その１８　トラブル


　後悔と反省の成美が落ち着くのにそれなりに時間が必要だった。
　季節はいつの間にか夏になってしまった。
　死期を悟った父が、孫の顔を見たがっているのは変わらない。だが、迫る死期が半年近づいただけで、一向に子どもが授かる気配もない。
「どうしよ」
　もはや、そればかりが、成美の悩みかもしれない。
　あの時の母との話を、夫に言えるはずなかった。
　このマンションを買う時に、資金の大半を出してくれた成美の両親に感謝をしてくれているのはいいが、それが負い目となっているのを知っていたのだ。
『そんなこと気にしなくて良いのにって、やっぱり、男の人って、いくら私が言ってもダメなものなのよね』
　その辺りの男心は、何度も江川が教えてくれていた。
　そう、江川のことは、すっかり「悩み」ではなくなっている。もちろん、後悔と反省と、そして、自分を戒める気持ちは前よりも強くなってる。
　してはならないはずなのに、経験したこともないほど気持ち良い夫の上司とのセックス。
　後悔と反省で落ち込む成美に、江川からの実にマメな電話が、何かをほどいてくれたのだろう。このところ、やっと普通に受け答えできるようになっていた。
　単に犯されたのとは違うというのが、成美の気持ちにはある。
　無理やり犯されたのなら恨みにも思い、憎むこともできるが、きっかけはともかくとして、あの時のセックスが無理やりだったとは、とてもではないが、言えない。
　最後は自分から、入れてしまったのだ。
　自分自身が恥ずかしくて、二度と顔を合わせられるはずもないが、少なくとも江川を憎むのは間違いだと思う。
　だから、何度も、何度も電話をもらうウチに、次第に心を開いたのは、自然な成り行きかもしれない。そうなれば、後は話が早い。
　ただでさえ、子どものいない専業主婦だ。こうやって、マメに話し相手になってくれると、どこかしら頼りにする部分が生まれるのだ。
　今では、ポツポツと夫婦の悩みを相談できるようになったのは、やはり、肉体のつながりが、成美に何かをもたらしたのかもしれない。
　だが、悩み事を話せたからと言って、あの日、自分がしてしまった過ちを、許せるはずもなかった。
『あんな風に、他の人と簡単にエッチをしちゃうなんて。なんてエッチなの、私って』
　自分のことが、心底、嫌になった時もあったが、この頃は、少しずつ、自分の失敗を認める気持ちが強くなっていた。
　いつかは夫に話ささなくてはならない。
　真面目な成美としては、そう思いながらも、絶対に話せるわけがないのをしっている。
『ううん、あれは、お墓にまで持っていかなきゃいけないコト。だって、あの時は、カイカンに負けちゃって、あんなコトしちゃったけど、私は、彼を愛してるんだから』
　あの時のことを話して夫に「捨てられる」ことなど、考えたくもない。
『きっと、私、生きていけない。だから、喋ってはいけないんの。ずっと、十字架を背負わなくちゃ、これから、彼だけのための、良い奥さんになるんだから』
　江川を恨むのは、筋違いだと、今は思える。
『確かに私も、気持ちよくなっちゃって、最後は受け入れちゃったんだもの。江川さんのセックスは、上手だったけど、それは言い訳よね』
　あれほど感じてしまったセックスは、初めてだが、それをまたしたいかと言われれば今の成美はきっぱりと「いらない」と思える。
　どんな快感も、夫に対する愛と比べられるはずもないのだ。
　だから、話し相手にはなっても、実際に会うことなど、もうしないと心に誓っていた。
　だが、それはひょっとすると、会ってしまえば自分がカイカンに負けてしまうことを知っているせいかもしれない。
　江川のセックスは、どこか危険な匂いがするのだ。
　今までの生活を変えてしまうかもしれない。オンナの本能が、何かを叫んでいる。
『私が愛しているのはダンナ様だけ』
　そこで思考を打ち切って、あのカイカンを思い出そうとすることも、自分に禁止するしかなかった。
『 でも、愛の結晶には、相変わらず恵まれないし……　ううん、最近は時々してくれるけど』
