その１０　江川さん


　さすがに新築のマンションだった。
　凍てつく風が吹きすさぶ外の世界など知らぬ顔で、温水式の床暖房が部屋全体を暖めている。
　もともと、雪はたいしたことがなくても、底冷えする寒さのこのあたりでは、冬場、都心では信じられぬほど家の中を暖めておく。
　だから、部屋の中では、上着どころか、薄いシャツ一枚で十分。
　成美は夫に頼まれた通り、お気に入りのミニワンピを着て、何くれとなく酒の面倒を見ていた。
　その仕草には、新妻の初々しさを、まだまだ残したまま、一方で、性の味を覚えた人妻の、匂うような色気がそこはかとなく漂っている。
「がはは！」
　だみ声、とまでは言えないが、いかにも現場で鍛えましたという太い笑い声が栗本家のリビングに響いていた。
「いやあ、栗本君が、ホントに、うらやましい。こんなに美人で、おまけに料理まで抜群に旨い！」
　赤ら顔で、上機嫌の江川は、ぐいぐい飲んでる。
「はい……　え〜　まあ、はぁ」
　酒に弱い栗本は、さっきから、もうフラフラで、会話も相づちが精一杯になっていた。
　自宅にお招きしたお客様のもてなしは、妻の務めだと母親からしつけられている成美のことだ。夫を無理矢理起こすことも、なんとか帰ってもらうことも考えられない。
　ひたすら「お客様」に合わせるしかなかった。
　少しばかり笑顔が引きつっているかもしれないが、ともかく、アルコールと、暖かい室内のせいで、成美の頬はほんわりとピンクにそまり、一段と男をそそる表情だ。
　だが、人妻の色気がほのかに匂うその顔に「微笑」や「愛想笑い」を懸命に貼り付けている成美だった。
「いやだわぁ、おじょうずなんだからぁ」
「いや、お世辞じゃないよ。いやあ、もう、この手だって、なんてキレイなんだ。この手で握られたら、あっという間に出しちまうだろうなぁ」
「え？出す？え？何を……　あっ……　あの……あ、あ！　……あの、もうひとつ、いかがかしら」
　いくら成美が、そのあたりのエッチ系に鈍くても、「出す」の意味くらいはわかる。まして、こんなにスケベそのものの表情で、下ネタを繰り返されればなおさらだ。
　とはいえ、一瞬、間が空いて、下ネタをマジメに受け止める人妻の反応が面白いのだろう。
　さっきから何かというと、話がそっちに行く。
　成美は、密かに顔を引きつらせて、それでも、にこやかな人妻の愛想を絶やすことなく場持ちに励むしかない。
　だが、夫が、ほとんど酔いつぶれかけているのを良いことに、下ネタと、お触りが、一段と頻繁になってきていた。
　成美は、さりげなく、その分厚い手をかわして、セクハラ発言もスルーしつつ、酌をするが、その手をすかさず、さささっと撫でられてしまう。
『もう〜　しつこいんだから』
　酒をついでいる間は、逃げることもできない。
　その手をサラッと手を握られ、撫でられる程度は、あきらめるしかないのだ。
　笑顔の裏で、どうしたって目が険しくなってしまうのだが、江川は知らん顔。
　相も変わらぬ、一人、上機嫌。
「いやあ、たまらん、たまらん。ほんとうに、今日の酒はうまいですよぉ、奥さ〜ん」
　ひとり、呵々と笑い、コップ酒をゴクリと半分、一気に飲み下した。
　中年太りの身体に、丸っこい顔。
　江川は、お世辞にもイケメンとは、正反対のタイプだ。
　とはいえ、ひどく愛想のあるドングリ眼をクリクリさせた笑顔は、独特の愛嬌があって、憎めないと言えなくもない。
　だが、だからといって、清潔感のある色気がほのかにの漂う部下の妻を、こんなにお触りする男もあまりいないだろう。
　もちろん、酒の席で酔っ払いのやること。
　こんな時「酒の席の殿方の失態は見て見ぬ振り、女は我慢するモノだ」と躾けられてきた成美だった。
　おまけに、この独特の愛嬌も、真面目な成美が、バクハツしないですむ原因かもしれない。
　なんといっても、さっきから、その分厚い手は、これで何度目かも分からないほどしつこく、華奢な手も、人妻の魅力的な身体のあちこちもタッチし続けていた。
　そのたびに、ツっと逃げてはきたが、全く触られないわけでもないのだ。
　ホンの既に、腰も、尻そのものも、背中も、肩も一瞬のタッチは、数え切れないほど。
　乳房こそ、ガードを堅くして触られていないが、桜貝の耳たぶも、細い首筋も、一瞬のタッチを受けて、ゾクッとする一瞬など、いくらでもあった。
『すっごくヘンな触り方なんだからぁ』
　その手つきは、人妻の感触を楽しむと言うより、まさに、相手を感じさせようとする、エッチなさわり方そのものなのだ。
