「卑怯だわ！」
「どうしてどうして！　卑怯なのはあんたのご主人ですがな。株で三千万もの会社の金をすっておきながら、責任の全てを死者に押しつける。これが卑怯やのうて何が卑怯ですねン。恐れながらと、このわしが警察へ訴えたら、ご主人、ひょっとしたら殺人罪で死刑になるもしれまへんぜ」
「あ、あの人が……、佐竹さんが自殺したのは、汚職が露見しそうになったから……と、聞いています」
　鏡を睨みつけた。
「……と、まあ、警察や世間は見てるようですけどな。だから、会社の帳面から三千万円がなくなっているのも、佐竹という男のせいということになっている。まさかあなたのご主人がちょろまかしていたとは誰も思ってはいない。しかしですな。わたしが知っていることをちょっとでも洩らしたら、佐竹氏の自殺だって自殺じゃなくなるかも知れない。あなたのご主人が自分の犯行を隠すために佐竹氏を殺したんだ……という筋書の方が、ずっと自然で説得力がありますからね」
「やめてください！」
「奥さんさえ、暫く目ェ、つむっていてくれれば、すべてはめでたしめでたしなんですがね」
「馬鹿にしないで！。……そんなこと、私の知ったことですか！」
「冷たい人や。ご主人が殺人罪で絞首刑になってもいいんですかね」
「勝手よ、勝手だわ、あの人の……」
「ほんとですか？　ほんとにそう思ってもいいんですね」
「……お金は全額弁済します。両親に話して実家の土地を売れば何とかなります」
「何か勘違いしてませんか奥さん。殺人ですよ、殺人。……ご主人は、死刑になるんですよ。金を返して済むというもんじゃない。なにしろ、人殺しなんだから……」
「嘘！　あの人に限って殺人なんてできっこない！」
「だって、現実に、人一人が死んでいる。そしてご主人は三千万もの金を横領した。やっていてもいなくても、これは殺人事件ですわ。警察は必ずそう見る。私もそう話をもっていく」
「…………」
「ご主人は私にすがりついた。泣いて頼んだ。どうか見逃してくださいとね。死んだ人間には気の毒だが、私だって、まあ、それで八方丸くおさまるんだったら、ことさら事を荒だてたくなんかない。……私にこの鍵を預けたご主人の気持ちは、奥さんも、少し位、分かってあげたらどうなんです。ご主人にとって、この際、頼りになるのは、奥さん、あなただけじゃないですか」
　……だれがあんな夫のために！
　おお、顔を思い出すのもいや！
「どうです。ご主人を助けてあげる気になりませんか」
「…………」
　恭子は頑なに唇を噛んでいた。
「さよか。やっぱりあきまへんか。奥さんなら、ご主人を助けてあげてくれると思っていましたけどな。……やっぱりあかんのですな。冷たい人や。ほな、これまでですな」
　男は、ポケットから鍵を取りだして、ポンと鏡台の上に投げ出した。
「明日の新聞が楽しみですワ。ご主人は明日からブタ箱入りや。死刑になるまで出られない。奥さんだって殺人者の妻ということで新聞でごちゃごちゃさわがれることになりまっせ」
　鏡の中で恭子と男の目が合った。　
「交渉は決裂や。……ほな、さいならですな」
　ひどくあっさりと男が背を見せた。
　恭子は唇を噛んだ。
　玄関で男が靴を履いている。
「……まって」
　恭子は少し胸を反らせて鏡に向かって言った。
「……分かったわ」
　どうせ、別れることになる夫である。恭子は覚悟した。今、自分が自分を殺してしまうことによって、卑劣で卑怯なあの夫が横領の罪から免れることができるなら、自分は自分を殺してやってもいいと恭子は思った。唾を吐きかけてやりたいぐらい軽蔑している夫ではあったが、夫婦としてともかく三年も一緒に過ごし、子供までなした相手であった。今から思うと切ないほどばからしいが、一時は、恭子の人生にバラ色の夢を抱かせてくれた時期も確かにあった。別れてやることの代償に、今夜、自分は自分を殺して夫を救ってやろうと思った。夫への最後の餞にこの身を投げ出す。おぞましい噂や警察や世間との煩わしいかかわり合いから免れ得るなら、忌々しいが、この男の要求に屈してもいい。ほんの少しの間、目を瞑っていればいいのだから……。
「でも、証拠が欲しいわ。……主人を見逃してくれるって」
「さすがや！　……それでこそ私が憧れていた奥さんです。やっぱりあんたは優しい人や」
　男は白い歯を見せて笑った。
「……このバッグの中にご主人の手帳が入っています。どれだけの株の売買があったかの記録です。もうひとつの書類、これは、私の会社の明細書です。手帳の明細と私の会社の取引の日時や扱高がぴたりと一致する。手帳でも明細書でも、金額は最終的にはちょうど三千万円の欠損になっています。ご主人が私の証券会社で三千万すったというのは、このご主人の手帳で明らかです。この手帳と私の会社の明細書を警察にもっていって、恐れながらと私が告発したら、あなたの亭主はいちころです。その両方を奥さんにお返します。……私の会社の明細書からだけでは、そしてこの手帳さえなかったら、この三千万円の取引の実行者がどこの誰だったかを特定するのはなかなか難しい、いや不可能です。担当者の私が黙っている限り、まず分からんでしょうな。こいつを、今奥さんの見ている前で、燃やしてしまいます」
