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「ユーイチロー、清拭した？」

　亜理咲は来るなりそう言った。

　瞳も一緒だ。

　まったく、ちょうど母さんが席を外していたところだからよかったものの、こんなことを聞かれたら冷や汗ものだ。

「アリサ・・・母さんに聞かれたらヤバいよ・・・」

「大丈夫。いないの確認済みだから」

「どうして？」

「だって入り口で会ったんだもん。お昼ごはん買いに行くところだから、よろしくって頼まれちゃった」

　得意のニッていう笑顔で答える。

「そのアリサの笑い顔を見ると安心するよ」

「毎日見せてあげる」

　またニッて笑う。

　それに比べると、まだ瞳は沈んだ感じが残っている。

「瞳・・・」

　瞳と目が合う。

「来てくれてうれしいよ。そんなに落ち込むなよ」

「うん」

　ほんのすこし笑顔になる。

「昨日に比べると痛みも薄らいだし、だんだんよくなってきてる感じだからさ」

「やっぱり痛いんだ」

「うん。肩が特にね。でも、もう平気だよ」

「どうして、あなたがこんなにひどい目に逢わなきゃならないのか・・・そんなことばかり考えていたの。できれば代わってあげたいくらい・・・」

「バカなこと言うなよ。瞳に怪我なんてさせたら・・・そうか・・・」

「なに？」

「これって、なんとかのパラドックスみたいだね。でも僕はよかったと思ってる。瞳とアリサが無事で。女子だから傷跡がとかいうんじゃなくて、これは僕の役割だったんだよ」

「でも不公平・・・」

「いいんだ。もう気にするなよ」

「雄一郎・・・」

「ん？」

「ありがとう。ほんとうに、ありがとう。昨日、私ったら気が動転してて、雄一郎にお礼を言うの忘れてた。あなたのおかげで亜理咲ちゃんも私も助かった。なのに、あなただけ痛い思いをして・・・不自由な身体になって・・・」

　そう言う瞳は、またポロポロと涙を流していた。

「不自由な身体って・・・いまはそうだけど・・・治るから」

「あ・・・ごめん。そういう意味じゃなくて」

「わかってるよ」

　僕は亜理咲の真似をしてニッと笑う。

「また雄一郎に慰められちゃった。ほんとうは逆じゃないといけないのに。ごめんね」

「僕は、こうして瞳やアリサがいてくれるだけでうれしいよ」

「うん。一生懸命看病する」

「だからぁ、病気じゃないから」

　僕がそう言うと、やっと瞳に笑顔が戻った。

　三人でいると心が和んだ。

　早く治って・・・なんて、ちょっとエッチなことを考える余裕も出てきた。

　話していると母さんが帰ってきた。

「今日はステーキサンドを買ってきたの。片手で食べられるから便利でしょ」

　母さんは瞳と亜理咲に「いらっしゃい」と挨拶してから僕に言った。

　昨日の夜に出された病院食にはスプーンが添えられていて、それなりのケアをされていたんだけど、左手だけで食べるのに苦労したんだ。

「あの、お母さま」

　瞳があらたまった様子で言った。

「はい」

「私たちは雄一郎さんのおかげで無事でいられました。ほんとうに感謝しているんです」

　そう言って頭を下げた。

　亜理咲までバネ仕掛けみたいに立ち上がってお辞儀をしている。

「それでお願いがあるんです」

「は・・・い・・・」

　母さんはビックリした顔で瞳を見ている。

「私たちにできるお礼を考えても看病することしか思いつかないんです。昨日、母にも話して許可は取ってあります。私たちに雄一郎さんの看病をさせてもらえないでしょうか？」

「それは、ありがたい話ですけど・・・」

「押しつけがましい話だとわかっている上でのお願いです。でも、そうでもしないと私たちの気がすまないんです。それに、お母さまもお仕事をされていると雄一郎さんに聞きました。私たちのせいで．お母さまにも負担をかけているのが心苦しいんです」

