十八

　夕食前、いきなり細君に呼びつけられた。
　土曜日であった。久しぶりに妻の清子は早く帰っていて、さきほどまで鼻歌まじりで、一週間分、溜まっていた洗濯ものを洗濯していた。息子の賢一は会社の慰安旅行と称し、今日明日は帰ってこないはずであった。
　珍しく細君と二人きりで夕食をとることになっていた。
　晩秋のよく晴れた小春日和の日であった。
　大助は、ほとんど一日がかりで、狭い庭の手入れをしていた。
　ベランダの隅に五鉢ばかり、三本立ての、黄色と白の厚物の菊が見事に咲き誇っている。大助が咲かせたものである。バスタオルで風呂あがりの体を拭いながら、応接室の窓ガラス越しに、満足そうに菊の鉢を眺めていた。
「早く、あなた」
　いつになく厳しい声が、また二階からした。
「書斎よ。あなたの書斎にいらして」
　大助は、タオルで頭をゴシゴシ拭きながら階段を上がっていった。
　のっそりと自分の書斎に入った。
　妻は大助の仕事用の座卓の前に座っていた。向こうを見て、背を伸ばし、しゃんと正座している。
　不吉な予感がした。
「ああ、いい風呂だった。腹が減ったわ。早くめしにしてくれ」
　言いながら前に座りかけると、
「閉めてください、そこ」
　座ったまま命じた。降ろしかけた腰をたて直して、大助は素直に襖を閉めた。
「ん――？」
　座らず、書棚から盆栽の本を見つけると、立ったまま、ペラペラとページを繰っていった。ページを繰りながら、素早く、ここ二三日の自分の行動を反趨した。駅前のバーにも最近は立ち寄っていないし、雀荘からもここ暫くは遠ざかっている。とくに、妻の清子になじられるような行動をとった記憶はない。
　大助はゆっくり妻の前の座卓に腰を降ろした。
「賢一は、今夜、帰えらんのか」
　探りを入れた。
　しかし妻はは無視した。
　いよいよ危険な徴候であった。
　妻ははじろりと目をあげ、白い目で大助を睨んだ。夫と妻は、無言で暫くに睨みあっていた。
「サエコさん――って、どなた」
　いきなり聞いた。とっさのことで、誰のことか分からないでいた。
　暫く思考が空転した。
「ヤカベ、サエコさん――という人」
　ドキリとした。まさに衝撃であった。
「――――」
　何故だと思った。何故知っている！
「――――」
　言葉がみつからなかった。晴天の霹靂とはこういうことをいうのか。
　――これはエライことになったと思った。
「呆れた人――」
　ドサリと原稿を座卓の上に投げだした。大助は、左隅をクリップでとめたコンピュータからアウトプットしておいた三〇枚ほどの自分の原稿に目をやった。
「読んだわ」
　正面から大助を睨んだ。
「あなたという人は――」
「いや――」
　どう返答していいか分からない。大助は少年のようにみるみる赤くなった。
「あなた！」
「は、ハイ」
「はいじゃありません」
「ハイ――」
「売れないハズだわ」
　妻の清子はため息をついた。
「恥ずかしくないの？」
「――――」
「珍しく真面目に仕事をしていると思ったら、こんなことしてらしたのね」
　どう言われても弁解の余地はない。大助は悄然とうなだれているだけだあった。
　実際、自分で自分がイヤになった。
「よくも、まあ、臆面もなく、こんなこと書けたわね。いやらしいたらありゃしない。下品な。汚らしい。疑うわ、あなたの人格」
　妻は大助から顔を反らせたまま続けた。
「いやらしい場面の描写、妙に達者じゃないの。どこかで経験してるの？　でも、あなたの仕事にしては珍しくねばりと根気があるわ。誉めてあげてよ。――こんな汚いこと書く時だけね、あなたにねばりと根気があるのは」
「違うんだ、その――」
　大助は辛うじて言った。
「その――。その、コンピュータの中にヘンなのが居て。――で、オレじゃないんだ、それ、書いたの――」
　ボソボソと言った。
「何、勝手なこと言ってるの」
「うまく説明できないんだが、つまり――」
「やめて、ヘンな弁解！」
