| 44 先生が帰った後も目が冴えて眠れなかった。 もし僕の身体が自由だったら一線を越えてもおかしくない状況だった。 僕は先生の背中に手を置いたままブラジャー越しの柔らかい肉を感じていた。 すごく興奮したけど、それは性的な興奮じゃなかった。って言うか、意識が戻ってからエッチな気分になったことはまだない。手負いの生き物はそんなものかもしれない。だいたい、あそこには管が通ってるんだから大きくなったら困る。 どれくらい先生に抱きしめられていたかはわからない。 目を覚ましたように身を起こした先生は、しばらく僕を見てから「おやすみなさい」と言い残して病室を出て行ったんだ。 その表情はモナリザの微笑みたいに妖しいものだった。 退院したい。はやく、この病室から解放されたい。なぜだか強くそう思った。 翌朝、母さんに手伝ってもらいながら食事を済ませた。親子で狭い病室にいるのは気詰まりだ。もう話すこともない。担当の医師が回診してくる。美菜子さんが一緒にいた。看護師さんって、やっぱり大変な仕事だと思って見ていたらウインクしてきた。 医師は、経過は良好なので、念のために脳波などの検査をやって、あとは骨の癒合を待つだけだと言った。お腹の傷ももう大丈夫らしい。1ヶ月もしないうちにギブスは取れるだろうし、その前でも松葉杖を使えば歩けるようになるという話を聞いて、母さんはよろこんだ。人の世話にならなきゃ排泄もできない境遇からオサラバできるのが僕もうれしかった。 昼過ぎに、瞳と亜理咲にその話をすると二人ともうれしそうだった。 ただ、亜理咲は僕のウンチの世話もしたいと言い出して参ったけど。 僕は昨日あったできごとを当たり障りない範囲で二人に話した。つまり、キスされちゃったことだけ秘密。 看護師さんの話題にはあまり乗ってこない二人だったけど、水島先生のことになると身を乗りだしてきた。 昨日、瞳が遅れてきたのは学校に行っていたからだという。受験を控えているから、どうしても出なきゃならなかったらしい。瞳の話では、それほど騒ぎになっているわけじゃあないそうだ。プータローをしている水島先生の弟が金をせびりに来たところを目撃されて逆ギレして僕を襲ったという話になっているそうだ。だからスキャンダルというよりかは、水島先生も被害者のひとりだと思われていて、学園内は僕と水島先生に同情的らしい。 「そうだよね。あんなことバレたら大変だ。僕らも、うっかり口を滑らさないように注意しなくちゃ」 「そうじゃなくても水島Tは被害者だよ。だいたいウワサする連中なんて根も葉もないこと言い出すから、あたしはこのことについて何にも言わないことに決めたの。じつは、あたしも学校を辞めようと思ってるんだ」 「ええっ！！」 亜理咲の爆弾発言に、僕と瞳は同時に声を出していた。 「亜理咲ちゃん、学校辞めてどうするの？」 「うん。けっこう前から考えていたことなんだけど、知り合いの花屋さんでバイトしながら夜間に通おうと思ってたの。だって、あたしにとって白鳥学園はユーイチローと瞳がいるところで他に意味がないし、二人とは瞳の家で一緒にいられるし、この事件で学校へ行くのも嫌になっちゃったの。バイトは延期して、あたしはユーイチローの看病するよ」 たぶん、亜理咲は言い出したら聞かない。そんな感じがした。 「だって、亜理咲ちゃん、成績だっていいし・・・」 そうだ。意外かもしれないけど、亜理咲の成績はいつも上位の方なんだ。 「成績なんて関係ないよ。あたしは専門学校へ行って資格を取るつもりだし、だったら夜間でもいいかなって」 「そう・・・」 瞳も感じていることは僕と同じみたいだった。 「僕は応援する」 「えっ・・・」 瞳が驚いた顔をした。 「瞳には弁護士になるっていう目標がある。だから成績も気にしなきゃいけないし、僕は瞳の気持ちを応援する。おんなじにアリサの気持ちも応援したいんだ。僕らが付き合うようになって、亜理咲が自分から将来のことを具体的に言い出したのは初めてだと思う。これは、きっと、いい傾向なんだよ」 「そうね・・・そうかも・・・」 亜理咲は成長している。バイトがしたいといったのも、瞳の家に世話になりっぱなしなのが心苦しいんだと思う。亜理咲は亜理咲なりに、これからのことを考えて実行しようとしている。お兄さんにDVを受けて捨て鉢になっていたころに比べれば大きな進歩だ。 瞳も、きっと僕と同じことを考えている。 「瞳ぃ・・・」 「なに？」 「あたしはユーイチローの看病がしたい。