　成美は、その違いにはっきりと気づいてないが、身体は微妙に反応してしまうのが、人妻の敏感な身体というもの。
　分厚い手に、サッとタッチされる度に、なんだか、だんだん変な感じがしてくる気がして、落ち着かなくなっている。
「う〜ん。ほ〜い、ほい。うまい酒だなあ。うんうん、いや、本当にうまい」
　ゴクリと旨そうに飲みほしては、ドングリ眼でおどけてみせる。
　憎めないスケベ親父だ。
　あからさまに怒れない以上、にっこり、愛想笑いを返すしかない。
『スケベだけど、悪い人じゃないって感じなのが救いかな』
　酒に弱い夫が、もう、もうろうとしてるいるのをチラリと見る。
　ここで成美が怒って、夫に気付かせてしまえば、まずいことになるのは目に見えている。妻を触られて夫が怒らないわけはないのだ。
『お仕事のこともあるもの。後々を考えれば、さりげなくかわし続けて、私がちょっとだけ我慢していれば、それが一番よ、ね』
　なんと言っても、江川は、こう見えても、わざわざご招待したダンナ様の上司なのだ。
「美人の奥さんも〜　ほらぁ、少しはつきあってくれないと〜」
「え、あ、あの、いただいてますわ、ほら」
　ちょぴっと舐めて見せる杯。
　わざわざ、手を取って、酌をしようとしてくるのを、サッと手を引っ込めてかわそうとしたが、杯に半ば残った酒がこぼれそうで、手を避けるのもままならない。
　とっくりを近づけられたら、受けるしかないのだ。
「ほら、もっと、もっと、さ、飲んでね〜」
　太い指先が器用に指の股を撫でながら、さらに酒をついでくる。
「あ、も、もう、もう」
　ゾクゾクした。
　覆わず、ヒクンと肩をすくめてしまいそうになる。
　ほんのりアルコールで濁った頭だと、きちんとガマンしようとしてないと、危うくヘンな声が出かねない。
『あん、もう〜』
　サラサラサラ。
　その絶妙のタッチに、悲鳴を上げそうだった。
　短いＯＬ生活だったが、酒の席で、酔ったスケベ親父に尻の一つも撫でられたことくらいはある。
　それに、男というのは、普段、どれほど真面目であっても、ひとたび酔っ払えば、女性の肌が恋しくなるものだということくらい、分かっている。
　だから、普通なら「その程度のこと」を、気にする成美ではない。
　ところが江川は、気にするとか、怒るとかいうレベルではなく、とことんマメに、しかも絶妙なタッチで触りまくってくるのだ。
『いやん、何なのぉ、この人。あ〜ん、こっちがエッチになっちゃいそう』
　身体の奥の「芯」に、ほんのりと小さな種火をともされた。
　そんな気持ちさえなってしまいそうなのだ。
　無意識のうちに、ミニワンピの下の生足を、こすり会わせてしまう仕草をしてしまってから、慌てる成美。
『あ、あれ？ひょっとして、見られた？』
　ねっとりした視線が、一瞬、太ももを見下ろした気がしたのだ。
『気がついて、ないよね？』
　何気ない仕草に見えたはずだが、子宮の奥にともった、妙な感覚に負けての、無意識の仕草を見られていたら、恥ずかしい。
　なんていっても、あっちこっち触られて、感じてしまったのを悟られてしまうからだ。
『違うもん。私、そんな人じゃないもん』
　だが、気になってちらっと江川の視線を見上げる自分の目が、ねっとりと潤みはじめていることに、成美は気づいてない。
「あっ」
「おっとと、すみません」
　成美の注意がそれたせいだろう。
　酒がぽたりと太ももにこぼれたのだ。
「ごめんね」
　とっさに、台ふきをとろうと左を向いた瞬間、ゾクリと背中を突き抜ける電流。
「ひっ」
　危うく、上げてしまいそうになったピンクの声をかろうじて飲み込んだ成美が見たのは、自分の太ももを、さっと指でぬぐっている江川の手。
「あっ」
　ぽたりとこぼれた酒は、指ですくい取られてる。
　いや、むしろ、太ももを愛撫したついでに酒をすくった動き。
　あまりにも堂々とした、素早い動きに、とっさに非難の声も出ない。
「すみませんね、ちょっと酔っ払ってしまったようで」
　すみませんといいながら、太ももをぬぐった指をぱくりと口に。
「いやあ、うまいなあ、実にうまい.今夜の酒は実にうまいよ〜」
　その仕草が、ひどく淫靡に見えてしまった。
　まるで、太ももを直接舐められでもしたような、そんな気さえした。
「あ、あの」
「ほい？何か？もっとこぼしちゃう？どこどこ？」
　太ももにあからさまに手を伸ばしてくるのを、慌ててかわした。　
「え、あぁ、いやあ、ごめんなさい、そんな」
　しどろもどろとはこのことかもしれない。
　指でぬぐわれた場所に、わずかな熱が発生した気がしていた。