| 43 たぶん瞳と付き合うようになってから、そして亜理咲が加わり、今回の事件があって僕は変わった。 美菜子さんに話すことで心の中が整理されてよくわかった。 ちょっとだけ寝たせいか、それとも美菜子さんのキスのせいか眠れなかった。 だいたい、僕は怪我人だから体力的には普通と変わりがない。なのに動けないから、よけい眠たくないんだ。 いろんなことを考えながら、僕は天井を見つめていた。 そのとき人の気配がした。 「だれ？」 僕は言った。夜の病院はちょっと怖いんだ。 「今井・・・君・・・起きてる・・・？」 水島先生の声だった。ひどく元気がない。 「えっ・・・先生？ どうして？」 「看護師さんに教えてもらったの・・・今井君が・・・私のことを気にしてるって・・・」 美菜子さんはあの足で先生のところへ行ったらしい。 「私ね・・・いてもたってもいられなくなったの。気がついたら・・・ここにいたの・・・」 「先生・・・無理しちゃだめだよ。ずっと、あいつに付き添っているって聞いて、先生のせいじゃないんだから」 「今日、辞表を出してきたの。だから先生じゃないわ」 たしかに、そうせざるを得ない事態だっていうことはわかったけど、すごくショックだった。 「あのさ・・・僕にとっては先生だから・・・すごく悲しい気分・・・」 「ごめんなさいね。でも、学校にはいられないの。今井君や吉川さんが残って欲しいって言ってくれたときはうれしかった。なのに、こんなことになってしまうなんて・・・」 「先生のせいじゃないよ」 「いいえ・・・私がもっとしっかりしていれば・・・」 「あのさ・・・先生。吉川先輩が言っていたことなんだけど、先生はあいつのこと好きだったの？」 「私たちは姉弟なのよ。許されることじゃないわ」 「でも先生は百年の孤独を読み返していたって・・・それに、日本の古典を読んだって近親相姦は珍しいことじゃない。タブーだっていうことはわかるけど、そのタブーを作ったのは人間じゃないか。きっと先生は苦しかったんだよね。タブーだっていう意識に縛られていたから」 「いまい・・・くん・・・」 先生の口調が変わった。 電気が灯っていない病室の中で、窓から差し込む街の灯りだけが悲しげな先生の顔を照らしていた。 「僕も先生に謝らなきゃならないことがある。僕は先生の写真やビデオを見ちゃったんだ。深入りしすぎたというか・・・やってはいけないことだったんだなって、今になって思う。ごめんなさい」 「・・・」 しばらくは理解できない様子で先生は黙り込んでいた。いや、どう対応していいかわからなかったのかもしれない。 「ごめんなさい。僕は先生のことが心配だったんだ。だから知りたかった。先生の部屋の外で・・・その・・・先生があいつにエッチされてるのを聞いちゃったとき・・・先生が写真を撮られて脅かされているんだってわかった。どうしても確かめたくなって・・・」 「身から出た錆ね・・・」 先生はポツリと言った。 「だめだよ。そんなふうに考えちゃ・・・じつを言うと・・・すごく考えさせられた・・・」 「なにを？」 「人って動物のこと・・・きっと、こんなふうに苦しんだりするのは人間だけだってね。動物にだって痛みとかはあるんだろうけど、頭の中で作ったことに苦しめられるのは人間だけ」 すこし大袈裟かと思ったけど本音だった。 「生徒からこんな話を聞かされるのが嫌だったらやめるけど・・・」 「聞かせて・・・聞きたいわ・・・」 しばらく考える時間があって先生はそう答えた。 「ちょっと露骨な話もするけど、嫌だったら言ってください」 僕はそう断ってから続けた。 「最初、先生があいつにエッチされてるって言い出したのは亜理咲でした。彼女にも経験がありましたから。僕らは半信半疑で先生の部屋まで確かめに行ったんです。そして先生の秘密を知ってしまいました。正直な話、ものすごくショックで辛かったです。その後、あいつの部屋に忍び込んでバックアップした写真とビデオを見てしまったんです。すごく違和感がありました。だって、そこには嫌がっている先生と、よろこんで受け入れているとしか思えない先生がいたんですから・・・それに、あいつにも同情しました。社会には認められない感情が、結果として折れ曲がった道に進めさせてしまったんだと思いました」 こんな話を先生の前でするのはドキドキするというか不思議な気持ちだった。 「先生が嫌だったのは姉弟だから許されないといった道徳上の問題があったからでしょうけど、本音の部分としてはどうだったんですか？ 僕には、どうしても本心から嫌がっているようには見えなかった。それに、あいつにずっと付き添っているのもおかしいよ」 「それは・・・」 先生は口ごもった。僕は続けた。 「僕は、あいつを受け入れてしまった先生に人間としての魅力を感じました。