみ出し、タレを含ませて旨そうに口に運んだ。
「実は――、あなたにこの美女を誘拐していただきたいのです」
　え？
　一瞬、相手の言葉を聞き違えたのではないかと思った。
「ゆうかい！？」
　思わず聞き返していた。
「そう、誘拐です」
　男は平然といった。
「こ、これは――」
　笹山は快活に笑った。
「こ、これはまた、穏やかじゃない」
「さよう、確かに穏やかじゃない」
　相手は面白そうに笑い、手勺でまた杯に酒をくんだ。
「しかし、誘拐と言っても、実は狂言です」
「狂言？　おっしゃる意味がいよいよ分からない」
「でしょうね」
　　　　　　　　　　　――――　』
　　　　　――――――
　大助はデスプレイに表示された文字を放心したように眺めていた。
　自分で機械を操作しながら、どうして誘拐などという突飛な言葉が飛び出したのか分からない。大助の意思のあずかりしらないところで、指が勝手にコンピュータのキーを這っている。気がつくと誘拐という言葉を使っていた。しかし、さすがに気がひけたのか、相手の男に「狂言」と言わせたりしている。気の小さい証拠かもしれない。
　――それにしても、と大助は思った。「誘拐」はいい。もし、矢加部冴子のような美女を誘拐できたら――。想像するだけでも何とも刺激的である。
　よっしゃ、いっちょ、やっか。
　せっかく指が拾った文字である。とにかく彼女を誘拐する。――あとはどうなるか分からない。その時の気分次第である。そうだ、例の大阪駅前の高層ビルの最上階で冴子と食事をとっていたあのにやけた男。実は大助の分身のつもりなのだが――。そいつに彼女を救出させる。そういう手もあるにはあるな。

『――――
「秘書室の仕事といってもいろいろありましてな」
　と、自称会長秘書は続けた。
「私も秘書室の人間だが、公的な仕事にはいっさいノータッチです。私の担当はいわば春日の局の方。つまり、オモテ・ウラの裏の方です。会長の私的な部分のお世話を、私が一切することになっているんです。早い話、オク・サイドの腰きんちゃくだ」
　男は、自分を揶揄するように言って笑った。
「しかし、この私的な世話というヤツほどやっかいなものはない。どれもこれもやっかいなことばかりですが、とくに世話のやけるのは、腰から下のお世話です。こればっかりはやった人間でないとその苦労は分かってもらえない」
　笹山も多少話に興味を持ちだした。男にすすめられるるままに、何度目かの杯を口に運んでいた。
「ですからね、この元女優を口説いたのも、実はかくいう私なんです。――たしか、あれはハワイかどっかのホテルでした。舞台でカラオケを熱唱している彼女を、わが会長が見染めましてね。それからが私の無間地獄の始まりでした。なにせ、ツルのひと声です。彼女のＯＫをとらなきゃこちらの首が飛ぶ。必死になって彼女を追い回しましたよ。掻き口説くこと二年。こちとら、やっと首にならずにはすみましたが、いまだに彼女、私をダニみたいに嫌って軽蔑しています」
　男は思い入れるように息をついた。
「――そして異変が始まったのです！」
　暫く遠いところを見る目つきをした。
「異変は、会長がこの女を手にいれてからすぐに起こりました。それまで会長には、同じような調子で何人かの女の世話をしているんですがね、こんなのは始めてです。メロメロなんです。ゾッコンというんでしょうか。年甲斐もなく、それはもうどうしようもないくらいその女に惚れ込んでしまいましてね――」
　そこで男は一息ついた。
「しかし、困ったことに言うことをきかないンです」
「言うことを聞かない？　――女がですか？」
　男は笑った。声をたてて笑った。
「ばかな。女は金で買ったようなものだ。今では、身も心もその気になっています」
　笹山は男の目をみた。トロンと大分酔いが回っているようであった。
「言うことを聞かないのは会長ご自身だ。ご自身の子息が――きかない。なにせこのあいだ七十六回目の誕生日を迎えたばかりですからね」
　笹山もちょっと苦笑した。複雑な笑い方で笑った。
　――それと、今夜の会合とどう繋がるのだろう？
「で、ですな、あなたに、この会長のご子息を奮い立たせるためのお手伝いをして戴きたい」
「――――」
「ちょっと荒っぽいが、このもと女優を誘拐する。誘拐して、犯す！」
「――――」
　笹山は息を呑んだ。 ――――』
　 ――――――　

　大助も息を呑んだ。ワープロのキーを叩きながら男たちの会話にドキドキしている。
　――これは、とんでもないことになった。削除キーを押そうとして、ちょっと思案して止めた。ままよと思った。ここまでくればあとは成り行きだ。
　成り行き。
　そう、成り行きにまかす。
　小人　閑居シテ　不善ヲナス。
「ご免ね、冴子さん。こんな積もりじゃなかったのですが――」
　大助はそっとつぶやいて冴子に謝り、ボキボキと指を鳴らして改めて十本の指を眺めた。

『――――
「焦れば焦るほどダメらしいのです。なにせ、もう八十才ですからな。然るにだ、然るに会長のその女に対する思い入れは募る一方なんです。会長なりにいろいろな方法を試みたらしいのですが、どんな方法をもってしてもさっぱりらしいんですな。ちょっとやそっとの刺激では、もうどうにもならないってことが分かった。女だっていい加減苛々しているに違いない。三十二歳の女盛りですからね。そこでいろいろ考えた。そしてね、だれに知恵をつけられたのか知らないが、彼女がやっているところを見たいと言いだしたのです。それも正常なヤツではダメだ。犯されているところを見たい――と、こう言うんです」
　唖然として声がでなかった。笹山はただ呆然と男をみつめていた。
「しかし、痩せてもかれても天下の大企業の会長ですからね、どっかに隠れて自分の女の犯されているのを見ているわけにはいかない。見つかったらそれこそ引っ込みがつかんでしょうからね。それに途中で嫉妬にでもかられて、押さえがきかなくなっても困ります。――で、撮れって言うんです、ビデオに撮れと。――ビデオに撮って、口実を作って女と一緒にそれを見るというんです。むろん自分が一枚噛んでいるてっことはおくびにもださない。女には、脅迫されてテープを買わされたとでもいう筋書きにしておく――」