６．

　そこには壁全体を薄い青のタイルが覆い、左側には小さな曇りガラスの窓がひとつと反対側にはベージュ色の重々しい鉄の扉だけがある、十四・五畳以上はあろうかという人の気配もない、なんとも殺風景な部屋が映っていました。
　そして画面中央の奥には、丁度部屋を二分するように、ベージュの布のカーテンで仕切られ、そのカーテンの向こう側にはいったい何があるのか分からない様になっており、今映っている手前の部屋とカーテンの奥も入れると、いったいどの位の広さになるか分からない、何とも味気ない印象の部屋でした。
　ビデオカメラは三脚か何かの上に置いてあるようで、揺れなどもなく、またカメラの周りにも人がいない為か、ズームやアングルなども変わる事なく、ただ画面はそのカーテンを真正面にして、部屋の様子が淡々と映っており、更に画面右上の日付は、二週間前に個展の為、母が朝早くから先生と一緒に二週間程出張に地方に行った日でした。
　部屋の中は昼間なのか、天井の蛍光灯はすべて消され、薄暗くなっている部屋の明かりは、一つしかない曇りガラスの窓からの日射しのみで、その光が部屋唯一の光源となり、うっすらと部屋全体を照らしているようでした。
　部屋の中は不自然な程人間味を感じさせるものはなく、片隅には無機質なステンレスの流し台と戸棚が、薄暗い部屋の中で鈍く反射し、それらが部屋全体を一層と寒々と人工的な印象を与えていました。

　僕はその時、小学生の時に見た午後の給食室を思い出しました。まだ昼間ながら職員達が仕事を終え、電気が消され誰もいなくなった給食室は、ゴミひとつなく整然と整理にされ、かすかに塩素の消毒液の匂いがし、調理に関する物以外、人間らしいものは一切感じられない。そんな中、窓から注ぎ込む午後の西日の日差しが、疲れきったかの様に休んでいるステンレスの流し台や棚、調理器具らを照らし、物音一つしない静寂の中でそれらが静かに光を放っている。
　そんな午後の給食室の様な部屋は、いったいここがどこで何を行う部屋なのか分からず、その事が一層部屋の不気味さを強調していました。

　するとにわかにカーテンの奥の方から何やら人の足音や声、台車で何か運んでいるよう音で騒々しくなってきました。
　まもなくして部屋の電気がパッとつき、部屋全体が明るくなり、部屋を二分していたカーテンが開きました。
　そしてそこが病院である事が高校生だった自分にもすぐに理解できました。
　カーテンの奥は、手前の部屋の更に倍はあるかと思う広さで、その部屋の中心をまるで何かを覆い隠すかの様に、病院特有の可動式で薄いベージュの布張りの仕切りが置かれ、丁度その上の天井からには手術室特有の丸く大きなライトがあり、その仕切りの中をおそらく年齢はまだ二十代前半ぐらいの若い看護婦達が掻き立てられる様に忙しく出入りしている。そして仕切りの中からは、何やら語彙を強め早口で話す女性達の声と、物音が複雑に入り混じり、明らかに何か切迫している事が分かりました。

