四　

　親戚の娘たちと一緒だったので、矢加部冴子はまったく気を許していた。大阪の中ノ島の音楽ホールで、ロシアから来日した若い天才ピアニストの演奏を聴いたあと、冴子は梅田の高層ホテルのスカイラウンジで、娘たちに夕食を振る舞ってやった。
　もともと、冴子はクラシック音楽などにとりたてて興味も持ち合わせていなかったが、娘たちのたっての要望で、秘書室に連絡してその演奏会のキップを手配してやった。普通の方法では滅多に入手出来ない貴重な切符であったそうな。二枚、頼んだはずなのに、秘書室の手違いで四枚が手に入った。だから、冴子も、娘たちにせがまれた格好で、皆と一緒にその天才ピアニストのピアノを聴く気になったのである。
　ホテルでの食事の後、車で次々と娘たちをその自宅まで送ってやった。劇場前で待っていた車を、頭から社用車と信じきっていたからである。
　制帽に白い手袋の運転手は始めて見る顔であったが、劇場の前で顔を会わせた時、運転手の方から冴子に声をかけてきた。丁寧に会釈しながら、秘書室の指示で迎えにきた旨はっきりと告げた。
　だから、食事中に駐車場で待たせているときも、娘たちをそれぞれの自宅まで送り届けてっやっている間も、車に対する疑念など全く持っていなかった。若い娘たちと一緒の、久しぶりの華やいだ雰囲気の中で、冴子もついワインを重ねた。酔う――というほどでもなかったが、いつになくウキウキした楽しい時間を持てたことに満足して、全身が心地よく火照っていた。
　最後の娘を自宅前まで送り届けたあと、一人になるとさすがに責任感から開放された気がし、ふと気がつくと浅く眠っていた。
「あら――？」
　と思ったのは、車が軽いきしみをたてて緩いカーブを曲がった時である。
　日はすでに暮れていた。車は山道を走っている。運転手はひっそりと黙り込んで前方を見たままハンドルをさばいていた。カーラジオは鳴っていなかった。周囲は奇妙に静かであった。
　ヘッドライトが、道路脇に黒々と垂れ下がった樹木の枝をかき分けるように進行方向を照射していく。生駒のマンションに帰る時、いつも山越えするのだが、なんとなく今夜の樹々の陰影には馴染めなく、平素とは違った色合いを見せているような気がした。
　どこか変。――何かが違う。
「いま、どの辺を走っているの――？」
　一人ごとをいうようにつぶやいた。聞こえたのか聞こえないのか、運転手は相変わらず無言であった。素っけなく前方をみつめたままである。
　始めて不安がよぎった。
「ね、どこ、いま」
　今度はひとりごとではなく明らかに運転手に詰問する口調になっていた。しかし運転席からの返事がない。不気味な沈黙の時間が流れていった。
「どこなの、いま！」　
　やや声を荒げた。
「ね、運転手さん、聞こえてるの」
　車がちょっときしんで、右手へ大きくカーブした。思わずリヤーウンド越しに背後を見た。闇が広がっていた。後続してくる他の車はなかった。
　そういえば、さっきから対向してきて擦れ違った車もない。
　冴子はぞくりとした。不安が、不意に恐怖に変わった。
「私、降ります。停めて、ね、停めてください」
　しかし返事はなかった。
「降りるっていってるでしょう。車を停めなさい！」
　しかし車は軽ろやかに山道を疾走していく。　
「ね、停めて！　私、降ります」
　と、ようやく運転手が口をきいた。
「降りるって奥さん、こんな山の中ですよ」
　ゾっとするような陰にこもった声であった。
「降りてどうするんです？」
　名状のしようのない激しい恐怖が、全身を駆けていった。
「こんなところで降りても、他の車なんかきませんよ、国道からずっと離れた山ン中ですからね。熊か狼に襲われるだけです」
「だ、誰ですあなた。この車っ、会社の車ではなかったの！」
「おやおや、呑気なことだ。今ごろ気づいたのですか」
「ど、どういうことなの、これ！　――私、降ります。降ろしてください」
　ドアに手を掛けた。
「無駄ですよ奥さん、こっちでロックしてある。ドアは開きません」
