39

　翌日は病室の引っ越しからはじまった。

　僕がいた病室は高度治療室といって意識が戻ったらいられないらしいんだ。

　そして、連れて行かれたのは広めの個室だった。

　まあ、引っ越しって言っても僕はベッドに乗せられて移動するだけだから苦労はなかったけどね。

　ちらっと、父さんと看護師さんの話を聞いたんだけど、どうやら個室に移るよう手配してくれたのは水島先生らしいんだ。被害者である僕に対する気遣いみたいなものなんだって看護師さんが言ってた。ということは入院費用は水島先生が払うってことなんだろうか。なんだか釈然としない気分だった。

　父さんは母さんがやって来ると、ひとまず博多に戻るけど週末にまた来ると言い残して出ていった。

　母さんは僕に携帯電話と充電器を渡してくれた。ちょうどお医者さんが回診してくるタイミングだったので、車椅子に乗って談話室へ行きたいと頼んだ。そうしたら、今の携帯電話は機械に対する影響がほとんどないから個室だったらマナーモードにしておけば見なかったことにすると言ってくれた。

　僕は母さんに頼み事をして、いなくなった間にメールを打った。左手だけなので【意識が戻ったら安心して。僕は元気だ】と短いものしか打てなかったけど、とにかく無事だということはこれで伝わるだろうと思った。

　驚いたことに打てば響くといった感じで亜理咲から返信が来た。授業中でも携帯は離さないらしい。亜理咲らしいと言えば、亜理咲らしい。ハートがいっぱいのデコメに【よかった。死ぬほど心配したんだから。瞳と一緒にお見舞いに行ってもいい？】という文面だった。【面会時間は午後2時からだって】と返したとき母さんが帰ってきた。

「だめじゃない。病室で携帯使ったら」

　と僕を睨む。本気で怒っているんじゃないことは表情でわかる。

「お医者さんがマナーモードにしておけば大丈夫だって」

「そうなの。無理しちゃだめよ」

「わかってるよ。でも、やらなきゃならないことがあるんだ」

「そう・・・」

　母さんは何かを察したようだった。言葉を飲み込む。

「あのさ、昨日、お父さんに言ったように僕にはやましいところはないし、隠し事をするのも好きじゃない。でも、話しちゃいけないこともあるんだ。心配かけているのはわかっているけど僕は大丈夫だから信用して欲しいんだ」

「わかった。お母さんは雄一郎を信用する。でも大事なひとり息子なんだから、神経質になっちゃうのよ。だって、こんなことがあったんだから・・・」

「わかってるよ。母さんには悪いと思ってる。それに仕事も休ませちゃってるし・・・」

「そんなこと気にしないの。好きではじめた仕事だけど自分のためじゃなく家族のためにやっているんだから、こんな一大事のときは家族優先よ。でも、雄一郎、雰囲気が変わったわね。大人になった感じ・・・」

　瞳や亜理咲が見舞いに来たらバツが悪いので、なんとなく大丈夫を強調して母さんに仕事に行ってもらおうと思った作戦は失敗のようだった。

　それでも、話はいい方向へ行ったし、お母さんの棘も引っ込んだような雰囲気だった。

　やがて昼食がやってくる。朝ごはんは胃を慣らすため重湯みたいなおかゆとふりかけ、なんだか正体不明の柔らかい煮魚だけで、昼から一般食になるって聞いて期待したんだけど、トレイの上にはトースト二枚とサラダ、スクランブルエッグとスープというものでボリュームも視覚的にもかなり悲しい内容だった。

「母さん・・・これじゃ骨がくっつかないよ・・・」

　泣き言を言う僕に初めて母さんが微笑んだ。

「なにか食べたいもの買ってきてあげようか」

「いいの？」

「なにがいい？」

「う〜ん・・・なんだかガッツリお肉が食べたいな。ジュージューのハンバーグとか。でも右手が使えないからなぁ・・・」

　ひとりで食事もできない身が恨めしかった。

「そうだ。駅前にハワイから進出してきたハンバーガーショップがあったから、それにする？」

「うん」

「現金ね。食べ物のことを聞いて元気な顔になるなんて」

　そう言う母さんの方がうれしそうだった。

　この病院は僕が住んでる街の隣の駅からすぐのところにある。

　母さんがいそいそと立ち上がった。

　三日ぶりという実感はないけどハンバーガーは涙が出るほどおいしかった。

　よろこんで食べている僕を見て、母さんもかなり安心したみたいだった。

　変な発想かもしれないけど食事とセックスは似たところがあると思ったりもした。相手がよろこべば自分もうれしいし、食べるという行為自体が快感で、それを共有できるんだから。

　痛み止めが入っている点滴はこれが最後だと言って看護師さんが取り替えに来たのが2時ちょっと前。入れ違いにドアがノックされた。母さんが相手を確かめるようにドアを開ける。

「吉川と申します。このたびは大変な災難に遭われて娘と一緒にお見舞いに参りました・・・」

　社交辞令が続く。驚いたことに瞳のお母さんが来たんだ。後ろの方に瞳と亜理咲もいるようだ。でも、この病室はL字型になっていて、入り口がベッドの足元の先を曲がったところにあるので様子が見えない。はやく瞳と亜理咲の顔が見たかった。自分でもわかるほど鼓動が早くなる。