　めったにない夫とのセックスだが、たまにしても、以前ほどの満足が得られない気がしていたのだ。
　それが、なぜなのか、考えることは怖かった。
　だが、セックスのカイカンなどなくても良いのだ。
『一番大事なのは、愛情だもん』
　肉体の片隅に残された、快感への欲求を意識してはならないのだと、無意識のうちに成美は知っているのだ。
『赤ちゃんが、できれば、ほんとは、それが一番なんだけどナ』　
　あれ以来、母親は何も言わなかった。
　父親も、相変わらずにこやかにしてる。
　表面上、本当に仲の良い親子そのものだった。
　だが、母の優しい表情には、険しい影ができているのを成美は知っていた。
　それを思えば、子どもを授からないことが、何重にも、悲しくなってくる。
「あああ、もう、だめ。らしくナイゾ」
　頭を振った成美は、部屋の中央で、ばっと立ち上がった。
『こんな時に、ウジウジしているのは私らしくないもの』
　結婚以来の運動不足も気になっていた。
「ようし、一丁、走ってみますか」
　足が速いわけではないが、昔から、何かに悩み出すと、それを振り払うように、ジョギングしたくなる。
　昼前でも、夏の日差しは厳しい。
　だが、暑さなどなんでもなかった。
　ゆっくりとキレイな並木道を走り抜け、たっぷり汗をかいた。
　それをさっぱりとシャワーする、この瞬間こそ、さわやかで、なんと気持ちの良い瞬間だろう。
『快適なお家でシャワーして、美味しいご飯を作って、だんな様を待つ』
　シャワーの流れの中で、幸せなんだと、口にしてみる。
『ああ、これで、可愛い子どもと一緒に、待てればなあ』
　油断すると、やはり頭に浮かぶのは、やっぱり、まだ見ぬ、我が子のことなのだ。
「もう！考えない考えない！忘れるのよ、私！　……あれ？」
　身体の水気を切りながら、ムリに、子どものことを振り払おうとしたら、何の偶然か、天井を見てしまった。
「あら、やだ、カビてる？」
　今日に限って、天井の汚れが気になってしまった。
　普段の成美なら、決してそんなことをしなかったはずだ。
　だが、滅多に動かさない身体が、その日はほてっていたのかもしれない。
　つい、魔が差してしまった。
「どうせ、誰もいないお家ですもの」
　シャワーを浴びたままの大胆なヌード姿で、ついつい、浴槽の縁に登って、ブラシを延ばした、その時だった。
「きゃ、いやっ！」
　そんな場所、滑りやすいのは、当たり前なのだ。
　だが、気がついた時には、思いっきり床に落ちてた。
「痛〜い」
　激痛と言う言葉は、こんな時のためにあるのだと、知った気がした成美だが、問題はぶつけたことではない。
　頭をかばってムリに身体をひねって、腰から落ちたせいだろう。
『痛〜い、動けない〜』
　腰に激痛が走って動けない。
　打ち付けた痛みというよりは、久々の運動で疲れた筋肉が悲鳴を上げたようだ。
　ブーメランみたいなカタチに身体が固まって、少しでも動こうとすると、頭の先に、ガーンと爆弾が投げつけられるみたいに、痛い。
　激痛、という言葉が軽すぎると思うほど。
「いっ、た〜い」
　痛みもそうだが、そもそも、腰が動く気がしない。
『動けない？』
　最初は、痛みが引くまで待ってから、ゆっくり動こうと思った。
　だが痛みは一向に引く気がしない。
　むしろ、ジンジンと逆に強くなってくる。
　お風呂場の床で、人間ブーメランになったまま、成美は途方に暮れてしまった。
　もはやなりふり構っていられなかった。
　こんな時、夫にすがるしかないではないか。
「あ、携帯！」
　さっきジョギングに出かける前に脱いだデニムは、お風呂の脱衣場にたたんであった。　シャワーを浴びたら、そのまま着られるように。
『そうよ、あそこにたどり着ければ、ポッケには携帯があるんだもん』
　人間ブーメランのまま、ゆっくりと動こうとした。
『痛い！あぁでも、なんとか、ゆっくりと、頑張らなきゃ』
　腕にも、脚にも力が入らない。
　身体を捻ろうとすれば、目もくらむような激痛。
