その１２　キッチン・パニック


『油断よ！』
　最初に頭に浮かんだのはその言葉。
「あんっ」
　運んだ洗い物を、シンクに置こうした瞬間、いきなり、お尻をさっと、撫で上げられたのだ。
『いつの間に忍び寄ってきたのよ』
　いきなりの、尻を撫でられる感触に、小さく声が出てしまった。
『ううん、感じたわけじゃないのよ。断然違う。ビックリしただけよ』
　とっさに、自分に言い訳をするが、ピンク色の電流が走ってしまったことは自分が一番よく知っていた。
『彼が、ずっとご無沙汰だったのがイケナイのよ。きっと、そうだわ』
　今さらながら、セックスレスが恨めしい。
　成美自身も、何で、そんな言い訳を自分にしているのか分からない。
　だが、問題は、その間も、当然のように尻をなで続ける、江川だ。
『いっけない。触られてるのを何とかしない』
　ようやく思い出したのも、あまりにも、触り方が、堂々として、それでいて絶妙なせいかもしれなかった。　
　成美はようやく、この手を離させなければと頭が回った。
「びっくりしちゃいましたよ。どうなさったんですか？」
　さすがに、小さく、おトガメの口調になるのを自覚している。
　チラッと後ろを振り返ったが、尻を這い回る手を、パンと一撃して弾き飛ばすことができなかった。
　少しだけ……
　ホンの少しだけだが、その絶妙な手の感触で、感じてしまった自分を、相手に悟られる気がしたのだ。
　だが、江川は成美の尻を目の前に座り込んだまま、ドングリ眼をぱちぱち閉じたり開けたり。
　噴き出しそうになった。
『あら、やだ、それ、ウインクのつもりぃ？』
　一生懸命、ドングリ眼の片っぽだけつぶろうとして、ついつい両目をつぶって見せるのは、どうやらウインクをしているつもりらしいのだ。
　赤くなった顔全体が、一生懸命、ぎこちない準備体操をしているような動き。
『あん、この人、片目を閉じようとすると、反対側も閉じちゃうのね。何か、こんなウィンク。ヘンだけど、面白いかも！』
　このふっくらした身体全体に浮かんだ、ご愛嬌なのかもと思ってしまうと憎めない。
　このあたりが、江川の、そう、大事な旦那様の「上司」の上手いところなのだろう。
　完全なセクハラ親父のクセに、なんだか、愛想というか、愛嬌というか、なんだかまともに怒ってはいけないような、独特のユーモラスな雰囲気があるのだ。
　だが、夫だけが触って良い人妻の身体を、好き放題に触ってくるのは「いけない手」であることは確かだ。
　その時、とっさに成美は思い出してしまった。
『あ、でも、そういえば、昔、触られたこともあったっけ……』
　混んだ山手線で、学生時代と、ホンの短いＯＬ時代に、チカンに触られたことがあったのだ。
『でも、こんなにしつこく、何度も触られたことなんて無かったわ』
　相変わらず、ドングリ眼のウインクをしながら、その分厚い手は蠢いている。
　何とか、穏やかに手を避けようと、尻を動かすが、突いてきて、触り続けてくる。
『そりゃあ、ね、一応は、社会人経験もある人妻ですもの。酔っ払いに、お尻を撫でられたくらいで、怒ってみせるのも大人げないって知ってるつもりだけど』
　あまりにも、露骨だったのだ。
　だが、ここで騒いで夫を起こしてしまえば、上司と気まずくなるのも目に見えている。
『酔っ払いのすることだもの。あんまり、怒っても、大人げないし』
　相手が旦那様の上司ならなおさら、多少のことには耐えてみせるのが、妻の務めというものだと成美は思ってしまった。
　今、洗い物に立つ成美の後ろにしゃがみ込みながら、サッと撫で上げた手が、なんだかスイカでも持っているみたいに、尻全体の感触を確かめて、グッと掴んでいた。