　必死になってドアをガチャガチャいわせたが無駄であった。反対側のドアもビクリともしなかった。恐怖で歯ががちがちと鳴った。
「何これ！　ど、どういうこと！　どうしようっていうの！」
　端正な顔が醜くひきつり、色が失せていた。歯の根が合わない。恐ろしい夢をみているのではないかと思った。
「どうしようって――。あなたを誘拐するのです。誘拐して強姦します」
「やめて！」
　冴子はシートから腰を浮かしきしゃな細い腕を伸ばすと、背後から運転手の両肩を掴んだ。驚くほど堅くて頑丈な肩であった。この時、運転手は始めてこちらを振り返った。平然とした表情であった。そして、ニッと白い歯を見せて笑った。意外に幼い貌をしていた。しかし、顔は笑っていたが目は鋭く、射るような眼差しで冴子の胸のあたりをねめまわすように見た。
　はっとして、反射的に冴子は両手で胸許を押さえた。
「気がつくのが遅すぎましたね。――ホラ、奥さん、向こうで人が待っているでしょう。仲間なんです」
　白い手袋で前方を指差し、それからゆっくりと車を山道の片側に寄せていった。ヘッドライトを二、三度点滅させた。フロントガラスの向こうに黒い影が大きく立ちはだかっているのが見えた。運転手が軽くクラクションを鳴らした。
　影は、人影は、三つあった。三つの影は申し合わせたように背を丸め、こちらに向かって突進してきた。
　冴子は堪り兼ねて短い悲鳴をあげた。恐怖で息が詰まった。
　つぎの瞬間、左右のドアが開いて、右と左から二人の男が同時に車に乗り込んできた。
　無言のまま、冴子を挟んで左右の腕を乱暴にたぐると、力づくシートに坐らせた。
　有無を言わさない恐ろしい力であった。
「な、何をするのです！」
　すぐに車がゆっくり動きだした。
「お、降ろしてください！」
　がっしりと左右から腕を押さえられ、身動きがとれなかった。それでも冴子は力の限り身を揉んだ。
「だ、誰かきて！」
　絶叫した。
　いきなり、火の付いたような痛みを頬に感じた。ぴしゃりと頬が二度三度激しく鳴り、蒼白な冴子の頬が男の掌の指の跡でみるみる真っ赤に染まっていった。気が遠くなるほどの痛烈な平手打ちであった。こんな容赦のない平手打ちを受けたのは、生まれて始めてであった。苦痛と恐ろしさのため、冴子は言葉を失った。放心して、大きく瞳孔を開き、男を見た。
「大人しくして戴ければ乱暴はしません」
　冴子を打った右側の男がいった。低い、しかし落ち着いた声であった。
　四十をちょっと越えて見えた。どこが崩れたところがあるが一見インテリ風で、そのままサラリーマンにしても通用しそうな風貌をもっていた。痩身で背が高く、蒼白な横顔を見せて静かに喋るその喋りかたに凄みがあった。
「暫く静かにして戴く――」
　冴子の腕を離し、タバコをくわえた。
「なるほどこリャ美人や。凄いベッピンやおませんか」
　反対側の男がいった。カン高い子供のような声だった。反射的にそちらを見て冴子はぞっとした。思わず身がすくんだ。一瞬の放心から覚め、冴子は再びつんざくような悲鳴をあげた。
「いくらわめいてもあきまへんな。ここは山ン中もいいとこや、誰も来ン。いい加減あきらめることですな」
　男の分厚い唇が醜く動いた。頬と額に深い皺が刻み込まれている。獅子のような巨大な鼻孔からグロテスクな鼻毛がのぞいていた。年齢はいくつぐらいか見当もつかない。
　しかし、冴子を戦慄させたのは男の容貌ではない。日本猿のような小さくて怪奇なその体付きであった。五、六歳の子供の体の上に、不釣り合いに大きくて醜悪な顔が乗っている。シートにやっと腰が乗り、短い上半身をチョコンと反り返らせていた。冴子の胸のあたりに、やっと男の顔があった。母親にすがる幼児のように、しっかりと冴子の腕に絡みついている男の短い腕の力は、しかし信じられないほど強くてきつかった。
　冴子はがくがくと震えていた。
「なぜ！　なぜなの！？　なぜこんなことをするです！」
　口が乾いて声がかすれていた。
