保育士だった人妻

はちみつ太郎 作
１

「おはよう、たかしくん。」

「先生、あのね、さっきねぇ、おかあさんがね、ブッってした。」

「たっくん、やめてもぉ。」

「はは、お母さん、おはようございます。お熱が下がったようですね。」

「ありがとうございます、保育園の先生から昨日みたいな電話があると、びくっとしますよ。」

「たっくんは、あわてんぼですからね、指挟んだり、ねぇ。」

「しょうこせんせ、もう、お熱ないよ。」

「あ、ほんと、じゃぁ、お部屋まで競争だっ。」

「うんっ。」

　２歳後半の幼児は、保育士の後を懸命に追いかけている。すこし、食い込み気味の女性保育士の薄いパンティーラインを横目に見るのは、後から来る男親の保護者だけで、二歳児の男の興味はそこにはなかった。

　女性保育士は、男の子に追いつかれるとお尻を叩かれながらも手をつなぎ小さな椅子のならぶ部屋へと入っていった。

　手をつなぎながら入った自分の部屋の向かいには、４歳児のクラスがあった。そこには、男の子とじゃれあいながら戦隊物の変身を間違うことなくやってのける男性保育士がいた。

　少し、視線が合うと、軽く会釈をする。そこにはまだ、同僚となって４，５日しかたたない感じのよそよそしさがあった。


　夕方、延長保育の子供たちを、ひとつの部屋に集合させる。自分の役割が終わると、着替えることなくロッカーからかばんなどを取り出し、駐車場へと歩を進める。

　買い物や、晩御飯のことを考えながら玄関にむかうと、決まった時間のお迎えの母親たちがお話中だった。

「江藤先生のクラスでよかったーうちの子。」

「いいなぁ、うちは・・・隣だもん。」

「河上先生だったっけ。」

「うん、あんまり評判・・・よくない・・・。」
　言葉をさえぎるようにした保護者の背後を通り過ぎると、顔を覗き込まれた気がした。

「さようならぁ。」

「あ、さようならぁ、立川先生ですよね？」

「あ、はい。・・・４月から赴任してきました。・・・らいとくんのお母さんですよね。」

「えぇ、これからお世話になります。」

「いえいえ、こちらこそ。」

「立川先生は、独身？」

「い、いえ、既婚です。」

「お子さんは？」

「ま、まだです。早くほしいんですけどね。」

「お若いんでしょ？」

「いえ、今年で２７なんです。」

「えぇぇ、もっと若く見える、スタイルいいし、家のだんなが今年は張り切って迎えに行くとか、送っていくとか、めんどくさがらずに言うはずだわ。」

「そ、そうなんですか・・・ははっ。」
　保護者の視線は、なめるように下から上に二度ほど繰り返した。その視線の向こうに本当の目的が見えた時、形ばかりの挨拶を受け開放された。

　彼女らが纏わりつき始めたのは、江藤という男性保育士で、さわやかでスポーツマンという母親受けの良い男が現れたからだった。

　江藤に会釈をすると、下の名前で挨拶された。

「笙子先生、またあした。」

「あ、はい、さようなら。」
　纏わりついた母親たちが怪訝そうな顔で笙子を見返す。と、江藤はその雰囲気を察知したか、取り巻きに説明する。

「あ、立川先生って２人おられるんですよ、補助担当の先生と、だから下の名前で・・・。」

　取り巻きは、軽く納得すると、再び笙子に向かって挨拶を繰り返した。

「さようなら、立川先生。」

「失礼します。」
　背後の同姓の視線は、もう感じられない。が、もうひとつの視線は、かすかながらお尻あたりに感じ取れた。



　夕方、家の近所のショッピングセンターには、多くの買い物客がある。その中から呼び止められる声が聞こえ、手に取ろうとした食品を戻した。

「立川先生。」

「あ、浜田先生、１週間ほどなのに、なんか久しぶりに感じますねぇ。」

「そうね、担任と副担任で１年間みっちりだったからね、どう、村野の感じ？」

「山百合より園児が多いので、結構大変かなぁ。子供たちはいい子なんですけどね。」

「担任って初めてだもんね。相談乗るよ。」

「ありがとうございます。」

「ところで、・・・。」

「ところで？」

「どうよ、男前の先生。」

「え？」

「え、じゃないわよぉ、江藤先生。」

「あぁ、人気ありますよ。子供にも保護者にも。」

「よねぇ、私も転勤したかったわぁ。」
　浜田という年配の保育士は、天を仰ぐように乙女の表情をしている。

「立川先生も独身なら、お似合いのカップルって感じなんだけど。」

「えぇ、そうですかぁ。」

「そうよ、今だから言うけど、山百合の今田先生、あなたのことばっかり見てたのよ。写真なんかも結構撮ったりして。」

　笙子は思い当たるふしがあったが、浜田にはそれを漏らさなかった。あまりいい視線ではなかったので、あからさまに遠ざけていた。内心、転勤できて安堵していたとこもあった。

　浜田と別れると、買い物を続けていく。夫からのメールを覗くと、もう帰宅している旨を伝えていた。絵文字もなく事務的なメールに違和感を感じながらレジに向かう。

　数千円の買い物を終えると、軽自動車に乗り込み、１０分ほどで自宅についた。

　昨年末に新築した、小さいながらも二人の愛の巣であった。名義は、共同で持分は半々だ。

「ただいまぁ、昇さん、早かったねぇ。」

「あぁ、・・・晩御飯、何？」

「あぁ、時間ないからカレーでもいい？」

「いいよ。」

　夫の昇は、始まったばかりのＣＳの野球中継を漠然と見つめていた。いつもなら、一球ごとに文句を言いながら見ているのに、今日は何一つ発しない。

　準備が調いテーブルに着くと夫の昇は笙子にボソッとつぶやいた。

「祥子、俺、リストラされる。」
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2013.12.7掲載
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