　あまりの大胆さに、理性は、とっさに怒る言葉を探してしまうほど。
　だが、触られてるお尻は、持ち主の意志とは無関係に、別の反応をしてしまっていた。
『あんっ、だめ！』
　ぶっとい指で、スイカをつかんでいるみたいな手つきのくせに、その指先が微妙な強さで、おしり食い込んで動いていた。
『なんなのぉ、この指ぃ』
　ウエストからおしりにつながるカーブを押し込んでくる指先から、微妙な電流が流れてきた。
　一瞬、口をキッと、引き結んで、声を飲み込んだ。
　さもないと、思ってもみないような声が出そうだったのだ。
　ゴクリ。
　一息の見込んでから、ようやく、尻を触る、夫の上司をたしなめた。
「あの、えっと、ちょっと、あの、ね、おやめに……」
　どういう声で言えば良いのか分からない。
『え〜ん、いったい、どう、たしなめれば良いのよ！』
　ここまで露骨にセクハラされたコトなどなかった。
『こんなの、考えたこともないよぉ〜』
　だけれど、相手は夫の上司で、しかも酔っ払い。
　思わず、どこまで怒りの言葉を出していいものかどうか、ためらう成美。
「いや、奥さんのお尻を見ているとですね。いやあ、良い尻だなあ」
　とっさに、成美の目がキッとなって怒りが浮かぶ。
『いったい、何を言い出すのよ。この人。彼が聞いたら、どんなことになるか……』
　そこに思い至って、成美は、振り返ったのだ。
『あれ？あなた？』
　成美の考えが分かったのだろう。江川は、尻を触りながらら、のんびりと、しかし密やかな声を上げたのだ。
「ああ、栗本君なら、少し横になるって。ほら」
　いつの間に移動したのか。
　声に促された方を見ると、和室に続く戸が、開きっぱなしになっていて、そこには夫の脚が、わずかに見えた。　
『完全にダウン、みたいね』
　成美の夫は酒に弱い。
『朝まで、ううん、多分、あのペースで飲んでたから、明日のお昼間では完全にダウンしちゃうかも』
　何か掛けて上げた方が、と頭に浮かんだ瞬間、成美は、おしりを掴まれたままだったのを思い出す。
「あの……　えっと……」
　まるでスイカかカボチャを掴んでいるような感じだ。
　妻のお尻をこんな風に掴んで良いのは、夫だけなのだが、ここまで露骨にされてしまうと、逆に戸惑ってしまうものらしい。
　とっさに成美は、動けなかったのだ。
　夫が隣の部屋で寝ている、我が家のキッチン。
　さすがに身の危険は感じないが、尻を掴んだままの、夫の上司に、どう反応して良いものか。
『まさか「ヘンタイ！」って、ホッペをひっぱたくわけにもいかないし……』
　人間というのは、ここまで大胆にされるとかえって、とっさ抵抗できないのかもしれない。
　困惑する成美にかまわず、江川のうれしそうな、それでいて、ちょっと心配そうな声が、聞こえた。
「うん、うん。奥さんの腰、すごく魅力的なんですけど、これは……　ちょっと困るかも、ですよねえ」
「え？何かあるんですか？」
『人のお尻を掴んどいて、何が困る、よ！』
　成美だって、それなりに怒りはある。だが、こんな状況では、生来の人の良さもあって、怒りを素直に出すのは苦手なのだ。
　怒るよりも、その感情をグッと飲み込んで、そして、怒りを見せられなかった自分に悲しむことの方が多いのだ。
　だが、さすがに気が付いた。
　江川の表情だ。
　さっきまでのうれしそうなスケベ親父の顔が、表情を曇らせている。
『これ、なんだか、お尻を触りたいからってだけじゃないの？』
「奥さんのお尻は、とっても形が良いですけど。ちょっと、子宝にね……」
　ドキッとした。
「子宝」という言葉。
『え？いったいこの人は何を言いたいの？』
