１９　幽明境を異にする

　この時間には愛する我が子と夫と夕食を共にしているはずの午後九時。

「うん・・・ちょっとセミナーがながびいてて・・うん。」
「・・そう・・ごめんね・・じゃぁまた電話するから・・」
　と佳乃はいきさつをごまかし友之への電話を切る。

「加山さん・・３階まで来てください。大島がお呼びです。」
　事務局の男性が顔を出し呼びかける。
「・・あ・・はい・・」
　重い足取りで３階へと階段を上る途中、大河内たちが玄関から帰る姿が見えた。

（大河内さん・・助けて・・）
　大河内に声をかけたいが、音にならない。
　遠く消えていく大河内の後姿を見ながら、管理部長室と書かれる部屋へ入る。

「コンコンッ・失礼します。」
　部屋へ入ると、大島と大倉弁護士がなにやら書類を見て話をしている。
「おお、加山さん・・そこに座って。」
「そうそう。この人が弁護士の大倉さん。」
　とスーツ姿でオールバックの髪型の５０代の男が名刺を持ち近寄る。

「大倉です。このたびは大変なことに巻き込まれたね。」
　と佳乃の味方をするような事をいい佳乃を安心させる。
「・・はい。すいません。・・私はこれから・・・」

「えー先程まで先方と話をしていたんだけどね。」
「あちらも時間がたつに連れて落ち着いてきてさっ。」
「どうやら示談って事で落ち着きそうなんだよっ。」

　大倉から示談という言葉がでて法律的に詳しくない女性でもホッとする。
「そうなんですか・・よかった。・・」
「後のことは私に任せて・・悪いようにはしないからさ。」
「加山さんにも、セミナー側にも・・ねっ。」

「そうなんやっ。・・まっ交通事故にでもあったと思って、忘れよっ。」
　大島は佳乃の肩に手を掛ける。
「・・・はい。」
「そこでなんだけど、加山さん・・示談書を作成しときたいんだが。」
　と何も内容の書かれてない示談書をテーブルの上に出す。
「もう時間も遅いしこういう事は時間が大事なんだ。だから、ここに自筆のサインだけしてくれないか。」
「後のことは全てわたしが明日のうちに確定させるからね。」

　加害者側が白紙の示談書を作成するなどとてもありえない事だが、今の佳乃には思考能力が著しく低下し、冷静な判断が出来ない。

「・・はい。・ここで良いんですね。」
　と白紙の示談書にあっさりとサインをしてしまった。

　それは、備品への仮契約書としての意味を持つことを知らずに。

「これでいいよ。・・もう心配しなくても。」
　と大倉がいうと、佳乃は肩の力が抜ける。
「大島部長。私はこの書類を作成しますので、このへんで事務所に。」
「おっう。すんまへんでしたな、こんなおそーまで。」
「じゃっ。失礼します。」
　と大倉は示談書を皮のカバンに仕舞い部屋を出る。

「加山さんもうこんな時間や。荷物も部屋のままやろ。」
　時間は１０時半を回り、家に帰る電車も無くなりかけていた。
「・・あっはい。」
「こんなことがあったんやから、無理せずにもう１泊したらええ。」
「ホテル代はうちでみるさかいに。なっ、そうしなさいっ。」
　大島はすぐにホテルのフロントに電話し了解を得た。

「すいません・・ではお言葉に甘えます。」
「やまもっさんにも、朝に電話しとくさかい。・・・・別の用事ということでなっ。」
「・・なにからなにまで・・ありがとうございます。」
「では・・失礼します。」
　と佳乃は、監視カメラつきの部屋へ再び戻されてしまった。

　６０１号室へ戻り、友之への電話を終えると緊張の糸が切れ涙がこぼれる。

「・・どうして・・あんなことに・・グッスン。」
「私が・・本当に・・やったんだろうか・・あんな事。・・・覚えが・・まったくないのに。」
　と顔を押さえ涙を拭う。

　緊張し喉が渇き、お湯の入れられたポットから紅茶をいれ気をほぐす。
　ティーパックを取り出し、砂糖もミルクも入れず口をつける。

「・・・おいしい・・・・わすれよっ・・今日のことは。」
　と自分に言い聞かせると、急な眠気に襲われ目の前が暗くなりティーカップを落とす。

「ガチャンッ」
　割れはしなかったが入れたばかりの紅茶が絨毯にこぼれる。
　ベットに横たわった佳乃は、一日着た服も着替えず眠りについた。

　佳乃が強制的な眠りについて二分ほどした後、６０１の扉が静かに開く。
　腕時計のストップウォッチを起動させなにやらつぶやく男が佳乃に近寄った。

　佳乃の、つむった目を強制的に開きライトをあてる。
「よしこれで三時間は起きないだろう・・・キキキッ。」
「さあ始めるかっ。どれどれっと、やっぱりいい女だ。・・おれが旦那なら毎晩嵌め嵌め三昧だな。」
　男は眠っている佳乃を抱き上げ布団の上にポンッと投げすてる。

　佳乃が横たわる同じベッドの上にのぼり男が持って入った医療用バックを開く。
「意外と簡単に事が運びすぎてる。こんな時ほど用心、用心。」
　と取り出した茶色い瓶の口にガーゼをあて液体を染み込ませる。
　そしてそのガーゼを佳乃の口元に運び、当てた時間をはかりビニール袋へ捨てた。

「昨日はありがとう佳乃。気持ちよかったよ。」
「もう少しフェラチオ上手くなるように努力しようねぇ。」
　と昨日の出来事を眠っている佳乃に語りかける。

　男が佳乃を座らせ背後から纏わりつきうなじ辺りを丹念にアルコール消毒している。
　カバンからピストル型の注射器を取り出しなにやらとがったカプセルのようなものをＳＥＴする。

「プスリッ」
　一本目の針をうなじの右側に打ち込む。そしてカートリッジを取替え、
「プスリッ」
　二本目は左側のうなじへと差込み、皮膚を揉みこみ打ち込んだ物を確認する。
「よし、いい感じだっ。」
　ピストル型の注射器をカバンへしまいこむと続いて、バーコードリーダーを取り出す。
　右側の首筋にリーダーを当て、なにやらボタンを押す。
「ピーピッピ」電子音と共になにやら表示された初期設定を男が行っている。

「これで完了っと。・・・ピピッ」
　設定が終わったのか送信ボタンを押しバーコードリーダーをカバンにしまう。

　携帯を取り出し着信履歴からある番号にコールする。
「・・プルプル・・あ、横山です。・・・送信しましたが・・ＯＫですねっ。」
「はいっ。わかりました。・・片付けたら戻ります。・・・・・えっいいんですか。」
「ありがとう。・・・では遠慮なく。・・キキッキ。」

　自殺したはずの横山に備品管理用タグを埋め込まれ備品への準備が着々と遂行されていく。