十九
　
　一階の廊下で妻とぶつかりそうになった。妻は応接室へ、ガラスの食器に盛りつけをした果物のメロンを運ぶ所であった。
「上着くらい着てちょうだい。大切なお客さんなのだから」
　ボーッとつっ立っている大助を睨んで、ドンと背中を押し、それからちょっと品を作って応接室の内部へ入っていった。大助が驚くほどの上品な身のこなし方であった。妻のそんな優雅な振る舞いを見るのは、随分久しい気がした。応接室で「召し上がれ」などと言って楽しそうにはしゃいでいる。それに応えるように華やいだ笑い声が聞こえてきた。客は若い女性のようであった。
　部屋に入ったとき、客は大助に背を見せて座っていた。ぷーんとかすかに場違いな香水の匂いがした。妻が使っている安物の香水の匂いではなかった。なぜか、大助はその匂いに記憶がある気がした。妻は大助を認めると、紅茶茶碗をテーブルに戻し軽く口元を拭って、
「紹介するわ。うちの宿六――」と言った。
　大助は間延びした表情で、女客の正面に立った。客はちょっと改まって、水色のハンカチでブラウスの袖を軽くはたくように身繕いし、頭を上げ、ソフアから身を起こそうとした。その瞬間、客と大助の目が合った。あっと思った。
「あっ」と声を出したのは、しかし、客の方であった。
　矢加部冴子がそこにいた！
「まあ――」
「やあ――」
　矢加部冴子は頬を染めた。大助も赤くなった。
「おやまあ、どうして――？　あなたたち、お知り合いだったの！」
　妻は正直に驚いていた。冴子と大助は顔を合わせて苦笑した。苦笑しながら大助は、冴子との二度の出合のいきさつを、すこしばかり誇張して妻に話した。冴子も何も言わずにニコニコしながら大助の話を聞いていた。
「へえ、そんなことがあったの。――何もおっしゃらないんだからこの人」
　素知らぬ顔で、横に腰掛けている大助の太股を思いっきりつねった。
「でも、不思議ですわ。お目にかかったのはたった二度だけなのに、どうしてでしょう、すこしもそんな気がしない。ずっと、ずっと、長いお付き合いを戴いていてたような気がする――」
　それは大助にしても同感だった。冴子に会うのは、今日で三度目の筈だったが、本当は幻想の世界で毎日のように会っている。実際、冴子の言う通りなのだ。冴子と顔を合わせて二人だけにしか分からない微かな頷き方をした。
「それにしても奇遇ね。大阪のこんな田舎町で出合うんだから――」
　さきほど近所のスーパーで、偶然、冴子に出会ったのだと妻は言った。
「綺麗な方でしょ。――安河の清輔オジさんとこのキー姉ちゃんの従姉妹の妹さんよ」
　そう言われても、具体的に妻とどういう間柄になるのかよく分からなかったが、妻の母方の遠縁あたるんだろうと、なんとなく察しがついた。
「キー姉ちゃんと私は同級生だったから、お姉さんの方ならあなただってきっと知ってる筈よ」
　それから、大助に、
「冴子さん、女優さんをしてらしたの。だから綺麗なわけ」
　大助は驚いた。
「じょ、女優――さん？？」
　冴子は、すこし首を傾げ、大助を見てちょっと複雑な笑い方をした。オヤっと大助は思った。梅田の高層ビルでワインを飲んでいた時と同じ顔であった。これはいかんと思った。
「女優だなんて昔々の物語。いまじゃ、しがないお妾さん――」
　自嘲するように冴子は言った。
「お妾だなんて――」
「だって、現実でしょ」
　妻はどう返事していいか困っているようであった。
「でも、その会長さんっていい人らしいし――。ねぇ、あなた、堺のｘｘ興業っていう工作機械メーカー、知ってるでしょ。東証一部に上場してるあのｘｘ興産よ。スゴイでしょ。旦那さんって人は、そのｘｘ興産の会長さんなんだから。――私たちとは別世界の住人だわ」
　ｘｘ興産の会長！
　会長は、取り巻きを連れて、今、欧州にいる！
　い、いよいよいかん――と思った。
　デジャ・ビュという現象があるそうな。既視感ともいってる。今起きている現象をかって経験したことがあるように感じることだそうな。今がそれだと大助は思った。だから、次に場面がどう展開するかが分かるような気がした。
　とすれば、危険であった。いよいよ危険であった。次の瞬間、冴子は妖艶に微笑んで大助を見る。哀願するように大助を見て、少し喘ぎ、訴えるように唇をすぼめ、悪魔のように危険で魅惑的な言葉を大助の耳元で囁く…ことになる筈であった。思わず冴子から視線をそらせて妻の顔をそっと盗み見た。しかし妻は真剣そのものの表情で、冴子の話を聞いていた。
