38

　全身が燃えるように熱い。地下から伸びてきた手が右半身をもぎ取ろうとしているみたいだった。

「雄一郎・・・雄一郎・・・わかる？」

　母さんの声がした。

「あ・・・れ・・・」

　ここがどこだかわからなかった。

　起き上がろうとすると全身に痛みが走った。

「あっ」

　その痛みで記憶が戻った。

「雄一郎、しっかりして。いまお医者さんを呼んでくるから」

「母さん・・・」

　お母さんが僕の顔を覗き込んでいる。

「瞳と亜理咲は・・・！？」

　僕は叫ぶように言った。

「どうしたの？」

　お母さんは僕が混乱してると思ったらしい。泣きそうな顔でそう言った。

「瞳と亜理咲は無事なの？」

　僕はもう一度聞き返した。

　そのときには、ここが病院の一室だということがわかったし、身体を動かそうとしてもできないので怪我をしたこともわかっていた。

「瞳さんって、同じマンションに住んでるあのきれいなお嬢さんよね？　救急車を呼んでくれた・・・」

　それを聞いて瞳が無事だったとわかった。

「亜理咲は？　林亜理咲は？」

「もうひとりのお嬢さん？」

「無事なの？」

「ええ、私がここに着いたとき手術室の前でずっと泣いてたわ」

　それを聞いて安心した。同時に意識が遠のいていく。

「待ってて。すぐにお医者さんを呼んでくるから」

　そう言ってお母さんは病室を飛び出していった。

　いろんな機械の音がする。規則的に電子音を発しているのは心拍計だろう。僕はあの出来事を思い出しながら、また意識を失った。

「今井さん！　今井さん！　わかりますか？」

　強い口調で名前を呼ばれた。

　目を開けるとマスクをした医者がいた。

「自分の名前を言えますか？」

「今井・・・雄一郎・・・」

「ここはどこだかわかりますか？」

「病院・・・ですよね・・・僕は階段から落ちて・・・」

「私がどこを触っているかわかりますか？」

「ええと・・・右の手です・・・」

「これは？」

「右足の先・・・」

　矢継ぎ早の質問に考えるヒマもなく答える。

「お母さん、安心してください。意識もはっきりしていますし、心配した麻痺もなさそうです」

　医者は僕の身体のいたるところを触って感覚を確かめた後に言った。

「今井さん、ここは病院です。三日前にあなたはここへ運ばれてきました。状態から言うと右の鎖骨、右上腕骨、右尺骨、左腓骨を骨折しています。特に鎖骨は開放骨折といって危険な状態だったので緊急手術で処置しました。ほかの部位も金具で固定してあります。肋骨も二本折れています。これは固定して癒合を待つしかありません。それから左脇腹の裂傷、これは筋肉組織を傷つけていますが内臓までは達していません。あと全身の打撲です。頭を強く打ったようなので意識を失っていて心配しましたが、もう大丈夫でしょう。これから検査がいろいろありますし、金具を取り外す手術もあります。この症例だと退院までは三ヶ月ほどかかると思いますが、がんばってくださいね」

　医者の説明を聞いてビックリした。

　僕は三日間も意識を失っていたらしい。

「どこか痛いところとか異常はありますか？」

「右腕が・・・すごく・・・」

「金具を入れてギブスで固めてあります。当分は痛むでしょうから薬を投与します。無理に動かさないように」

「わかりました・・・」

　もう、しゃべるのも億劫だった。

　瞳と亜理咲に会いたかった。

「雄一郎、これから、お父さんも来るから」

「あ・・・うん・・・帰ってきたんだ・・・」

「当たり前でしょ。あなたがこんなことになっちゃったんだから」

「わるいなぁ・・・」

　僕は博多へ単身赴任している父親のことを考えていた。支社長とかになって忙しいらしく一ヶ月に一回くらいしか帰ってこないけど、僕のことをわかってくれているし、頼りになる父親だ。たぶん三日も会社を休ませちゃったことになる。

