〜最終章〜

３.

　千恵美は足早に帰宅した。
《いつも無理をしすぎるんだから・・・幸人さん大丈夫かしら？》
　夫の事が気がかりで買い物もままならず急いで自宅に戻った。

　ガレージに目を向けると夫の車があった。
《よかった、とりあえずお家には着いてたのね・・・。》
　千恵美は急いで玄関を開け、夫の名前を呼ぼうとした瞬間・・・。
　玄関の踊り場に見知らぬ女物のヒールがあることに気付いた。
　玄関を開けた際にとっさに気付くのはまさに女の感というべきか、なんごとなしに漂ういやな感じを咄嗟に感じ取り、夫の名前を呼ぶのを呼ぶのをためらった千恵美だった。

　千恵美は寒気を覚えた・・・。
　心の中で色んな妄想が勝手に浮かび上がってくる・・・。
　夫に限ってそんなはずはない！そう思いつつもここ最近の夫の行動や、今しがたかかってきた専務からの電話・・・。
　玄関先にある女物のハイヒール・・・、千恵美は自分で心のコントロールが出来ないまま、息を殺して歩いていた。
　玄関を通り、廊下を抜け、リビングに近づき、リビングの窓越しにソファーを見ると、飲みかけのグラスが二つ無造作においてある。
　確かに誰かがこの家の中にいることを確信した千恵美は、息を殺しながら寝室に近づいた・・・。
　複雑な心境で寝室の扉の前にたどり着き、聞き耳を立ててドアの前に立った。
「・・・・・」
「・・・・い・・ぞ・・」
　幸人の野太い声が途切れ途切れに聞こえる。
　千恵美はさらにしゃがんだ格好でドアに直接耳を付けた。
　かすかに嗚咽のような女の声が聞こえた。
　千恵美は愕然としその場にへたり込んだ、間違いなく夫の浮気現場に踏み込んでしまった事や、あれほど家族を大事にしていた幸人に裏切られた事が、千恵美には容易に受け入れられなかった・・・。
　４〜５分呆けたようにその場にへたり込んだ千恵美の耳に信じられない言葉が飛び込んできた！

　・・・・「きみこ」・・・・

　女の喘ぎ声は途切れ途切れで良く聞き取れなかったのだが、幸人が時折つぶやく声は良く聞き取れた。

　・・・・「きみこ」・・・・

　夫の口から思わぬ名前を聞き取ったとき、千恵美はハッと思い返した・・。
《玄関先にあったヒール・・・初めて貴美子に会ったときに履いてたヒールに似ている・・・。》
《赤のリボンがついた可愛いヒール・・・そう・・・確かにあの時貴美子が履いてたヒールだわ・・・》

　千恵美はまだショックではっきりしない身体を起こし、よろよろと家を後にした。

　娘のお迎えにはまだ時間があるので駅前の喫茶店の一番奥のテーブルにようやく腰を沈め、頭の中を整理しようとしていた・・・。

　夫・幸人の間違いない浮気、しかもその相手が自分の全てを知る貴美子である事。
　その事に純一がどうかかわっているのか、これから千恵美は夫にどう接すればいいのか・・etc・・・。

　考えがまとまらないまま娘・綾香の帰宅の時間が来た。

　思い足取りで幼稚園にお迎えに行き娘と一緒に買い物をし・・。
　綾香は珍しい千恵美との夕飯の買い物に大ハシャギをし、いつもはお迎えの前に支度まできちんとしていたので一緒に買い物をする事がなかったせいだ。
　はしゃぐ綾香にわざとゆっくり店内を回って、めったに買え与えないおもちゃやお菓子を買ってあげながら、少しでも遅く家路に着きたい千恵美だった。

　横ではしゃぐ綾香を尻目に、引きつった笑顔と相槌をしながら千恵美はとぼとぼと家路に着いた。
　ガレージに目をやると、そこには夫の車はもうなかった。
　少しほっとして家に戻り、上の空で夕飯の支度をし、家事をこなし、綾香を寝かせたのは９時を過ぎた頃だった・・。

　千恵美はリビングのソファーに腰を沈めしばらく天井を見上げ・・・、おもむろに携帯を取り出し、純一の番号を押した。

《どうしたの？こんな時間に》
《・・あ・・あの・・いえ・・なんとなく・・》
《変な人だな〜（笑）まだ旦那さんは帰ってないんだ？》
《・・はい・・まだ・・》
《？なんか変だな〜？？何かあった？》
《いえ・・なにも・・ただ・・・》
《ただ？・・何？？》
《・・・き・・貴美子いますか？・・・》
《貴美子？？・・いないけど・・・？・・なんか君に迷惑をかけた？？》
《いえ！・・いないならいいです！・・ちょっと気になったものですから・・》

　純一が何かを言い掛けた時、千恵美は電話を切った。

　千恵美は純一が今回の事には関わりがないことを察知した。

　千恵美は自分のしてきた事を振り返って、後悔の念を覚えた。
　自分のしてきた事を（仕方がないこと）と割り切って、純一と夫婦以上の関係を続けて来た事や、表面上だけは良き母良き妻を装ってみても、どこかにか無理があったのではといまさらながら後悔した。