　芋虫にも劣るスピードで、激しい痛みと闘いながら、ゆっくり、ゆっくりと、風呂場から脱出をするしかない。
　１時間は優にかかった「長旅」の果てに、ようやく携帯で夫を呼び出した成美は、ようやくホッとした気の緩みからだろうか。時間の感覚をなくしてしまったらしい。
　気が付いたら、夫が心配顔でのぞき込んでいた。
「ごめんなさい、あなた」
　何度もごめんなさいを口にしながらも、夫を見直していたのだ。
　なんといっても、夫は優しくて、とっても、真面目で、ユーモアだってある理想的な旦那サマだと思うのだが、今ひとつ、逞しい感じはしない、典型的な文化系人間だ。
『そりゃ、サックスを吹かせれば、今でも、なかなか格好いいと思うけど』
　筋肉ムキムキで「男」の頼もしさを感じさせる雰囲気ではないというだけのこと。それは、夫の欠点ではないから、普段は気にするはずもない。　
　だからだろうか。
　駆けつけてくれた夫を見て、余計に、頼もしく見えたのだ。
『多分、結婚以来一番頼もしく見えてるのかも』
　痛みと不安を自分自身にごまかそうとして、そんななことを考えてしまったのは、あまりにも、安心したせいかもしれない。
「大丈夫か」
「あなた〜　ごめんなさい」
　何度目の会話だろうか。
　頼れる人が助けに来てくれたという安心感。
『あ、いっけない！私、裸のままじゃない！』
　しかし、安心した次の瞬間、思い出したのは、自分が真っ裸のままだったという羞恥心。
　だが、いくら恥ずかしくても、こんな姿を、手だけで隠せるわけもないし、ちょっとでも身体を捻ろうとすれば、激痛が走るのだ。
　おまけに、ここまで、なまじ頑張ったのが悪かったのだろう。
『下着だけでも着けようとしたのに』
　だが狭い風呂場で、腰の動かない身体に服を着るのは不可能だった。
　だから、せめてキッチンまで這っていこうとした。
　それが裏目に出てしまった。
　無理に動いたせいで、途中で痛みが、ひどくなりすぎた。
　もはや一ミリも動けない。
　下着一枚穿けないまま、ちょうど、廊下を曲がる角の所に、人間ブーメランのままぴったりとはまり込んでしまったのが、今なのだ。
　下がろうにも、進もうにも、もはや、少しも動けないまま、立ち往生したところに夫が戻ってきたのだ。
「じゃあ、とりあえず、こっちに」
「痛い、痛い、ダメ！やめて！」
　悲鳴を上げた。
　何とか引っ張り出そうと身体を引っ張られた瞬間、激痛が走ったのだ。
　さてどうしようと、腰に手をあてる夫。
「ごめんなさい」
　痛みと申し訳なさと、そして、この後の不安で成美は今にも泣きそうだ。
「ごめんなさい、は良いけど、いったい、どうしたの？」
「だって、あなた。お風呂の掃除をしててね。一瞬足を滑らせたと思ったら、腰に電気が走っちゃって。動けないのよ〜　ごめんなさい、あなた」
「おぉ、それは、それは。しょうがないな」
「ごめんなさい」
「ま、いいさ、じゃあ、こうして持ち上げれば……」
「痛い！」
　またもや悲鳴。
　夫が抱きかかえようとしてくれたのだが、なんと言っても場所が悪い。
　狭すぎるのだ。
　角度を変えて幾度も試みた。
「痛い！ダメ、痛い！」
　抱き上げようと試みる度に、悲鳴が上がった。
　腰が、ピキンと壊れてしまいそうだ。
　ちょうど、曲がり角に、ブーメランになった身体がはまり込んでしまっているから、このまま、上半身と下半身を一人で抱えるのは不可能だった。
　どちらかを抱えようとすれば、腰に力がかかるのは目に見えている。
『結婚してから、２キロも太っちゃったんだもの。重すぎるわよね』
　夫には絶対のナイショなのだが、ホントは４５キロもあるのだと思う成美だ。
　やせ形の成美に付いた肉は、尻と胸に付いたとしか思えないプロポーションなのだが、重くなったという事実は、変わらない。
「痛い！だめえ！」
　懸命に、これは、あれは、と工夫して抱き上げようとするのだが、そのたびに悲鳴を上げて、とうとう、中止するしかない。
『どうしよ、どんどん痛くなってる……』