　さすがは優等生の言葉だと思った。母さんもタジタジだ。

「正直な話、そうしていただければ助かります・・・でも・・・雄一郎は、それでいいの？」

　母さんは僕の方を向いて言う。

「うん・・・僕も母さんの仕事が気になってたんだ。だって、ぜんぜん会社に行ってないんだろ」

　瞳がいい具合に振ってくれたのでそう答えた。

「ええ・・・連絡は取ってるけど、電話だけじゃ用事が足りないことがあるのは事実よ・・・でも、このお嬢さんたちに甘えちゃっていいのかしら・・・」

　母さんは考え込んでいる。

「緊急事態がある病人じゃないんだからずっといてくれなくても大丈夫だよ。母さんがいてくれるのはありがたいけど、仕事に差し障りが出ると悪い気がするし・・・」

「だったら、こうしましょう。私はお昼までいることにするわ。そうしないと、お二人だって学校があるでしょ。私も午後から出社することにすれば取引先にも理解してもらえると思うから」

「うん。そうしなよ」

「ええと、吉川さんに林さんでしたよね。甘えるようで申し訳ないけどお願いできるかしら」

　母さんは瞳と亜理咲に向かって言った。

「ありがとうございます。こちらこそ勝手な申し出を受け入れていただいて恐縮です」

　瞳が頭を下げる。

「よろしくお願いします」

　亜理咲までピョコンとお辞儀をしてる。

「雄一郎。よかったわねぇ。お嫁さんが二人も来てくれたみたいじゃない」

　そう言って笑う母さんの言葉に僕はドギマギしてしまった。

「そ・・・そんなんじゃないったら・・・よせよ・・・」

　もう誤魔化すしかなかった。

　そのとき母さんの携帯のバイブレーターが鳴った。

　母さんは着信を確認すると「ちょっと待ってて」と言って病室を出て行った。

「吉川さんに林さん、今日これから雄一郎に付き添っていただけますか？」

　数分後に戻ってきた母さんが言った。

「じつは会社でちょっとしたトラブルがあって・・・できれば・・・お話しをいただいたばかりなのに、それに甘えるようで・・・」

「母さん、行っておいでよ。僕は大丈夫だから」

「どうぞお任せください」

　僕が答えるのと同時に瞳はそう言った。

「すみません。では、お願いします」

　母さんはそう言って出ていった。かなり慌てている感じだった。

「お母さんがいなくなったから清拭してあげるよ」

　亜理咲が言う。

「よせよ。それよりサンドイッチ持って来て。お腹が空いちゃったんだ」

「せっかく用意してきたのに。やり方だってネットで調べたんだよ」

　亜理咲はバッグからタオルを取り出して見せた。

「ほんとうに本気だったんだ・・・恥ずかしいからいいよ」

「あたりまえじゃない。もし、あたしが寝たきりになってユーイチローに身体拭いてもらったらうれしいもん」

　たぶん、ほんとに清拭されることになるんだろうと思った。

　かなり恥ずかしい。

「どうぞ。持てる？」

　瞳がステーキサンドを僕に差し出す。

「ありがとう」

　僕は左手で受け取る。

　肉って感じでうれしくなった。

　僕は夢中でパクつく。

「あ〜あ、こぼしちゃって。オコサマなんだから」

　亜理咲が布団に落ちたパンくずを笑いながら拾っている。

　なんだかママゴトみたいでおかしかった。

　それに、僕が食べるところをみて瞳も安心したみたいだった。やっぱり、食べることって大切なんだと思った。

　瞳に支えてもらってステーキサンドに付いていたポタージュスープも飲み干すと人心地がついた。

「あれ・・・僕ばかり食べちゃったけど二人とも食事したの？」

「うん。来る前に瞳がチャーハン作ってくれたんだ」

　亜理咲が答える。

「へえ・・・瞳ってなんでもできるんだねぇ・・・」

「そんなんじゃないわ。お母さんが留守がちだったから、やるようになっただけ」

「食べてみたいな」

「だったら、明日、作ってくる。雄一郎が食べてくれるなら毎日でもいいよ」

「瞳のチャーハンおいしいよ。でも、なんかジェラシー」