　ぴしゃりと、妻は大助を遮った。
「飽きっぽいあなたにしては、描写、ひつこすぎるわ。いいえ、感心してるのよ。ネチネチと性懲りもなく。あなたってあんな趣味なの。見損なったわ」
　目を伏せて、机の上の原稿の束を大助の方に押しやった。
「恥ずかしくってあなた、私の顔、見てられないでしょ。――私だって、恥ずかしくてあなたの顔、これ以上、見てられない」
　それから、すらりと立ち部屋を出た。襖を閉める時、
「処分してください、それ。賢一に見られでもしたら、私、離婚するわよ、あなたと」
　こちらを見ずに言った。なぜか階段を下りていく音が聞こえなかった。
　――まずは、嵐が過ぎた。大助はほっとして座椅子に背をもたせた。座椅子の上にあぐらをかき、両手を組んで頭の後ろで支えると、暫く呆然と宙を睨んでいた。背筋に冷や汗が出ている。
　それにしても醜態であった。まったく、なんてぇザマだと思った。
　羞恥で頭がカッカしてくる。自分で自分がなさけない。

　――どのくらいたっただろうか。
　階下から妻の声がした。
「あなた、降りてらっしゃいな、お客さんよ。珍しい人。ね、ね、早く」
　ケロリとした声が、階下から伝わってきた。おや、もう、機嫌が直ったのかと思った。女というものは分からない。
　せかされて立ち、部屋を出る時、つい、コンピュータのコードを足でひっかけていた。と、弾みでコンピュータにスイッチがはいったらしく、装置が自動的に動きだした。
　デスプレイが蒼く光った。思わずのぞき込んだ。ぎょっとした。
　なにやら文字が並んでいる。目を走らせた。
「――冴子はうううとうめき、さらに大胆に両足を宙に突き上げた。男が冴子の両足を大きく開いて自分の両肩の間に挟んで担いだ。中腰になった男の眼前に、もう一人の男の巨大な男根を誇らしげに呑みこんだ冴子の裂け目があった。肉と肉とが淫らに脈うっている。淫液のしぶきが聞こえそうであった。そのほの暗い先端に、粘液で醜く火照った小粒のあずき大の真っ白い冴子の淫核がピクンピクンとうごめいている――――」。
――――
　――――
　あっと叫んで、大助は画面を閉じた。
　誰だ、こんなことを書いたのは！
　おれじゃない。おれじゃ！
　自分が書いた言葉は、どんなことの葉でも覚えている。
　知らん！　絶対に知らん！　おれの言葉ではない。
　大助は、叫び、ワナワナと震え、コンピュータの電源を消しコンセントを根元から引き抜いていた。と、それが合図のように、電源を外された筈の装置が再び作動した。ブーンと微かに器械の唸る音が響いてコンピュータが開き、ボーッとデスプレイが光り、夜光虫のようにちろちろと、大助のあずかり知らない言葉が、次々とデスプレイの上を這っていった。
　大助は呻き、画面の両脇を激しく叩いた。
『――おいしそうな冴子の膣。美しいオ×ンコ。藤島の巨大で醜悪なチ×ポ。熟れた冴子の女陰。いたぶる藤島。藤島にみだらに応じる冴子。飴色の大淫唇と真っ白い淫核。むさぼる藤島。オ×ンコ。サ×。おめ×。チ×ポ。お×コ。×ネ。オ×ンコ。チ×ポ。×めこ。オ×ンコ。チ×ポ。×ネ…』
「やめろ！」
　大助は、再び叫ぶと、コンピュータのキーをデタラメに次々と押していった。しかし、装置はまったく反応せず、知らん顔をしたままよこしまな言葉を次々と吐き出していく。
　誰だ、お前は！　――畜生、 こいつ、こいつだ、こいつが、勝手に書いていく！
「やめろ、やめろ、貴様！」
　わめきながら大助は両手でコンピュータを掴んだ。　ブルブルと震えた。
　おれじゃない、おれじゃ！
　呟き、コンピュータを畳に叩きつけた。それでも電源は切れず、画面にはチロチロと文字が走っていく。
　階下からまた妻の声がした。
「早くってば、あなた――。早く、降りてらっしゃいな」
　大助は、コンピュータをそのままにして部屋を出、襖を閉めた。転ぶように階段を降りた。恐ろしくて背後を振り向けなかった。体中から汗が吹き出ていた。