　むやみに動かそうとしたせいだろうか、痛みがだんだんひどくなっきたのだ。
　首に、変な汗が流れてきたのは、痛みからの「アブラ汗」だ。
「これは、救急車か……」
　その言葉には、申し訳なさと恥ずかしさもあったが、ホッとしたのも事実だ。
　夫の困惑顔を見上げてしまう。
　自分でも顔が蒼くなっているのが分かる。　
　成美の目をじっと見つめた後、ちょっと待ってとバスタオルを取ってきて、そっと掛けてくれた。
「じゃあ、救急車、呼ぶね」
　コクリと頷く成美。
　だが、頭の中ではタオルもありがたいが、シーツをかけて欲しいと言おうか言うまいか迷っている。
『これじゃ、救急車の人に見えちゃう』
　だが、せっかくの夫親切を無にするみたいで、とっさに言えるわけが無い。
『でも、やっぱりお願いしなくちゃ。後で。あん、でも、後でっていつよ。救急車ってお願いしたら、すぐなのかしら。それだと、寝室のを……』
　携帯を取り出す夫の顔を見ながら、成美の頭は、そっちばかりが気になってしまう。
『あ、でも、やっぱり、どうせなら新しい方のシーツかしら？でも、それだと、クローゼットの奥だし……』
　成美の頭の中とは無関係に、事態は進みかけている。
　１１９と番号が表示されていた。
「しょうがない。じゃあ、電話するよ」
　コクリと頷く成美。
　その表情が、あまりに素直だったからだろうか。
　それとも、バスタオルを掛けて、かえって胸と腰のチラリが強調されてしまったからだろうか。
『なんか、あの目って、まさか……』
　不思議根エロティシズムに、目覚めてしまったのかもしれない。
　この目は「優しい眼差し」ではない。
　か弱い妻に、恥ずかしい責めをしたくなる、そんな「オトコ」の視線だった。
『やっぱり、シーツを持ってきてもらわなくちゃ』
　そう思って見上げた夫の目の光は、どんどん異様に輝いてきた気がした。
『なんか、すっごくイヤな光が、あるんですケド……』
　突然、思い出してしまった、夫の「趣味」に、猛烈な嫌な予感が走る。
　普段はとっても真面目で優しいのに、突然、ひどくエッチなコトを仕掛けてきて、成美は何度も恥ずかしい思いをさせられた記憶が蘇ってしまう。
　一度など、旅行先で、騙されて、混浴露天風呂に連れて行かれたこともある。
　最後まで渋った成美を、半ば無理矢理浴衣をはぎ取るような強引さまで見せたのだ。
　その後、部屋に戻ってからの「ハッスルぶり」を思い出すにつけ、夫にはその種のヘン趣味があるとしか思えない。
　だから、夫を嫌いには慣れないが、困ったことだとは思っていた。
『そういう時って、いっつも、こんな光が宿るのよね』
　もーれつな「ヤな予感」は、すぐに実現されてしまうことになる。
『え？』
　携帯をポケットに入れてしまった。
「じゃあ、救急隊の人の邪魔になるといけないからね」
「え？いやあぁ、あなた」
　せっかくかけてくれたバスタオルがサッと剥がされてしまった。
　少しでも動くと激痛が生まれる。抵抗などしようがなかった。
「へへへ。大丈夫。救急隊の人達は、医者と同じだよ。裸なんて見慣れてるからね」
　唖然として、声も出ない成美。
『本気なの？』
　どこまで本気なのか、分からなかったが、タオルを再び掛けてくれる気配は全くない。
「あん」
　絶望的な光景。
　丸めたタオルを、夫はひょいっと、脱衣所に放り込んでしまったのだ。
『このまま救急車の人達が来たら、私は、この格好で、救急車に乗せられちゃうわけ？』
　目が回りそうだった。
　こんな姿を他人に見られるなんてあって良いはずがない。
『ウソよね？あなた？』
　きっと、救急車が来たら、ギリギリで、またタオルでも掛けてくれるはず、と思おうとした。
　けれども、異様な光が、夫の目には宿っている。
「ね……」
　口を開こうとした、その瞬間、玄関でピンポーンと鳴った。
「え？」
『救急車がもうきたの？』
　成美の目が聞いていたんだろう。
「いや、まだ呼んでないよ」
　夫までビックリした表情で、首を振った。