　そのうちに僕は、誰かが病院で亡くなったのか、もしくは日付からみて母と先生が個展の為、地方に行った時に事故か急病で病院に運ばれたのかとか、色々と考えてみましたが、しかしながら病気や怪我、ましてや人が亡くなった時などに、常識的に考えてもそのような時にビデオで撮る事も、意味もなく、また母と先生も昨日の食事会で会っているので、すぐにそのような事は有り得ない事に気づきました。そしていったい誰が何の為に、病院の中をビデオに収めたのかと考えている内に、なにやら薄気味悪さと、また退屈感も生じてきて、もう見るのをやめようかと思い始めた時、画面右側にある鉄の重々しい扉が少し開いたかと思うと、少し慌てた感じでカーキ色のズボンと赤いジャケットを着た先生が現れ、すぐに画面のこちらに向かって小走りで走り出し、すぐに画面の外へと消えていきました。
　そしてこのビデオテープを映したのは先生だと分かると、何故か少しホッとした気分になりました。
　そして先生と一緒に行ったはずの母の事が、気にかかりながらも、特にストーリーも変化もない映像に僕は既に興味も薄れ、更に喉の乾きも感じていたので、冷蔵庫に行き、缶のサイダーを見つけそのまま半分ぐらい迄飲みほしました。
　よく冷えた炭酸の効いたサイダーで喉が潤され一息ついている時に、すぐ側にある木製の立派な食器棚の端に、かわいらしい花柄の、乳幼児向けと思われるプラスチックのプレート皿と小皿、その上にコップが重ねて置いてあるのが目に止まりました。まだ使ってないのか値札のシールがついたままで、あまりにも意外なのでよく見てみると、一瞬見逃してしまいそうでしたが、その奥に隠れる様にして、まだビニールに包まれたままの哺乳瓶が置いてありました。
　なぜ哺乳瓶や乳幼児向けの食器がこの家にあるのかと不思議に思った瞬間、頭の中で何か引っかかっていたものが溶け出していく様な気がしました。
　そしてそれと殆ど反射的に、以前学校のテスト休みの時に何気なく見た、午後の主婦向けのテレビ番組を思い出しました。ビデオカメラの普及により病院の産婦人科で、出産を控え分娩台の上にいる奥さんから、我が子が産まれて来るのを旦那さんがビデオに収めるが、流行っているといった内容のものでした。もちろん肝心な所は映っていませんでしたが、その時初めて見た分娩台が強く印象に残っていました。
　そして自分の記憶の中に一度は忘れかけていた「妊娠」という二文字が再び目の前に浮かんできました。そして午後のテレビ番組で見た内容と「妊娠」という言葉によって「母」と「病院」という二つの言葉が、しっかりと繋がり、そしてまるでそれらを結び付けるかのように、次第に今まで考えもしないような一つの言葉が浮かんできました。
「まさか今見たのが、母の出産ビデオ・・・？」
　しかしそれは、高校生だった僕にはあまりにも考えられない事で、にわかには信じられませんでした。ましてや考えれば考える程、母が妊娠し出産するなんて有り得ない事でした。
　それだったら少なくともここ１ヶ月の母は、お腹などは決して大きくはなかったし、特に変わった事などありませんでした。
　その時ハッと自分自身の体に、何かが突き抜けていくような感覚に襲われました。
　ここ最近はお互いに仕事や学校で忙しく、ろくに顔を合わせていなかった事に気付きました。たまに母が家にいても、話したり声をかけられたりするものの、いざ会おうとすると着替えているからとか言われたり、またお風呂やシャワーを浴びていたりと、まるで避けるかの様でした。それと割とピッタリとした服を好んで着る事の多かった母が、太ってきたからと言って妙にゆったりとしたワンピースを着る様になったりと、思い返して見ると母にしては不自然と思える行動が確かにありました。
　そんな中、徐々に自分の心の中では、母は本当に妊娠していて、もう出産をしたのではないかと少しずつ思えてきました。それと同時に、もしそのような事になれば大変な事になるという感覚が次第に大きくなり、自分の体の中が徐々に熱くなっていくのが分かりました。
　僕はすぐにテレビの方を振り返りました、先程と変わらずテレビの画面には、例の仕切りが置かれ、その中を若い看護婦達が出入りしていました。
　ホッと胸をなで下ろし、時計を見るとわずか数分しか経っていない事に驚きました。