「・・・込み入った事情を説明したいので雄一郎さんのお顔を見てからお母さまと二人だけでお話させていただきたいのですがいかがでしょうか？」

　そんな声が聞こえる。

「ご丁寧に恐れ入ります。さきほど食事を済ませたばかりで、いたって元気ですので、どうぞお入りください」

　母さんの口調まで余所行きになってる。

　靴音がして瞳のお母さんが来た。高級そうなスーツを着ている。

「雄一郎さん、瞳を守ってくれてほんとうにありがとう。母親としてお礼の言葉もありません。それなのに、こんな災難に遭われて心を痛めています。それに、あなたは林さんも守ってくれました。感謝しています」

　瞳のお母さんは僕に頭を下げた。

　ギブスをして病院お仕着せの出来損ないの甚兵衛みたいな服しか着ていない自分が恥ずかしくて黙っていた。

　瞳と亜理咲の姿が見えて涙が出てきそうだった。

　亜理咲は口に両手を当てて震えている。

「あ、あの・・・僕は・・・深く考えもしないで咄嗟にああなったので・・・そんなふうに言われてしまうと、まだ考えもまとまらないので・・・」

　いつまでも頭を下げている瞳のお母さんに戸惑いながら答えた。

「ほんとうにご立派な息子さんのおかげで娘が助かりました。娘ともども心からお礼を申し上げます。同時にお見舞いを・・・」

　こんどは母さんに頭を下げている。

　かなり居づらい状況なのに身体を動かすこともできない。

　瞳を見たら、お母さんといっしょに僕の母さんに頭を下げている。さすがに超優等生だと思ったけど、その表情は凍りついた感じだった。

「よろしければ、食堂でお話しさせていただけますか？」

　瞳のお母さんが母さんに言っている。なんだかややこしいなぁ・・・

「わかりました。では・・・」

　お母さんが答える。

　瞳のお母さんと僕の母さんが病室を出ていった途端に亜理咲が号泣した。

「ユーイチロー・・・よかった・・・心配で・・・あたし・・・あたし・・・」

　そう言って僕にすがりついてきた。

「ユーイチローが死んじゃったら、あたしも・・・」

　亜理咲の気持ちが痛いほど伝わってくる。

「アリサ、心配かけてごめん。僕は大丈夫だから・・・」

　亜理咲の髪を使える左手で撫でながら瞳の方を見た。

　亜理咲の泣き声で気がつかなかったけど、瞳も僕を見ながら涙を流していた。

　それも、すごい勢いで・・・

　いつもクールな超美少女が台無しだった。

「ひとみ・・・二人とも無事で・・・ほんとうによかった・・・」

　僕がそう言うと瞳も声をあげて泣いた。

　それは三歳児の泣き声のようだった。

　普段のクールな印象とは真逆の瞳に、いままで彼女がどれだけ自分を抑えていたのかがよくわかった。

「目が覚めてから二人のことばかり考えてた・・・お願いだ・・・瞳もこっちへ来て・・・瞳に触りたい・・・」

　左手を伸ばすと瞳が駆け寄って来た。

　亜理咲と同じように僕にすがりつく。差し出した僕の左手を握りしめながら泣いている。

「瞳・・・すごく、すごく会いたかったよ」

　それしか言葉が出なかった。

　しばらく三人とも黙っていた。

　でも、満たされたような安心感があった。

「ユーイチロー・・・痛くない？」

　ギブスの先にある紫色に腫れ上がった僕の右手を見て亜理咲が言った。

「うん。まだ鈍いっていうか重たい感じの痛みはあるけど大丈夫だよ」

「かわいそう・・・」

「もう、ごはんも食べられるし、心配しないで」

「あたし・・・毎日お見舞いに来るから・・・」

「うれしいよ。アリサの顔を見ているだけで安心できるから」

「ほんと・・・？」

「もちろんさ」

　そう答えると、涙をためた目で瞳が僕を見ているのに気がついた。

「瞳も来てくれるよね？」

　目が合う。泣き笑いの顔がかわいかった。ちょっと間を置いてから瞳がうなずいた。

「聞いたよ。瞳が救急車を呼んでくれたんだってね。ありがとう」

「怖かった。すごく怖かったの」

　僕の言葉にまともに答えられないなんて、いつものクールさが影をひそめて普通の女の子になってしまったみたいだった。

「この三日間・・・どれだけ雄一郎のことが好きなのか・・・すごくわかったの・・・他のことはなんにも考えられなかった・・・」

「ありがとう、瞳。僕は瞳とアリサが無事で、こうやってまた会えて、ほんとうにうれしいよ・・・」

　また瞳は涙をポロポロと流した。

「それにしてもびっくりした。瞳のお母さんが来るし・・・それに、アリサはメール送ったら即レスだもん・・・授業中だったんだろ？」

「あたしたち学校行ってないよ。ずっと瞳と家にいた・・・」

「えっ・・・？」

「行けるわけないじゃん」