「あのさ・・・」

　もうひとつ気になることがあった。

「なあに？」

「あのタカシって・・・僕と一緒に落ちた奴のこと」

　そこまで言うと母親の顔つき曇った。

「まさか・・・」

　僕は最悪の事態を想像してしまった。

「気になるのね？」

「うん・・・まさか・・・死んだんじゃないよね？」

「大丈夫。意識不明らしいけど、あまりわからないの。それより、あの人ってあなたの学校の先生の弟だっていうじゃない。お母さん、なにがなんだかわからないわ。警察の人はなんにも教えてくれないし・・・」

「そうか・・・警察も来たんだ・・・」

「当たり前じゃない。傷害事件なのよ。それに私が来るまで手術もできなくて、意識がないからリスクが高いってお医者さんに聞かされて、同意書にサインしなきゃならなかったし、お母さん気が狂いそうだった・・・」

　その言葉を聞いて水島先生のことが気になった。でも、それを聞けば事情を話さなければならない。僕は眠い振りをして黙っていることにした。

　しばらくすると父さんが来た。

「雄一郎、大丈夫か？」

「あ、父さん・・・大丈夫・・・ごめんよ、会社休ませちゃって・・・」

「そんなこと気にするな。それより心配したぞ。意識が戻ってほんとうによかった」

「父さん・・・」

「何も言うな。お父さんはお前のことを信用してる。いまは治すことだけを考えていればいいんだ」

　話を聞くと父さんと母さんが交代で僕に付き添っていたらしい。

　瞳と亜理咲はどうしているんだろう？　落ち着くと二人のことばかりが気になった。

　一時間くらい経っただろうか。なんとなく気詰まりになったときに病室のドアがノックされた。

「どうぞ」

　お母さんが答えた。

　スライド式のドアを開けたのは水島先生だった。ゲッソリとした顔つきは別人のようだった。

「水島でございます。このたびは弟の孝がとんでもないことをしでかして大変ご迷惑をおかけしました。お医者さんから今井君の意識が戻ったというお話を聞いてお詫びに参りました。ほんとうに・・・ほんとうに申し訳ありません」

　そう言うと水島先生は床に膝をついて土下座した。肩が震えていた。

「どうぞ手あげてお顔もあげてください。幸い雄一郎は目を覚ましました。いろいろと事情はあるのでしょうが、まずは本人の回復が第一ですので」

　父さんがそう言った。

「それでは・・・失礼して・・・あの、今井君・・・いえ雄一郎さんとお話をさせていただいてよろしいでしょうか・・・」

　当たり前のことなのかもしれないけど水島先生の言葉遣いは余所行きというか、いつもとまったく違う。

「どうぞ」

　父さんが答えると水島先生がベッドの脇へやって来た。

「今井君・・・ごめんなさい。ほんとうにごめんなさいね。意識が戻ってよかった。許して欲しいなんて言えないわ。どんなつぐないでもするつもりよ」

　そう言う先生の目には隈ができていて化粧っ気のない顔はひどくやつれた感じだった。たったいま流した涙のあとが痛々しかった。

「先生・・・僕は大丈夫だから心配しないで。あいつもこの病院にいるの？」

「ごめんなさい。でも、もう今井君を傷つけることはできないから安心して。自業自得よ・・・」

「どういうこと？」

「ほんとうは本人に謝らせるのが筋なんだけど、今はそれすらできない状態なの。今井君のせいじゃない。悪いのは孝。だから・・・」

　そこまで言うと先生の目に涙が溢れてきてもう言葉にならなかった。

　先生の方が病人みたいだった。

「先生、すこし休んだ方がいいよ。僕は先生の方が心配だ」

　僕がそう言うと先生は崩れ落ちるように突っ伏して泣き出した。

　やがて、よろよろと立ち上がるとお父さんとお母さんの方を向いた。

「見苦しいところをお目にかけて申し訳ありませんでした。雄一郎さんが意識を回復したと聞いて、何も考えずに来てしまいました。あらためてお詫びにうかがいますので、今日のところはこれで失礼いたします」

　先生はそう言って深々と頭を下げた。

　両親も無言で頭を下げる。

「雄一郎。どういう・・・」

　先生が出ていくとすぐに口を開いたお母さんをお父さんが制した。

「待て。いまは雄一郎を安静にすることが第一だ。ひとつだけ確認する。雄一郎は男として、いや人間としてやましいことはないよな？」

「うん」

「だったらいい。もう詮索はしない。お母さんも、これ以上、雄一郎に負担をかけるのはやめようじゃないか。もうひとつだけ言っておく。お父さんは何があろうと雄一郎の味方だ。お前に信念があるならば、お父さんは全力で応援するから安心しろ」