いけないことかもしれないのに、性というか感情の波に抗しきれない先生が身近に感じられた。もちろん金をせびったりは褒められたことじゃないけど、あいつが先生に金をせびったのは、きっと先生に振り向いて欲しかったからなんだ。でも、先生は身体を許しても、あいつの思い通りにはならなかった。結局、邪魔をしたのは人間が決めた下らない決まり事だったんだ」 「いまいくん・・・そんなことを言ったら・・・世の中は滅茶苦茶になっちゃう」 「わかってるよ。姉弟はセックスしちゃいけない、夫婦は不倫しちゃいけない、複数の人間とは結婚できない、でも、そんなものは人の頭の中で決めたことだ。正義とか真理とかもそうだ。絶対のものなんて、この世の中にはなにひとつない。なのに少数の人間はそんなものに苦しめられている。なにも疑問を感じないで決まりに従う人生は楽かもしれない。でも、そこからはみ出して苦しんでいる人の方が人間らしくて僕は好きだ」 僕はかなり興奮していた。 意識はしていなかったが、瞳と亜理咲との関係を自分の中で正当化しているのかもしれなかった。でも、常識なんてクソ食らえだ。 「あの日、吉川先輩と亜理咲が先生に辞めないで欲しいって頼んだあの日から、僕は先生のことを、先生としてじゃなくって人間としてすごく好きになっていたんだ。無理の答えを出す必要はないと思う。もっと、先生は自分の気持ちに素直になるべきだと思う」 「今井君に・・・そんなことを言われるなんて・・・でも・・・怖いくらい魅力的な提案ね」 先生は少しだけ笑った。 「たとえばだよ、先生があいつとの関係を心から受け入れて、世間には隠れて楽しんでいたってよかったと思うんだ。公にすれば社会からは糾弾されるかもしれない。だから隠れていればいいんだ。そういうことをするのは関係ない人が他人を責めたいから言うだけだからね。悲しいけど、人間って他者を排除したがるところもあるから」 「もう・・・それも・・・夢ね・・・」 「うん。悲しい結果になっちゃった。でも、考え方次第で先生のこれからは変わると思うんだ」 「そう・・・かな？ うん。でも、すこし気分が楽になったわ。今井君が孝のことを憎んではいないみたいだし・・・私も元気がもらえたような気がする」 計らずして二人の、それも年上の女性から連続して「元気がもらえた」と言われるなんて、かなり不思議な気分だ。美菜子さんと先生が重なって見えた。 「先生」 「なあに？」 「休んだ方がいいよ。なんだか、やつれた感じがして心配なんだ」 「ありがとう。そうするわ・・・せめて孝の意識が戻るまでと思っていたんだけど、それは私のためだったのね。今井君に言われて気がついたわ」 「うん。僕は先生に元気になって欲しい。いままでどおりに先生と生徒じゃなくなっちゃうのかもしれないけど、それでも先生は僕の先生だよ」 「そう言ってもらえるとうれしいわ。でも・・・やっぱり先生と生徒は無理ね」 「どうして？」 「だって、今井君には私の秘密を知られちゃったし・・・それに・・・」 その先は言いにくそうだった。 「うん。これまでどおり先生が学校にいるんだったら黙っていようかと思ったんだ。隠すって、そういうことでしょ。そうすれば平穏に過ごせるし、僕と先生は普通にいられるから。あっ、心配しないで。僕はこのことを絶対に他言しないから」 「あなたって・・・哲学者みたい。どうして、そういうふうに考えられるようになったの？」 先生の顔つきが変わった。 「うん・・・僕にもいろいろ事情があるからね・・・」 「そう・・・なんだか年上の人に諭されているような気がするわ」 そう言って先生はため息をついた。 「僕は普通の16才の男子のつもりなんだけど・・・もしかしたら普通じゃないのかも」 僕は瞳と亜理咲との関係を思い出しながら言った。きっと、こんな経験をしている高校生なんていないだろう。 それに、なんだか水島先生とも距離が近くなった感じがした。 「あっ・・・」 「なんですか？」 「私・・・一番大事なことを聞き忘れてた・・・今井君、具合はどうなの？ 痛みとか・・・」 先生はわざと話題をそらそうとしているみたいだった。 「看護師さんの話では1ヶ月くらいで退院できるそうです。金具を外す手術とか、リハビリはあるらしいけど・・・」 「ほんとうに、ごめんなさいね。私にできることとかがあったら言って」 「う〜ん・・・もし、よかっらた今日みたいに話し相手になってくれませんか。病院の夜は退屈なんです。それから、先生を使ってすみませんが冷蔵庫の中にジュースがあるから持ってきてもらえませんか。しゃべったら喉が渇いちゃって。たくさんあるから先生も好きなものをどうぞ」 「どれがいい？」 先生は冷蔵庫を開けて言った。 「えっと・・・ウェルチのオレンジジュースってまだあります？ 僕、それが好きなんです。ストロー差してもらえますか。片手しか使えないんで」 「これでいい？」 