十二時を回っていた。寝苦くて、軽くシャワーを浴び、恭子は裸身に浴衣を羽織っただけの姿で寝室の鏡台の前で、けだるそうに髪をといていた。ネグリジェやパジャマは、どうにも窮屈で、あまり好きにはなれなかった。だから一人で夜を過ごす時は、恭子はいつも浴衣の寝巻を愛用している。
　冷房の冷気が外に逃げださないように、窓際のガラス戸は全て閉め切ってカーテンを引いてあった。部屋の内部は赤いバラをあしらったカーテンに囲まれて、薄いスタンドの光の中でも、恭子の心とはうらはらにひどく華やかで陽気に見えた。深夜だというのに、カーテン越しに、それでも時々自動車のクラクションの音が聞こえてくる。あとはブラシの間を通る恭子の髪の毛の擦れる音と、微かに響くクーラーの無愛想な機械音だけである。
　鏡の中の自分の顔が、半分泣いていた。目の縁に、うっすりと黯いシミのような隈が浮かんでいる。子供の頃から人に褒められ、自分でも秘かに誇りに思っていた大きくて明るかった瞳が、鏡の中では驚くほど輝きを失っていた。そんな自分と、深夜、こうしてただ一人で対面するのがひどく惨めであった。
　恭子はたまらなくなって、鏡の中の自分にそっと微笑みかけた。すると、シャワーの温もりで僅かに上気した頬が美しく崩れて、ツンと少し上を向いた気品に満ちた鼻梁と、僅かに開いた形のいい唇が、鏡の中で、恭子の微笑みに切なげに応えてくれた。

　……はじめての子供を失ってから、恭子の人生は変わった。
　忘れもしない、あれは、五月初旬の晴れた日の朝であった。
　男の子を産んで、夫や、夫の母親の前で、産院の門を背景にビデオカメラに向かって、両腕の中の我が子に頬ずりしていた時が、思えば、恭子の人生のもっとも輝いた、もっとも幸せな瞬間であったかもしれない。
　事故は、夫の運転する車が国道から府道に入る交差点で起こった。赤信号の横断舗道を小さな犬がよちよちと横切った。すぐ前を走っていた単車がスリップして横転し、ヘルメットの若者が道路に投げだされた。とっさに急ブレーキを踏んだ夫の車の後部座席で、嬰児を抱いていた義母が赤子もろとも前に投げだされ激しく何かにぶつかった。産院へ引きかえしたとき、嬰児はすでに口から血を吐いて死んでいた。
　なにもかもがおかしくなった。放心から覚めないまま、恭子は人と顔を合わせることも喋ることも億劫になって、自宅に閉じこもったきりになっていた。身体は完全に変調をきたして、常に軽い頭痛に悩まされ、食欲はなく、体調が整わず、生理が狂い、ただただ、痩せていくばかりで、夫を受け入れる気になどとてもならなかった。三ヶ月後、義母が同じ交差点で事故にあって、孫を追うように死亡した。恭子同様、ノイローゼ気味で、ふらふらと車道に飛びだしたところを車にはねられたのだった。孫を死なせた責任感からの自殺かもしれなかった。
　そのころから夫が変によそよそしくなった。外に女ができたらしいのは分かっていたが、みな、別の世界の出来事のような気がして、夫を責めるつもりも、嫉妬する心さえなかった。急に金まわりがよくなった夫が、何か悪いことに手を出したのではないかと訝ったこともあったが、聞き正してみる気力さえ失っていた。

　髪をすく手を休めて、けだるそうに自分を見つめている鏡の中の恭子の背後を、不意にすっと何か白っぽいものが横切っていった。
　ぎょっとして、ブラシを止めた。暫く鏡の内部を凝視していた。その恭子の表情が、さっと凍った。向こうの部屋で、確かにものの動く気配を感じたからである。全身の血液が逆流した。
　とっさに浴衣の胸をあわせて、ブラシを鏡台の上に戻した。背後を振り返る勇気はなく、恭子は鏡の中を見つめていた。微かにクーラーの機械音が響いてくる。窓の外を、遠いクラクションが、また二度程連続して鳴った。鏡の中のバラのカーテンは微動もしない。冷気が微かに素足のあたりを這っていくのが感じられる。ものの動く気配はピタリと止まった。自分の心臓の鼓動音だけがはっきりと聞こえた。
　夫がいつ帰ってもいいように、玄関のドアチェーンは落とさないことにしていた。だから今日もチェーンは落としていなかったが、ドアの鍵は内部から確実に施錠している。寝る前と、シャワーを浴びたあと、恭子はそれを確認している。だから鍵を持っている夫以外は、絶対に恭子の部屋の内部に侵入するのは不可能であった。恭子はそれを思い出し、少し安心し、勇を鼓して背後を振り向いた。
　動くものはなかった。暫くそのままの姿勢で恭子は自分の呼吸音を聞いていた。ようやく生気を取り戻し、もう一度鏡の内部の自分を見た。鏡を見ながら、浴衣の腰紐をしっかりと結ぶと、スツールから立ちまず玄関の施錠をもう一度確認した。異常はなかった。次に意味もなく浴室を覗いた。異常はなかった。それからキッチンに寄り、喉が渇いているわけでもないのに生温い水道の水を飲み、寝室に戻った。しっかりと襖を閉め、再び鏡の前に坐り、鏡の中の蒼白な自分の顔と対面した。
　それでも心臓の動悸は収まらなかった。心臓が胸をうっていく鼓動の振幅の深さと大きさが、恭子をいたたまれない不安でうち砕いた。
　何かが起こる。とんでもない何かが起こるに違いない。鏡の中の恭子の顔は何かを待っていた。恐怖の瞬間を待つ顔であった。