けど、これはユーイチローを独占したいからじゃなくて、瞳のことも考えてのことなんだよ。あたしだってユーイチローと同じで瞳が志望校へ行くのを応援したいんだ。いまのままじゃ、瞳が心配だよ」 「うん・・・」 瞳は考え込んでしまった。 「瞳・・・ここで勉強するって言ったじゃない。だったら一緒にいようよ。僕らは邪魔しないから」 「でも・・・それじゃ悪い気がして・・・」 「そんなことないよ。僕は瞳がそばにいてくれるだけでうれしいし、アリサだって同じ気持ちだと思うよ」 「いいの？」 「当たり前じゃないか。アリサ、いいだろ」 「うん。そうしようよ。三人が三人とも同じ方向を向いてなくても、あたしたちは家族なんだし、一緒にいようよ」 「うん・・・ありがと・・・」 僕は亜理咲の言葉に感心していた。彼女は直感的に僕らの方向を示してくれたような気がした。 瞳は窓に面したテーブルで参考書をひろげて熱心にノートを取りはじめた。 アリサは、また僕の身体を拭いてよろこんでいた。 そうこうしているうちに日が暮れて、夕食の時間の時間を告げるアナウンスがあった。 「あっ、そうだ。瞳がチャーハン作ったんだよ。みんなで食べようよ」 亜理咲が言った。 「約束、覚えていてくれたんだ」 「だって、言ったら悪いけど、病院食って悲しくない？」 やっと瞳も元に戻った感じだった。 「水島Tって、ごはんどうしてるのかな？」 亜理咲がポツリと言った。 「たぶん・・・あの様子じゃ、まともに食べてないと思う」 「ねぇ、瞳。水島T呼んじゃダメ？」 亜理咲は意外なことを言い出した。 「えっ・・・ダメじゃないけど・・・来るかしら？」 「あのさ・・・あたし思うんだ。いまの水島Tを救えるのは、あたしたちじゃないかって・・・あたしたちだけかも・・・」 「たしかに・・・そうかもしれないけど・・・」 瞳は思案顔だ。 「あたし、呼んでくるよ。いいよね、ユーイチロー」 「うん」 たぶん、亜理咲は水島先生に対して似た環境にいた仲間意識みたいなものがあるのかもしれない。僕には反対する理由がなかった。 「来るかな？」 病室を出て行く亜理咲を見て、僕は瞳に言った。 「わかんない・・・」 「それより、アリサは成長したと思わない？」 「そうね。そう思うわ」 「僕はみんな瞳のおかげだと思ってるんだ。瞳がいなかったら、アリサはどうなっていたかわからなしし、僕だってさえない男子もままだった」 「そんな・・・私の方こそ・・・」 「僕は、なにか運命みたいなものを感じる。もしかして怪我をしたのだって、なにかを得るための試練じゃないかって思ったりもするんだ。だから無理に運命をねじ曲げたくない。僕らと水島先生の関係だって普通じゃないから・・・亜理咲の言う家族じゃないけど、もしかしたら仲間みたいなものなんじゃないかと思う・・・あのまま水島先生を悲しみの底に放っておくのも気になるし」 「そうね。雄一郎の言いたいことはわかる。私たちにできることは、してあげるべきね。すくなくとも私たちが先生の敵じゃないってことは知ってもらわないと」 瞳の瞳が輝いていた。ややこしいなぁ。 「そうだよ。さすが、やっぱり瞳だね。僕はずっと心配してたんだ。見舞いに来てくれてから様子が沈みがちだったから。でも、いまの瞳は、いつもの瞳だ。安心したよ」 そんなことを話してると廊下の方から声がした。 「だいじょぶだから。ユーイチローも瞳も大歓迎だよ」 「でも・・・」 水島先生は病室の入り口まで来てためらっているみたいだった。 瞳が立ち上がった。ドアの方へ歩いていく。 「先生。どうぞ。待っていたんです」 瞳の声には凛とした響きがあった。 「じゃあ、ちょっとだけ。吉川さんや林さんには話をしたいことがあるし・・・」 水島先生は遠慮というよりかは、瞳や亜理咲に対しても罪の意識を持っているらしいことが声を聞いているだけでわかった。 「先生、まずは一緒にごはんを食べましょう。お腹が空いているときの思考って攻撃的になって本意ではない判断をすることもあるそうです。逆に、食べたあとは幸せな気分でお話しできますから」 やっぱり瞳はすごいと思った。目的を遂げるための道筋を作って誘導するのがうまい。きっと瞳ならすごい弁護士になれるだろうと思った。 亜理咲はタッパーを開けて食事の用意をしている。瞳と通ずるものがあるんだと思った。 「ほんとうに・・・いいの・・・かしら？」 「遠慮しないで。僕らは先生と一緒に食べたいんだから」 「うれしい・・・」 僕が笑って言うと、先生の目に涙が溢れてきた。 