　冷静に考えてみてもグアムのビデオといい、画面の日付といい、母が関係していないとはとても思えませんでした。
　この時ビデオテープを早送りをすればいい事に気付きましたが、しかし僕自身そこまでの度胸がなく、もしと思うと、どうしても体が動きませんでした。
　やがて僕はとんでもない勘違いをしていたのではないかと、目が覚める様に気付いた気がしました。
　母が友人との間で苦しそうに思い詰めた様に話をしていた時や二回目の食事会の後、黒のハイレグショーツのみを身に着けた母のお腹をさすりながら、先生が言った言葉など、あれらの会話は母の妊娠の指した事ではないかと思え始めました。
　そして日付を遡って考えると、母が妊娠したとするなら僕が初めて見た母が父以外の男性とのセックスである、あの先生との交わりの頃で、そして母の体は丁度９ヶ月に入ったところだと改めて確信しました。
　そしてその時の先生との濃密で激しい交わりの後、恋人である先生の精を受け止め、恍惚な表情を浮かべながら、余韻に浸っている母を抱き寄せて、先生が言った「子供を産んでくれ」と言葉に、静かにうなずいている母の事を思い出しました。
　何か遠のく様な感覚共に、体中が震えるような感覚を抑えながらも、母の行動や母自身も気付いていない偶然見た出来事を継ぎ足していくと、もう既に母は、父以外の他の男性の子を宿しそして出産していると確信しせざる得ませんでした。
　世間では不倫と言われる母と先生の関係は、お互いを必要とし、求め会い、愛し激しく交わり、女としてヤラしくも美しく変わっていく母の姿を通して、家庭を大事にしつつも、夫婦関係とは別に先生と信頼関係を築いている、僕自身少しずつ素敵な関係と思い始めていました。
　しかしそのような深い関係だと、当然そうなってもおかしくないのかも知れません。先生と夫婦以上に心とそして性が結びつき、更に妊娠しやすい大人のオンナのヤラしく成熟した母の体に、男の精を受け入れたら・・・。例え夫である父以外の男性でも出来るのは火を見るよりも明らかです。
　僕の体からは既に汗が滲み、はっきりと鼓動が高鳴っているのが分かりました。
　画面を見ると一人の若い看護婦が仕切りの中から出て来て、その若い看護婦は画面の方に向かって軽く会釈しました。直感的に何かが動きがある事を感じました。そしてその若い看護婦はいつもそうしている様に仕切りを窓際の方へと移動しました。
　次の瞬間、僕にとって一生忘れられない光景が飛び込んできました。
　そこに映っていたのは何台かのキャスターと心電図か何かのモニター、そして２人のまだあどけなさが残る二十代前半の若い看護婦と二十代半ばぐらいの看護婦と白衣を着たに初老の男性の医師が、取り囲み、取り囲んでいる中心には、明らかにあのテレビで見た分娩台の上には、患者が手術する時に着用するグレーの浴衣の様な服で、長さは、ももの上ぐらい迄ありました。服ごしからでも腹部は、心なしか少し膨らんで見えました。
　下半身は何も身に着けていないのか、太ももが程よく張り肉のついた官能的な両脚は大きく広げさせられるように足首で黒の足置にベルトでしっかりと固定され、そして陰部には白の無地のバスタオルか掛けられている。
　もう僕はここが産婦人科である事と、その分娩台にいる女性こそ母とか思えませんでした。僕の中ではめまいにも似た感覚が絶えず襲いかかり、丁度その女性の顔の前あたりに立ちはだかっていた二十代半ばのリーダー的な看護婦が離れた瞬間、横顔でしたが、疲れ果て様に寝ている栗色のソバージュと赤いルージュをした、まぎれもない母でした。

　僕はもう頭の中が真っ白になりました。何か暫くの間、時が止まった様な錯覚に陥りました。

　誰しもに自分の母親や妻のような、純潔であるべき存在の女性が、家族の知らぬ間に他の男性に出会い、それまでここの片隅に忘れかけた恋という感情が芽生え始め、ついには情熱的な交わりをし、やがて妊娠し、そして出産を迎える。そんな状態になったらどうなるでしょう。裏切りと捉え、はたして怒りや憎しみだけしか涌いてこないでしょうか？
　逆に女性もそうですが、そのような状態に陥ってしまったらどう感じるでしょうか？幸せな家庭と夫と子供がいるのに、禁断の恋に落ち、激しく交わり、その人の子を妊娠し、いよいよ夫も子供も知らない所で出産を迎える。
　誰しも心のどこかに何らかの興奮があると思います