　ふと気がつくと、鏡の中にもう一つの顔があった。見知らぬ男の顔であった。「あっ」と呻いた。血の凍るような戦慄が背骨を走りぞくりと全身が震えた。美しい恭子の顔が鏡の中で恐怖に歪んだ。とっさに声を出そうとする恭子の口許を背後から男の両手が塞いだ。
　次の瞬間、恭子は塞がれた唇の間から声にならない声を発して必死に身体を捻った。同時に男の指を激しく噛んだ。同じ瞬間、男の太い右腕が恭子の細い項に巻つき、信じられないような強い力で捩じあげていった。息の根が止まった。
「静かにしてんか」
　関西弁で言った。男の声は落ち着いていた。
「ご近所がびっくりしまっせ、いまどき、大声を張りあげたら……」
「だ、だれ！」
　気力を振り絞って、鏡の中の男に言った。恐怖とショックで気を失いそうであった。
「命まで取ろうと言うわけやあらへん。それに押し込み強盗でも痴漢でもない」
　力は緩めていたが、ごつごつした男の右腕は、恭子の首の周囲にしっかりと巻つけられたままであった。
「しかし、あまり大声をだされると、ほれ、こうして締めあげます」
　男が腕にちょっと力を加えた。恐ろしい腕力であった。
「どう？　静かにしてくれますな」
　いいながら男は腕を離した。恭子は息を整え、はだけた浴衣の胸を合わせた。
「だ、だれっ？」
　鏡の中の男はにっと笑った。どこかで見たような顔である。三十年輩のこざっぱりとした、思いのほか穏やかな表情をしていた。凶暴さは感じられなかった。
　最初の息の詰まるような恐怖感は去っていたが、全身がガクガクと震えていた。
「私が誰か、だいたいの見当は付いてるんでしょう？」
「…………」
「ご主人から何も聞いていないとは言わせまへん。どうですか、奥さん」
「…………」
「いくらあがいても、ご主人は今夜は帰ってきまへん。そういう約束で、ほれ、このマンションの鍵をあずかってきたんです。こっそり入って失礼しましたが、奥さん、ちょうどシャワーを使っている最中だったもんで……」
　男はポケットから一枚の鍵を取りだした。夫が持っている筈の見覚えのある鍵であった。
「ご主人とは、ちゃんと話はついています。……ですからこの鍵を預かった。で、あとは奥さん次第。奥さんさえその気になってくだされば、万事めでたしめでたしや。……ご承知のように事件の当事者はうまい具合に自殺してくれたし、私は何も知らない、本当に何も知らない……ことにしておく。それだけの話です。ですからご主人のやったことは、なにもかも永遠に闇の中です」
　男はニッと笑った。
「それとこれがご主人の念書。中身は、私が、今夜、奥さんを煮て食おうと焼いて食おうと、一切、異議ございませんという内容ですわ。ご主人、自分からすすんで書きはったのやから、これはもうどうしようもない。なんなら読んでみますか。……まあ、そう怖い顔せんと、ご主人の筆跡かそうでないかぐらいは確認したらどうでしゃろ」
　男は白い封筒に、ふっと息を吹きかけ、小さい紙切れを取り出した。几帳面な文字が並んでいた。一目で夫の筆跡と分かった。
「……というわけで、あとは奥さん次第です」
　言葉もなかった。夫が言っていたのはこのことだと思った。
「……奥さんは知らないだろうが、私は奥さんをよく知っている。ずっと前から奥さんに憧れていました。はじめて会った時から一目惚れちゅうやつですな。どうにもあなたのことが忘れられなかった」
「失礼な……」
　恭子は鏡の中の男を睨んだ。
「出ていってください！」
　しかし、男は恭子を無視して言葉をついだ。
「最初のうちは人妻ということが分かっていたから、どうにもならんと諦めてはいましたがね。しかし抱きたかったなあなたを……。いっぺん、あなたをこの腕の中に抱けたら、死んでもエエとほんとに考えた。どんな女とやっていても、考えるのはあなたのことばかりや」
「…………」
「……あなたのことを思いながら一人でマスタベーションをするほうがずっとよかった！　奥さんがイクとき、どんなで表情をで泣くんやろと想像して、いつも違う女の中に発射しとりましたんや」
　卑猥にな言葉を重ねて男は照れ笑いをした。
「だが、神さんも仏さんも、こんな私を見捨てなかった。ご主人があんなことをしてくれたおかげで、ひょっとしたら積年の夢が叶えられるかもしれない！　そう思うと、もうあとは夢中でしたわ」
「出ていって！」
　恐怖感は去っていたが、そのかわり、全身がぞっとするような嫌悪感で鳥肌立った。
「出ていって下さい！」
　絞り出すような声で、同じことをもう一度言った。
「まあ、そう冷たいこと言わんと……。私の話も聞いてください」
「聞きたくないわ。私には関係ありません」
「ご主人の手が後ろに回っても関係がないのですか」
「出ていって、早く！　でないと、大声をだすわよ」
　冷静さが戻ってきた。
「そうはいきません。私にとってせっかく手にした奥さんを抱けるかもしれない千載一隅のチャンスです。……もっとも、奥さんがどうしてもイヤだとおっしゃるなら、私はすごすごと帰りますがね。大好きな奥さんを無理ヤリに犯すなんて、フエミニストの私にはとてもできっこない。奥さんを抱くことは諦めますが、そのかわり、出るところへ出て、私の知っていることは、すべて明らかにします」
　男の魂胆が読めてくると不快感で身震いした。鏡の中の男に向かって唾を吐きかけてやりたかった。
「卑怯者！」
　思わず叫んでいた。