「わかった。ありがとう、父さん」

　いまの僕には父親の言っていることの意味がよくわかった。

　そして、こういう人が自分の父親だということに誇りを覚えた。

「お父さんもお母さんも心配かけてごめん。事情は話せないけど僕がやったことは間違ってないと思うから安心して。それに、二人とも仕事があるんだから僕のことは心配しないで仕事してよ。もう大丈夫だから」

「子供がそんなこと心配するな。それよりしゃべりすぎだ。すこし休みなさい。それから、お母さん。そろそろ交代の時間だから帰ってもいいぞ」

「でも・・・」

「わかってる。でも、こんな狭いところに三人もいたら雄一郎だって休めないじゃないか」

「そうね、わかったわ。じゃあお願いね、あなた」

　お母さんはそう言って病室から出て行った。

　僕も疲れたからすこし寝ることにした。

　父さんのイビキで目が覚めた。外はもう暗かった。

「父さん。お父さんったら」

「ん？　んん？　どうした？　具合悪いのか？」

　父さんはすぐに起きた。

「そうじゃないよ。イビキかいてるから」

「おっ、そうか。すまん」

「いいよ。お父さんも疲れてるんだろうから帰って寝たら」

「そういうわけにはいかん。付き添いだからな。完全看護だからほんとうはいけないんだけど、事情が事情だから病院にも許可はもらっている。それに母さんが心配するだろ」

「そっか・・・いろいろ面倒かけてごめん」

「おっ、いつになく殊勝じゃないか。それに、急に大人になった感じだな」

「まあ、いろいろあったからね」

「そうか、とにかく安心したよ。それより寝られないのか」

「うん。喉が渇いちゃって」

「じゃあ、自販機でジュースでも買ってきてやるよ」

「大丈夫なのかなぁ」

「病人じゃなく怪我人なんだから大丈夫だろ」

「だったらスポーツドリンクが飲みたい」

「わかった。待ってろ」

　ドアを開けて出ていく父さんを目で見送る。ひとりで病室の天井を見上げていると、さっきの先生の顔を思い出してしまった。もしかしたら三日間ほとんど寝てないんじゃないだろうか。また文芸部の活動で会えるのだろうか。たぶん無理なことは、ちょっと考えただけでもわかる。

　それにタカシのことだ。あんなにひどいことをされたのに憎む気持ちにはなれなかった。意識不明って聞いたけど、先生は謝りに来られない状態だって言っていた。心配っていうんじゃないけど気になる。

　そして瞳と亜理咲。気になるってレベルじゃなく焦がれるほど会いたい。僕の意識が戻ったことも伝えたい。きっと、ものすごく心配してるに違いないんだ。どうやったら二人に連絡がとれるんだろう。それこそが最優先の課題だと思った。

「おーい。待たせたな。看護師さんに聞いたらスポーツドリンクOKだそうだ。いま、ストロー持って来てくれるって」

　一本でいいのにペットボトルを何本も抱えた父さんがドアを開けた。

　僕は右手と左足が固定されているから、ひとりで起きることもできないんだ。

「今井さん。気分はいかがですか？」

　白衣に身を包んだ（当たり前か）看護師さんがストローを持って来た。

「お父さん、私がやりますからボトルを」

「はい。お願いします」

　父さんがペットボトルを渡す。

「今井さん。ベッドを起こしますから痛かったら言ってくださいね」

　看護師さんがスイッチを押すと小さなモーター音とともにベッドの上部が立ち上がってくる。

「大丈夫ですか？」

　ベッドの角度が45度くらいになったとき看護師さんは僕の方を向いて微笑んだ。若くてきれいな看護師さんだ。

　慈愛っていうんだろうか、やさしい目で僕のことを見ている。

「あ・・・はい・・・」

　返事をするのもドギマギしてしまう。

「どうぞ。ゆっくり飲んでくださいね」

　差し出されたストローに口をつける。

　甘露だった。記憶はないけど三日ぶりにものが口に入った。夢中になってストローを吸う。一気に半分ほどを飲み干してしまう。水分が身体の隅々まで染み通っていくような気分だった。