「何かの間違いでしょ！　あなたたち感違いしてるのじゃない？　ね、そうでしょ。――わたし、わたし、矢加部といいます。矢加部冴子。冴子です！」
　どう考えてもこんな理不尽な扱いをうけねばならないいわれはない。これは何かの間違いだ。そうにきまっている。冴子は本気でそう思った。
「その矢加部冴子さんに用があるのよ」
　気がつくと、前の運転席横の席にも、もう一人の人物が乗っていた。女である。冴子より少し若い。化粧っ気はまったくなく、なにかパサパサしたした感じの女であった。助手席から、男のように活発に体をひねって正面から冴子を見た。
「さすがだわ。もと女優さんというだけあってその恐怖に引きつった顔、なんとも魅力的。ぞっとするような色気よ」
「お、お金ならなんとかします。ね、お願い、助けて！」
　しかし、女は答えず、そのままの姿勢で横の運転手の男に声をかけた。
「ご苦労さんだったわね大ちゃん。ズバリ、シナリオ通りよ」
「この奥さん、具合よく眠ってくれましてね、おかげで手荒な真似をしないですみました」
　口笛を吹きながら運転手がいった。面白くてたまらないといった口調である。
「じゃ、これでスタッフ全員が揃ったわけね」
　助手席から身を乗りだすようにして、女は改めて冴子を見た。
「奥さまに皆を紹介するわ。――まず、あなたの右手の人。笹山さんというの。今度の作品の監督さん。昔はこれでも興業界では少しは名の知られた人よ。だからしっかりした演技をしてね。――で、あなたの左手の小さな人。この方がこんどの作品の主演者の藤島さん。モチ、ヒロインは、奥さま、あなたよ」
　車は軽快なエンジンの音を響かせながら、深い闇の中を、さらに深い闇に向かって疾走している。擦れ違う車も後続する車もない。ヘッドライトの光の筋が暗がりの中央の闇をを不気味な蛇のように器用に掃いていく。
　冴子にはもう声がなかった。恐ろしい夢を見ているのだと思った。
「車を運転しているのが大ちゃんと言って、まあ、助演者兼カメラマンね。――最後に、かく言う私はスクリプター兼小道具係。みどりって言うの。よろしくね」
「それで、――それで私をどうしようって言うのです！」
　絞りだすような声であった。
「あら、大ちゃんから聞いていなかったの」
　車が大きくバウンドして揺れた。誰かがラジオのスイッチを入れた。ビートのよく効いた激しいグループサウンズの音楽が流れてきた。小さい男が子供のようにぎこちない仕草で、リズムに合わせてその小さい体を奇妙に揺すった。
「私を、ど、どうしようっていうのです！」
　恐怖に耐えかねて絶望的な問いを再び発した。　
「犯すの」
　平然と女が言った。
「――この藤島さんがあなたを犯すの。ごめんなさいね奥さま。そしてあなたが犯されているその一部始終を撮影するの。私たちはそのお手伝い。それだけの話よ」
　小男が冴子を見て白い歯を見せて嬉しそうに笑った。冴子は三たび凄まじい悲鳴をあげ、そして失神した。 ――――』
　 ――――
　指がひとりでに踊ってキーを這っていく。大助の目は吊りあがっていた。デスプレイの上に、大助の意思とは関係なく勝手な文字がドンドンと勝手に打刻されていき、次々と言葉に変換されていった。
　ウイスキーグラスの中の氷はすっかり溶け、グラスはびっしょり汗をかいている。灰皿から一筋、真っ直ぐ上に煙が昇っていた。新しいタバコに火をつけたまま、そのままの形で、タバコは根本まで灰になりつつあった。コンピュータの装置の中に、大助とは別のもう一人の大助が潜んでいて大助を操っている。大助は大助の操り人形であった。大助はもう一人の大助に命じられるまま、不気味な笑みを浮かべて、ウイスキーも口に運ばずタバコにも手をつけず憑かれたように、ひたすらワープロのキーを叩いていた。
「フフフフフ――」
　忍び泣いているいるような、呻いているような、低い野卑な笑いを洩らしながら、大助は、デスプレイの上に容赦なく溢れ出てくる卑猥な言葉どもと、壮絶な取っ組み合いをしていた。