　亜理咲が口を挟む。

「どうして？」

「だって、あたしだって作ってあげたいのに・・・作れないんだもん」

「じゃあ、一緒に作ればいいじゃない」

「あっ、そうか。さすが瞳」

　なんだか女子同士で盛り上がっている。見ていて微笑ましかった。

「悪いけど、冷蔵庫の中にオレンジジュースがあるはずなんだ。持って来てくれないかな。ストローも一緒に」

「あっ、こんどはあたしがやる」

　亜理咲が部屋の隅にある冷蔵庫を開けてパックに入ったジュースにストローをさして持って来てくれた。

　ステーキサンドはおいしかったけど、一気に食べたから喉が渇いちゃったんだ。僕は音を立ててジュースも飲みきった。

　こうやって二人に面倒を看てもらうのはうれしいようで、くすぐったくもあった。

　しかし、そんな気持ちも束の間、冷たいものを一気に飲んだせいかまずいことが起こった。

「ごめん・・・看護師さんを呼んできて・・・」

「どうしたの？　ユーイチロー具合悪いの？」

　亜理咲は顔を青くして握った両手で口を押さえる。

　瞳はものも言わずに病室を飛び出した。

　ほどなくして看護師さんがやってきた。父さんと一緒の夜、ストローを持って来てくれたきれいな看護師さんだ。

「今井さん。どうしました？　どこか痛むんですか？」

「あ・・・その・・・瞳とアリサ・・・ちょっと外してくれる・・・」

「どうして・・・？」

　亜理咲は泣きそうな顔をしている。

「あのさ・・・たいしたこと・・・なんだけど・・・たいしたことじゃ・・・」

「今井さん、もしかして便通ですか？」

　さすがプロは察しがいい。けど、二人の前じゃ言って欲しくなかった。

「そ・・・そうです・・・」

　恥ずかしくて消えてしまいたかった。

「我慢できます？」

「ちょっとなら・・・あの・・・どうすればいいんですか？」

「いま便器持って来ますから待っててくださいね」

　そう言うと看護師さんは出ていった。

「よかった。どうしちゃったのかと思った」

「よくないよ。事態は深刻なんだ。当たり前のことなのに、いままで考えてなかった・・・頼むから二人とも出ていってくれよ」

「亜理咲ちゃん、行きましょう」

　瞳が助け船を出してくれた。

　亜理咲なら手伝うと言いかねないからだ。

　入れ違いに看護師さんがゴム製の平べったい便器を持って来た。手伝いのためか、もう一人いる。

　病院ってところは人間の尊厳をボロボロにしてしまう面もあるんだと思った。

　たとえば、僕のおちんちんには管が通っていて、おしっこはベッドの脇にある透明のビニール袋に入る仕組みになっている。色とかを調べるためかもしれないけど、かなり屈辱的だ。そして、いま、僕は女の人ふたりの目の前でうんちをするハメになってしまった。

　身体を持ち上げられて便器が腰の下に差し込まれT字帯というふんどしみたいな下着が取り去られた。

　情けなくて涙が出そうだった。

「今井さん、このままできそうですか？」

「はい・・・でも・・・」

「なんですか？」

「あの・・・後始末とか・・・」

「大丈夫ですよ。それが私たちの仕事ですから。恥ずかしいなら向こうに行っていましょうか？　声をかけてくれたら戻ってきますから」

「はい・・・お願いします・・・」

　これから先、こんなことが続くのかと思ったらほんとうに涙が出てきた。

　それでも便意は強くなるばかりだ。

　看護師さんが出ていったのを見届けると僕は息んだ。

　あの匂いが部屋中に充満した。トホホな気分で「終わりました」と告げると看護師さんが入ってきた。

「あの・・・すみません・・・窓を開けてもらえますか？　できれば、あの二人に少し待ってて欲しいと伝えてもらいたいんですが・・・」

　お尻を拭いてもらい、T字帯を付けてもらいながら、僕は看護師さんに頼んだ。

「安心して。わかってますよ」

　そう言って微笑む看護師さんが天使に見えた。すごい職業だと思った。