　亜理咲の答えを聞いて、ことの重大性にあらためて気づいた。

「そうか・・・」

　言葉がつなげられない。

「あいつもここに入院してるんだって？」

　しばらく沈黙が続いた後、亜理咲が口を開いた。

「そうらしい・・・昨日、水島先生が病室に来た。すごくやつれて別人みたいだった・・・」

「学校はすごい噂になってるんだろうなぁ・・・」

「たぶんね・・・」

　思いきり泣いたせいか、僕が元気だとわかったためか、亜理咲の口調は元に戻っていた。

　なんとなく安心した。

「今井さん。床ずれの予防のため姿勢を変えますのでいいですか？」

　ドアがノックされ看護師さんが病室へ入ってきた。

「床ずれ・・・って？」

「同じ姿勢で長い間寝ているとベッドに当たっている部分の血流が悪くなって最悪の場合、その部分が潰瘍になるんです。そうなると大変だから定期的に姿勢を変える必要があるんですよ。最初は辛いかもしれませんが大切なことだから」

「あ・・・あの・・・」

　瞳が口を開く

「なんでしょう？」

「私たち・・・」

「そうですね。少しの間はずしていてもらえますか。すぐ終わりますから」

「はい・・・」

　病室を出て行く瞳の動きはぎことないし、しゃべり方もちょっとヘンだ。

　だいたい、ちっとも瞳らしくない。ちょっと心配になった。

「ガールフレンド？」

　看護師さんに聞かれる。

「ええ・・・まあ・・・」

「すごい。モテ男くんなんだ」

「そんなんじゃないですよ。部活の仲間です」

　照れ臭いので誤魔化す。

「はい、それじゃ横向きになりますよ．痛かったら言ってくださいね」

　看護師さんは背中に手を入れて僕を転がすように横向きにした。

　上になった右手と右足が鉛のように重かった。

「大丈夫ですか？」

「はい・・・あの・・・」

「痛みますか？」

「そうじゃなくて・・・あの・・・布団をかけてもらえますか」

「寒いの？」

「いえ・・・この格好が恥ずかしくて・・・」

　僕は水色の浴衣みたいな病院のお仕着せ姿を見られるのがいやだった。

「そうね。女の子には見られたくないかも。それに汗臭いから、あとで清拭しましょうね」

「せいしきってなんですか？」

「お風呂に入れない患者さんの体を拭いてあげるの。血行もよくなるから床ずれにも効果があるのよ」

「あ・・・はい・・・」

　ひとりじゃ何にもできない自分が情けなかった。

　看護師さんと入れ替わりに瞳と亜理咲がやってきた。

「聞いちゃった」

　亜理咲が言う。

「清拭よ」

　どうやらドアを開けたまま外にいたらしい。

「あたしがしてあげたい」

「えっ？」

「だめなのかな？」

「・・・」

「だって看護師さんにやらせるなんて・・・くやしいんだもん・・・」

　亜理咲は本気みたいだった。このまま布団を剥いでお仕着せを脱がされそうな雰囲気だった。

「アリサ・・・気持ちはうれしいけど・・・」

「わかってるよ・・・でも、これからは出来る世話はなんでもする・・・あたしたちで・・・ね、瞳」

「う・・・うん・・・」

　やっぱり瞳はヘンだった。

「瞳・・・いつもの瞳らしくない。どうしたの？　僕は大丈夫だから・・・」

「あっ・・・ごめんね。雄一郎の姿を見たら・・・すごくショックで・・・自分でも考えがまとまらない・・・ごめん・・・ごめんね・・・逆に心配かけちゃったみたい・・・」

「瞳・・・」

「なに？」

「お医者さんの話では退院するまで三ヶ月くらいかかるらしいんだ。瞳やアリサの笑顔がなかったら堪えきれるかすごく不安なんだ。二人の顔を見ていたらすごく安心したし元気も出た。僕には瞳とアリサが必要なんだ。だから笑って」

　僕は甘えてみることにした。

「うん」

　効果はてきめんで瞳の眼に光が戻った。

「私・・・毎日来てもいい？」

「もちろんうれしいよ。でも・・・」

「ダメなの？」

　瞳が悲しげな顔になる。

「心配なんだ。だって瞳は受験生じゃないか。邪魔はしたくないし。それが心配なんだ」

「ここで勉強する。一緒にいたいの」

　そう言う瞳の顔を見て、やっぱりなんだかすっかり乙女っぽくなっちゃったなぁと思った。

　そうこうしている内に母さんと瞳のお母さんが帰ってきた。

　ほんとうは、ずっといて欲しかったけど、そうはいかないのが現実の辛いところだ。

　しばらくすると三人は一緒に帰ってしまった。

　また母さんと二人になる。

　ただよかったことに、瞳のお母さんがうまく説明してくれたみたいなんだ。

　母さんは「安心した」と言ったきり事件のことを口にしなくなった。

　今日の残るイベントは夕食だけだ。あのとき食べたオムライスが猛烈に食べたかった。