　一瞬凍り付いた二人だが、玄関のチャイムが鳴れば、身体は自然に反応するものだ。
「は〜い」
「ね、あなた」
『あなた、タオル掛けてって！』
　心の声を出せぬまま、夫の足音が、玄関に。
『オトコの人の声？』
　だが、成美は裸のまま動けない。
『いったい何なの？』
　そう思っていたら、いきなり聞こえた良く響く低音の声。
「じゃあ、早速拝見しますね」
『え？え？え〜！』　
　玄関に上がってくる気配だ。
『ウソ！』
「さっそくですが、奥様はどちらに？　ヘタに動かすと、ぎっくり腰は手術が必要になったりしますよ」
　成美の頭の中はパニック。
『見られちゃう！』
　動けぬ身体を懸命に縮こまらせようとするが、隠せるわけがない。
　人の気配が廊下の先に。
　もう、恥ずかしくて視線を上げられなかった。
『見られちゃった……』
　絶望的な状況だ。
「あ」
　廊下の向こうで、こっちを向いてるオトコの人の気配が驚いてるのがよく分かる。
　オトコの視線が突き刺さってるのを肌が感じ取る。
『いやあ、あなた、見られちゃてるよ、私ぃ』
　一刻も早く、こちらが裸なのに気づいて、立ち去ってくれることを祈るしかできない。
「ああ、可哀想に。痛いでしょ、奥さん」
『えっ？裸なのよ、私！なんで近づいて来るの？
　失礼、と低音の響く声で断りながら、慌てて立ち去るどころか近づいて来るのに、成美は呆然となるしかない。
　身体を隠そうにも、何もできないのだ。
　顔を上げられない。
　そこにサッとかがみ込んでくる気配。
『あれ？白衣？』
　その時、ようやく、男が白衣を着ていることに気がついたのだ。
「どうしたの？奥さん」
　優しく響く声が、話しかけてくる。
「あの、お、お風呂場で、腰を……」
　よく響く声。
「ああ、お風呂場で？う〜ん、奥さんよくここまでがんばったね、うん、よく頑張った」
　優しい声をかけながら、かがみ込んでくる。
　どうやら、相手は医者らしい。
　だが、だからといって、恥ずかしくないかと言えば、そんなわけがない。
　むしろ、遠慮なく、堂々と全身を見つめられてくる視線を意識すれば、なおさら恥ずかしい。
「よし、診断は後にしましょう。旦那さん、あなたが頭の方を持って。さ、奥さん、なるべく痛くないようにしますからね。力を抜いて。ほら、リラックス、リラックス」
　その時、ようやく夫の存在を思い出す成美だ。
『あ、いけない。せめてこのくらい』
　そっと右手で胸の先端を覆う成美。
　恥ずかしさでパニックになって、胸すら隠すのを忘れていたのだ。
　ようやく、こっちに来てくれた夫に、ようやく、少しだけ自分を取り戻せた。
　それにしても、と思う。
『あ〜ん、まさか、いつの間に、お医者さんを呼んでいたのよ』
　いつになく、手回し良すぎる夫のやり方に、成美は驚くしかない。
『あ……　まさか、お医者様が来るのを知っててワザと？』
　一瞬、疑ってしまう。
　だが、すぐ横に跪いた夫の目をみて、否定できた。
『ワザとこんなことをしたってわけじゃない、みたいよ、ね？』
　しかし、それなら、こんなに手回し良く医者が来るのはどうしてなのか？
「ハイ、リラックスリラックス、痛くないよ」
　右手を持って、ブラブラブラ。
『あ、いやん』
　確かに痛くないけれど、胸を隠していた手を持ち上げられて、手をブラブラさせられてしまった。
　とっさに、左手で隠すのもワザとらしい気がして、隠すに隠せない。
　下ろされた手も、半ば伸ばされた形で置かれたから、今さら胸を覆うわけにもいかないのだ。
『ああ、いやあ。胸、見えちゃってる』
　だが、恥ずかしいと思っていることを知られる方が恥ずかしいというのがある。
　相手が医者なのだと思えば、恥ずかしがる方が悪いのだ。
『ついこの間だって、お医者さんに内診されたコトを思い出せば、このくらい平気よ』
　夫にも、あんなにあからさまに見せたことがない場所を、グッと広げられて、一番奥まで見られてしまった、あの恥ずかしい経験。
『このくらい、何でも無い、何でも無い』
　成美は、自分にそう言い聞かせるしかなかったのだ。