子どもほしさに、恥ずかしい検査も乗り越えた。だけど、いまや子作りどころか、セックスレスになっている成美にとって、その言葉の刺激は大きい。
『なんで、お尻を触って、子どもの話になるの！気にしてるのに！』
　さすがに、心の中の何かが　プチっと切れそうになった。
　だが、それに気がつかないのか、江川は、真面目な顔で見上げてくる。
「いやあ、あの、オレは、骨相学と気功を勉強してるんだけどさ、奥さんの腰骨のカタチとお尻がさあ」
　手が、尻から腰に掛けて、何度も往復しながら、何かを確かめるような手つきになっていた。
「ほら、この気の流れ。これだと、子宝に恵まれるにはちょっと、あ、いや、失礼なんだけどさ。気になってね」
『ドキッ。子宝に恵まれない相なの？私？ウソっ』
「そ、そうなんですか」
　気にしていることをズバって見抜かれると、人間は、とっさに反応できなくなってしまうものかもしれない。
　それに、あまりにも真剣な目だった。
　何かを試すように、人妻のたおやかな腰を撫でまわし、尻肉を掴んで見せている。
　それが、今は、エッチな感じが全くない。真剣な表情だった。
『エッチな目をしてれば、パッとふりほどいちゃえるんだけど』
　何かを真剣に調べてるような感じがしているのだ。
　それでなくとも「子宝」という言葉。
　不妊をずばり言い当てられれば、とっさに、パッと振りほどけるものでもない。
『どうしようっ。何か、私、あるのかな？あ、でも、こんな風に触られても』
「うん。オレはまだまだ未熟だけどね。いや、失礼だとは思うが、この先、なかなか子宝に恵まれないなら、医者に早めにいくといいよ」
「そ、そうなんですか？」
　相変わらず、真剣な表情で見上げてくる。
　だが、言っていることも、表情も真剣なのに、腰を撫でまわす手が、いつのまにか、なんだか、イヤらしくなってきている。
　成美の理性は気が付かなくても、身体は敏感に感じていた。
「うんうん。もともと奥さんの、ほら、この腰からのラインがですね」
「あん、ちょ、ちょっと、あの、そ、それは」
　スカートの上からだが、腰を抱えた手が、そのままウエストラインまで、サッと撫で上げてきたのだ。
　それに、やはり、生理前の身体で、しかも、まずいことに、思ってもみないほど酒が入っていた。
　そして、人妻のその身体は、夫に、じっくりとセックスを開発されてきている。
　おまけに、こうやって、愛撫されるのも久しぶりのセックスレス状態。
　ここ数日は、年末年始を超えて、一人エッチもご無沙汰ったせいか、人妻の肉体は、快感に飢えていたのかもしれない。
びりびりするような快感が、ウエストの敏感な肌から生まれきてしまう。
『え？あ、いや〜ん、違うのよ、違う。これは愛撫じゃないの。感じたりしちゃダメなんだから〜』
　サラサラサラ。
「うぅ」
　歯を食いしばる。
　生地の薄いワンピースは、手の微妙な感触を、これ以上ない絶妙な形で伝えてしまう。
「あぁ」
　ヒクンと身体のどこかが震えた気がした。
『このままだとぉ、私、ヘンになっちゃうかも』
　成美は、結婚してから、いや、つい最近、思い知っていた。
　もちろん、夫しか知らない、いや、ひょっとすると夫すら知らないことだが、成美の身体は、自分で思ってる以上にエッチになってしまう時があるってコト。
　生理前の今と、そしてお酒が入った時。
　普段よりも、何倍も感じやすくなってしまう、カラダ。
　サラサラの生地越しに、思ってもみないほど絶妙な、サラサラとなで上げて来る、スケベオトコの手の刺戟。
　キモチ良すぎた。
　とっさに、力が抜けかけて、力を入れ直さねばならない。