「先生、私が作ったからお口に合うかわかりませんけど、どうぞ」 チャーハンの他にもカラアゲや卵焼きがいくつかのタッパーに入れられてテーブルの上に並んでいた。 「あたしも手伝ったんだよ」 亜理咲がニッと笑う。 一瞬、ここは病室じゃなく、学校の図書室なんじゃないかと錯覚した。 「あっ・・・」 何かを思い出したような先生の顔。その頬には涙が伝わっていた。 「先生も思い出したんだね」 「ええ・・・」 水島先生はうなずいた。 「学校じゃなくても僕らの場所は作れるんですね。先生、僕らの気持ちは以前と変わっていないんです。いや、むしろ、先生をもっと近く感じているし、心配もしてるんですよ。ひと・・・いや、吉川先輩も林先輩もおんなじ気持ちでいるんです」 亜理咲は、うんうんとうなずいている。 「みんな・・・ありがとう・・・教師をやってよかった・・・」 先生はそう言うと椅子に座った。 瞳が作ったチャーハンは美味しかった。母親が仕事をしているせいで手料理を食べる機会が少ない僕にとってこの食事は特別なものに思えた。 「すっごくおいしいよ。瞳にはこんな才能もあったんだね」 亜理咲に手伝ってもらいながら僕は言った。 先生が不思議そうな顔をした。「しまった」と思ったがそのままにしておくことにした。 「先生、ちゃんと食事してた？」 僕は瞳を呼び捨てにしてしまったことを誤魔化すため話を先生のことに振った。 「えっ・・・ええ・・・なにを食べたか覚えてないけど・・・」 「だめだよ、ちゃんと食べないと。入院してわかったことだけど食事は大切なことなんだ。おいしいものを楽しんで食べると気分が変わるよ」 「そうね。みんなの気持ちもうれしいわ」 先生はそう言って食べはじめた。 とくに会話はなかったけど悪くない雰囲気だった。 「ごちそうさま。吉川さん、林さん、そして今井君。あなたたちには謝らなくちゃならないのに、こんなにしてもらってお礼の言葉もないわ。ありがとう。そして、ごめんなさい。みんなから学校を辞めないで欲しいって頼まれたときにはうれしかったし元気も出た。でも、状況が変わって、もう私は白鳥学園の教師ではなくなりました。あなたたちみたいな生徒がいて教師としては幸せだった。これからのことはまだ決まっていないけど、こうして、あなたたちがよくしてくれたことは忘れない。あなたたちの気持ちに応えるためにもがんばるわ」 食事が終わると先生は立ち上がって僕らにそう言った。 「先生が責任を感じてしまうのは仕方のないことかもしれません。でも私たちは先生を責めようとは思っていません。むしろ、その反対なんです。ほんとうは学校も辞めて欲しくなかった。けど、心ないことを言う人はいるでしょうし、これも仕方のないことだと理解できます。私たちが関わったことで先生の人生を変えてしまったことに、これでよかったのかという迷いもあるんです。私たちがよかれと思ってしたことですが、結果はこんなことになってしまいました」 「あなたたちには、なんの責任もないわ。いけないのは孝。そして、私のだらしなさ。それが、あななたちに迷惑をかけ、今井君には大怪我までさせてしまった。とても許してとは言えない・・・」 瞳の言葉を聞いて先生は力なく言った。 「先生、昨日も言ったけど、責任とか加害者とか被害者とか、そういうことを言うのはやめようよ。すくなくとも、ここにいる三人はそんなことを思ってもいないし、ここにいる人以外は部外者だから言う権利もない。対外的には難しいこともあるんだろうけど、僕らはこうして先生と食事ができてよかったと思ってる。先生は自分のことを第一に考えるべきだよ」 「うん。あたしも謝って欲しくない。水島Tのせいじゃないし、辞めるのは納得できないけど・・・あたしは先生のこと応援するよ」 亜理咲の言葉に、やっぱり僕らの思いは一緒なんだと思った。それが水島先生にも伝わったらしい。先生は小刻みに肩を震わせて泣いていた。 これからどうするのか、僕らはどうすればいいのか、具体的な話は出なかったけど、ひとつの方向性というか意志みたいなものは確認できた。 水島先生は僕らにお礼を言って病室から出て行った。 夜も更けて面会時間が終わり瞳と亜理咲も帰った。 |
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| 2012.5.5掲載 |
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