「――何が別世界なものですか。女としての誇りも望みも何もかもを捨ててしまっただけの話よ」
　ほっと息をつき、投げ捨てるように冴子は言った。
「でも、そうと割り切ってしまえば、お妾さんも気楽な稼業よ。――女優時代の気苦労を思えば天国かな。人に気がねはいらないし、時間はたっぷりあるし、ああして住むところもある。お金だってほどほどに自由になるし。――まあ、同じ体を売って生きて行く気なら女優を職業にして苦労するより、つまらぬ夢や野心など、いっそぱぁーっと捨ててしまった方がスカーっとしてよ」
　それから妻と大介を交互に見て、
「軽蔑なさるでしょ、こんな生き方」
　と微笑った。それから不意に、
「でも、殿方なんていい気なものね。人をさんざ辱めて堕落させておいて、奥さんと一緒だとケロリとして知らんプリ。――卑怯だわ」
　大助はぎょっとした。冴子の声のトーンがその瞬間さっと変わったからである。
「もとはといえばあなたでしょ、わたしをこんな恥知らずな女にしてしまったのは――。ああ、口惜しいたらありゃしない！」
　きっと大助を睨み、迫るように言った。
「知ってるわよ、わたしをだめにしたコンピュータ。――お二階ね、お二階のあなたの書斎にあるのね」
　冴子は応接室の天井にぶら下がっているシャンデリアを擬した蛍光灯に恨めしそうな目をやった。その方向に大助の二階の書斎があった。
「あなたには責任をとって戴くわ」
　恨めしげに大助を見た。
「お願い、持ってきてくださいな、コンピュータここへ。ね、そして、して！　もう私、どうなってもいいの！　あなたの好きにしてくださっていいわ。だからここでして頂戴、お仕事」
　ばかな。大助はあいまいに笑った。客のいるところで仕事などできるわけがない。大助は逡巡していた。
「奥方がお怖いの――」
　夢の世界で経験したのと同じ表情で、同じ仕草で、同じトーンの科白を、冴子は言った。言いながらさっと首を左へ振って豊かな髪をかきあげると、冴子の顔は鬼女の面に変わっていた。鬼女が真っ赤な口を、耳もとまで大きく割いて笑った。
　大助は悲鳴を上げた。
「ホ、ホ、ホ、ホ、ご覧なさいな。奥方、とっくにお寝みよ」
　見ると、妻は大助の横で、ソフアに背をもたして天井を仰ぐような少し不自然な姿勢で、いぎたなく眠っていた。軽い寝息さえ立てている。紅茶茶碗を持った右手がだらりとテーブルの下まで伸びていた。
「驚くことはありませんわ。お紅茶に睡眠薬、落としときましたの、さっき」
　鬼女は笑った。笑いながら大助の額にそっと唇を触れさせて、いとしそうにその両手をとった。
「あなたは私が戴くことにしたわ。で、この奥方だけど、藤島さんにさしあげようと思うの。奥さんに藤島さんの真珠、経験していただこうという試み。奥方、ちょっと、お年、召してらっしゃるけど、体型、藤島さん好みなの」
「ば、ば、ばかな――」
　大助は反射的に冴子の手を振りほどこうとした。しかし、手にはまったく力が入らず動きがとれなかった。手だけでなく全身が金縛りにあったように微動だにしない。額に玉のような汗が吹き出してくるのがはっきりと分かった。冴子は平然とした姿勢で大助を捉えていた。
「ばかなことなどありませんわ。わたしだって、あなたのためにあんなひどいめにあったじゃありませんか。おあいこよ、これで」
　鬼面の冴子が言い終わり、ソフアを立ち、応接室のドアをそっと開いた。と、両手で大助のラップトップのパソコン手にした藤島がそこに立っていた。
「わっ」
　大助は思わず悲鳴をあげた。小男は大助をみてニッと笑った。幻想の世界に住んでいた藤島と同じ容貌の藤島であった。藤島は同じ肢体と同じ笑い方でそこから大助に声をかけた。
「ごきげんさん。コンピュータ、持って来ました。あんたは冴子さんと。ワシは奥さんと。まあ、まかせときなはれ。ほな、続き、よろしゅうたのんまっせ」
　ゆっくりと応接室に入り、冴子と目を合わせてちょと微笑み、それから大助に短い手をさしのべた。
「ぎゃっ、た、助けて――」
　大助は再び叫び、そして失神した。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＝　終わり　＝