　恭子は鏡の中の男を睨んだ。
　思い出した。そう言えば、男はＷ証券の社員だった。二度程、会ったことがある。このマンションへきて、夫と男はなにやらひそひそと話合っていたのを記憶している。
「卑劣なひと！」
「……でっしゃろな。いわれんかて分かっています」
「いい気なもの……だわ」
　ポツンと投げやりに言った。言い終わって、全身から力が抜けていくのを感じた。
「しかし、おかげで、やっとその気になってくれたやおまへんか」
「おお、いや！」
「なにも減るもんやあらへんし。……黙って暫くの間、目をつむってくれたら済むことですがな」
「汚らわしい。……男ってみんな獣以下」
「なんとでもおっしゃって下さい。なにしろ、こちとらは積年の思いが叶って、あなたを抱けるんだ。罵られても、軽蔑されても一向に平気です」
　恭子は覚悟した。浴衣の襟を直して鏡台の前のスツールにゆっくりと座り、鏡の中の男を顧みた。
「……冷蔵庫にビールが入っているわ。グラスは食器棚の中。……分かって？　あなたが用意するのよ」
　捨て鉢にいった。
「も、もちろんですとも」　　　　　　　　　　
　キッチンから戻ってくると男は、いそいそと恭子にビールをついだ。
「……ご主人からあなたのことはいろいろ聞いています。はじめての子供さんが死んだときのいきさつも、その後のご主人との関係も。……しかしご主人もご主人でんな。話を聞いている間に義憤さえ感じましたわ。こんな奇麗な奥さんをないがいろにして、よそで女を作って勝手なことをしている。奥さんもお気の毒な人や。ご主人が外で他の女と付き合っていても、平気なんですか」
「あんな人のことなんか……。私たちはずっと他人のままよ。……でも、こんな話、あなたには関係ないことだったわね」
　男がビールを飲み干して、テーブルの上の恭子の左手に無骨な手を添えた。恭子は逆らわず、無言のまま、空いた手でグラスをとった。
　男はそのまま恭子を引き寄せて抱き、両頬を挟んで唇を引き寄せた。
「やめて！」
　しかし、構わず男は恭子の唇を奪おうとした。
　プーンとニンニクの匂いがした。
　おおいや！
　思わず伸ばした両手で男の胸を押え、身体をよじって邪険に顔を背けた。とても男に唇など許す気にはなれなかった。
「約束が違うじゃないですか、奥さん」
　恭子は息をついた。
「分かってるわよ。いまさら逃げも隠れもしないわ。……でも、いやよ、こんなの」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
　一気に恭子はビールを飲んだ。
「そうね、強いお酒でも飲んじゃおうか……。戸棚にブランデーかウイスキー、あったと思うんだ」
　挑戦するように空になったグラスを差し出した。男は素直にビールをついだ。恭子はひどくせかせかと二杯目を飲み干すと、
「唇はいやよ！」
　邪険に言い、ビールで濡れた唇を拭いながら、
「胸にも触れないで！」
　浴衣の胸元を合わせた。
「これはこれは……。えらい注文の多いこっちゃ」
「それから電気は消して。あなたの顔、みるのもイヤ……！」
　男は笑った。
「あれも、嵌めてほしいの」
「あれって？」
「決まってるじゃないの」
「ゴム製品？」
「…………」
「せっかく憧れの人とできるのです。おっしゃるとおりにしたいんだがそうはいきまへん。いやでもキスはさせてもらいます。オッパイにもさわります。奥さんのなにもかも見ながらやりたいんです。ですから電気は消しません。ゴム製品も持ち合わせはない。直に入れます。ですから奥さん、いっそ思いっきり酔っ払ったら？　酒を飲むなとまでははいいませんから……」
　男は食器棚からオールドパーを見つけて取り出してきた。
「いかがですか。ぐっと一息、気持ちが楽になりまっせ」
　琥珀色の液体をなみなみとウイスキーグラスに満たした。恭子は男を睨みながら毒をあおるように一気にグラスの液体を飲み干した。
「おやおや、やけくそでっか。それじゃガブ飲みってやつだ。女性にはちょっときつかありませんかな、ストレートでっせ、それ。……大丈夫？」
「大丈夫なもんですか。……脅迫されても大人しくしてるしかないんですもの。ああ、悔しい！　自分をごまかすの、こうでもするしかしかないじゃない」
「いやいや、たいした度胸だ。惚れ直しましたわ、その覚悟」
　甘酒を含んだだけで酔ってしまうほど恭子はアルコール類に弱かった。二杯のビールですでに酔いが回っている。その上に強いアルコールを一息にあおったのだ。
「あなたに気に入っていただきたくって飲むんじゃないわよ。何をつまらないことに感心しるんでしょうこの人。そんなところにボケッとつっ立っていないで、空でしょ、これ。ついで頂戴な、もういっぱい。……たく、やになっちゃうな」
　二度めのグラスを一気に空にしたとき、不意にぐらりと部屋全体が揺れた。思わず左手をテーブルにもっていって体を支え、辛うじてグラスをテーブルに戻した。地球が急速に回転しだした。男の顔が揺れている。信じられぬほどの熱くて苦いものが胃の腑と胸の内側を激しく焦がしていく。瞬間、緊張の糸がぷっつりと切れ、恭子は男の腕の中にだらりと倒れていった。