『あ、あぁあん、何よこれぇ。何、この人、触り方が上手すぎるぅっ！』
　成美が、さすがに「やめて」と言いかけたその瞬間、尻の頂点から、ウエストを通って背中に。
　絶妙のタッチで、撫で上げられてしまった。
　ゾクゾクゾク。
　敏感な電流が、背中を駆け上る。
「あん、あ、ちょ、いやぁ」
　慌てて、我慢しようとしたが、一瞬だけ、ヘンな声が出てしまった。
　真っ赤になって、口を押さえる成美だ。
「ちょっと、あの、やめっ……」　
　懸命に、左手を後ろに回して手を掴んだ。
　なんとか、動きを止めようとしたのだ。
　だが、掴まれた江川は、無理矢理、手を動かしたりはしないが、指先だけを、ワンピの裾をたぐるようにして、撫で上げてくる。
　サラサラサラ。
『あん、スカート上がっちゃってるぅ、見えちゃう、このままじゃ』
　実は、フレアミニのワンピの薄い生地は、とっくにまくれ上がっている。
　見られてはならぬはずの、貞淑な人妻らしい、シンプルだが、可愛らしいピンクの下着は、とっくにむき出しになっているのだ。
　薄くて、小さいパンティー一枚だけの尻を、男の手が撫で回していた。
「うぅ」
　唇を引き結んで耐える成美。
　さっきから、あちこち、絶妙のテクニックで撫でられたりしてる分まで、快感の電流は一気に増幅されてしまう。
『何なの、この人、これって、チカンされているのと変わらないじゃない。ううん、それよりひどいかも』
　成美は、混乱するしかない。
　大人しそうに見えるせいだろうか。チカンされたことくらいある。
　だが、それは、避けようもないくらい込んでいる電車の中。見知らぬ相手に、服の上から、おどおどした手つきで触られただけ。
　だが、今は、違う。
　相手は夫の上司。
　場所は自分の家のキッチン。
　おまけに、寝てしまった夫以外に、ここでは二人っきり。
　我が物顔で動くその手は、成美に快感をしっかりと植え付けに来ていた。
『ああぁ、どうしよ、どうしたら……』
　いきなりの不埒に、とっさにどうして良いのか、パニックだ。
　もちろん、夫以外のオトコに触られるなんて、とんでもないこと。
　だが、今日は、とっくに、何度も撫で回されてきていた。
　おまけに、あまりにも堂々としているから、今さら怒り出すのもためらってしまう成美だ。
　なによりも、思わず大きな声を出してしまえば、夫が起きてくるかもしれないと思ってしまうのが大きい。
　悲鳴を上げる成美を見れば、夫が上司とうまくいかなくなるに決まっていた。
　夫をそんな目には遭わせたくない。
　ホンの少しなら、自分が我慢すれば良いことなのだ。
　だが、人妻として我慢して良い限度を、とっくに越えていたのも事実。
　パンティー一枚の下半身を、さっきから両手で好き放題に撫で回されている。
『だけど、こんな所を見られたら、なんて言い訳したら』
　もっと早く、お前が毅然と断ればここまでつけ込まれなかっただろうと、自分で自分を責めてしまうのも、成美なのだ。
「あっ、うっ、くぅう」
　歯を食いしばった唇から、微かに、吐息のようなピンク色の声が漏れてしまう。
　撫で回される尻から、ピンク色の快感が、体中に響いているのだ。
　怒りも見せられず、止めることもできず、抵抗は、いつしか、はっきりと形だけになってしまっている。
『あ〜ん、どうしよ、やめてもらわないとぉ、あん、でも、この、手っ、あん、これ、すっごくエッチだから、あん、ど、どうしたら、あれ？う、動けないぃ』
　撫で回される一つ一つからわき出てくる快感と、自分がどうにも動けなくなっていることを知った驚き。
　右手でシンクの縁を掴みしめながら、成美はのけぞるようにして、目を閉じてしまった。