「ふぅ〜っ」

　ため息をつくと、看護師さんがまだ僕を見ているのに気がついた。

「やっぱり若いから回復が早そうね。ほかに、なにか困ったことありますか？　背中が痒いとか、そんなことでもいいのよ」

　看護師さんがニッコリ笑いながら言う。

「あの・・・」

「はい」

「携帯が欲しいんですけど・・・」

「ここは高度治療室なので使うことは禁止されているんです。もうすこしよくなれば車椅子に乗れるかもしれないから談話室とか指定された場所で使ってくださいね」

「いつになれば・・・」

「明日になれば別の病室に移ることになります。そのときなら・・・持ってると安心できるんですよね？」

「はい・・・」

「だったら、持ってるだけならいいでしょう。私は使っていいとは言いませんけどね」

　看護師さんはそう言うとウインクした。

「わかりました・・・お父さん、携帯持って来てくれるようお母さんに頼んでくれる」

「わ、わかった」

　父さんがうなずく。

「それじゃあ行きますけど、ちょっとしたことでもナースコールで呼んでくださいね。さっき言ったみたいに痒いところがあるくらいでもいいんですよ」

　そう言うと看護師さんは出ていった。白衣に包まれたお尻が健康そうで見惚れてしまう。なんで看護師さんってきれいに見えるんだろう？

「気がついたらさっそく彼女に連絡か」

　父さんがニヤリと笑う。

「そんなんじゃないよ」

　僕はとぼける。

「だって、お前の意識が戻らないとき、すごい美少女が二人も来ていてお前のこと心配してたぞ。ひとりなんか泣きじゃくって大変だったんだから」

　亜理咲だと思った。

「ここに来たの？」

「いや、ここはさっき看護師さんが言ってたハイケアなんとかだから肉親以外は面会謝絶なんだ」

「そうか・・・」

　なんとなくかっこわるい姿を見られなかったのでホッとした。

「それにしても、お前・・・」

「なに？」

「どっちが本命なんだ？　二人ともタイプは違うけどすごい美人じゃないか。やっぱり東京だな。博多じゃあんな女子高生はいないぞ。お前もやるなぁ。それに、あの先生も美人だな。どうして、お前のまわりは美人だらけなんだ？」

「ちぇ」

「なんだよ」

「だって、すっかりエロオヤジの会話なんだもん。さっき、ちょっと尊敬して損した気分」

　僕は誤魔化すことにした。

「なんだよ。その、ちょっと尊敬って？」

　案の定、話がずれた。

「さっき、僕に信念があったら全力で応援してくれるって言っただろ」

「うん」

「あいつは水島先生とトラブルがあって、それを解決したのが吉川先輩、あのストレートヘアの娘のお母さんで弁護士なんだ。それを逆恨みして、あいつが襲ってきたんだ。吉川先輩と林先輩はおんなじマンションに住んでいるから、一緒に帰るところを狙ってきたんだよ。これ以上はプライベートなことだから言えないけど」

「お前が守ったのか？」

「そういうことになる・・・」

「よくやったな」

「えっ？」

「お前はやさしい子で、子供のときから争いを避けるようなところがあって、お父さんはちょっと心配していたんだ。社会に出たら好むと好まざるにかかわらず覚悟を決めて戦わなきゃならないこともあるからな」

「うん・・・ごめん」

「なにが？」

「エロオヤジは取り消すよ。それから、もうひとつお願いがあるんだ」

「なんだ？」

「このことはお母さんに内緒にして。余計な心配をかけたくないんだ」

「わかった。よかったよ。お前と男同士の話ができて」

「うん。これが怪我の功名かな」

「ばか。意味が違うぞ」

「冗談だよ」

「ふふ」

「ふふふ」

　父さんとこんなふうに話をしたのは初めてかもしれない。怪我の功名は意味が違うけど、怪我をしていいこともあるんだと思った。

「父さん」

「なんだ？」

「なんか、すごく疲れちゃったよ。もう寝るね。携帯のこと忘れないでね」

「わかった。早く寝ろ」

　こうして夜が更けていった。