先生は紙パックのジュースにストローをさして持って来てくれた。 「ひどい・・・こんなに・・・」 受け取ろうとしたときに毛布が剥がれてギブスの先から出ている僕の右手が見えた。先生は息を飲んだ。なんてったって、僕が見てもビックリするくらいどす黒く腫れ上がっているんだ。 「ごめんなさい・・・ほんとうに、ごめんなさい・・・」 先生はベッドの傍らにひざまずいて涙を流した。 「先生のせいじゃないし・・・痛みもないから・・・心配しないで」 僕は左手を伸ばして先生の頭を撫でていた。 とくに意識してやったわけじゃない。自然にそうしていた。 嗚咽が病室に響く。先生はひとりの小さな女に見えた。スタイルもいつものスーツ姿じゃない。藍色のボーダーのカットソーにベージュの細いパンツをはいている。長い髪は後ろでひとつにまとめていた。看病のために着疲れしない格好をしているのかもしれない。 僕は、瞳や亜理咲といるような気分になって、つい先生の頬や首筋を撫でてしまっていた。 「あっ・・・ごめんなさい。つい・・・」 意外そうな顔をして先生が僕を見た。 「いいのよ・・・でも不思議・・・」 「すみませんでした・・・」 僕は謝る。だって、ほんとに無意識だったのだ。 「今井君に触られて・・・心が落ち着いたの。あたたかい気持ちが伝わってきたわ・・・」 「わかんないですよ。エッチな気持ちで触ったのかもしれないし・・・」 なんだか男として見られていないのが悔しかったのでギリギリの線で言ってみた。 「ううん。これでも教師だったのよ。高校生の男子が何を考えているかくらいはわかってるつもりよ。そういうマニュアルだってあるんだから。でも、今井君に対して負い目があるってことを差し引いても、今井君の手のひらからはあたたかさが伝わってきた。あなたはきっと特別な何かを持っているのね」 「そんな、買いかぶりですよ。僕だってエッチなことを考える普通の16才の男子だし、他の生徒と変わるところなんて・・・」 どうも今日はヘンだ。美菜子さんにはキスをされるし、水島先生とはキワドイ会話を交わしている。 「そっか・・・」 僕は自分に向かってつぶやいた。 「どうしたの？」 自嘲気味に笑う僕を先生は怪訝な顔で見た。 「いまの僕は安全なオスなんだなぁって思って・・・だって、そうでしょ。身動きはとれないし、せいぜい先生の頭を撫でるくらいが関の山だ」 「今井君・・・そんな気持ちで私のことを触ったの？」 「いえ。自然に手が動いていました」 「でしょ。それくらいは私にだってわかるわ」 「でも、ちょっと悔しいんですよ。男として」 「うふふ・・・おかしいわね。今井君にそんなこと言われるなんて」 「あっ・・・先生、笑った・・・」 「・・・そうね・・・すごく久しぶりのような気がする・・・今井君になぐさめられちゃった。ほんとうは、つぐなわなきゃならないのは私なのに・・・」 たぶん、あの事件から先生は笑ったことなどなかったに違いない。 「先生・・・」 「なあに？」 そう言う先生の眼に少しだけ光が戻ってきたように見えた。 「先生は笑ってなきゃ・・・やっぱり。僕も安心した」 「あなたって・・・」 先生は泣き笑いの顔になる。なんだかドキッとするほど色っぽかった。 「今井君って林さんと付き合っているのよね？」 「あ・・・はい・・・付き合ってるというか・・・」 考えてみたら水島先生には亜理咲とキスしているところを目撃されてる。 「やっと林さんの気持ちがわかったような気がするわ。最初は心配だったの。彼女って奔放って言うか、そういうところがあるでしょ？ だから、どうして彼女が今井君を選んだのか不思議だったの。でも、あなたが彼女の気持ちをリードしてたのね」 「そんな・・・買いかぶりですよ。また」 「文集も楽しみにしてたのに・・・」 先生の目からまた涙がこぼれた。 「先生・・・」 僕は先生の方へ左手を伸ばした。 先生はその手を握ってくれた。 「僕は文芸部に入ってよかったと思ってるんです。先生と出会えたし、楽しいことがいっぱいだった。そして、この怪我にだって感謝してる部分があるんです。いろんなことを考えることができたし、みんなの気持ちがうれしかった。生きてるって実感は怪我をしなきゃわからなかったかもしれない。だから・・・泣かないで・・・」 僕の言葉を聞いて先生はなんとも言えない顔つきになった。 そして僕に覆い被さってきて、抱きしめられた。 僕の顔は胸の谷間に埋まった。 汗が混じった甘い体臭が鼻孔を直撃した。 やっぱり今日はヘンな日だ。 |
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| 2012.4.28掲載 |
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