その２３　果てて、のち

　聞き覚えのあるノクターンが、どこか遠くで聞こえる。
　夫に、いつもからかわれる、成美の着メロだ。
　リビングに置いてあるはずなのに、どこか遠いところから聞こえる。
　白い裸身によどんだままの快楽の澱が、成美の意識を深い水底に押しとどめているかのように、押し包んだままだった。
『いったい、なんなの、これ。こんな気持ち良いなんて、そんな……』
　自分の身体に、これほどの快感が潜んでいたことに茫然としていた。
　いや、快楽の名残に満たされたままの成美は、何も考えずにたゆたっていたかったのかもしれない。
　遠くで、ノクターンが響いていた。　
「ご主人からじゃないですか？」
　先生の低音がささやいきてくる。
　低い声を聞いただけでも、成美の身体には、息を吹きかけられた熾火が、赤く輝くかのごとく、ジーンと快感が響いてしまう。
　掛かってきた電話の向こうなど気にする余裕など、なかった。
『動けない……　どうしよ……　たったあれだけで、私　……イッちゃった　恥ずかしいのに。我慢できなくって。ううん、あんなにスゴイの、初めて』
　たったあれだけのことなのに。
　成美は、そう思わざるをえない。
　男に怒張を使われたわけでも、成美は見たことがないが、何か特別な道具を使われたわけでもない。
　考えたこともないような触られ方ではあっても、全身を撫でられて、ホンの少し指が遣われただけ。
　だが、今まで考えたこともないような快感が突き抜けていってしまった。
　たゆたうような快感の残滓が満ちた身体に力が入らない。
　けだるい頭には、ついさっき、自分に何が起きたのか、思い出そうとしても、どこか、遠い国の出来事のように頭に浮かんでこない。
『指、入ってきたんだよね。アソコに……』
　そう、指がその場所に浅く侵入しただけのことなのだ。いや、わずかに、かき回すように動いたはずだ。
『だけど、ホンの一瞬なのに』
　たったそれだけで、成美は、これ以上ない快感を味わってしまったというのは、自分の身体のことなのに、信じられなかった。
『あぁ、どうしよ。こんなに感じてしまうなんて』
　無意識のうちに、夫の顔を頭に浮かべないようにしていたのは、人妻としての申し訳なさなのか。
　それとも、人妻として知ってはならない快感を、夫以外の男から教え込まれてしまった後悔なのか。
　だが、一糸まとわぬ身体を、無遠慮な男の目にさらしたままの成美の頭には、豊かな快楽に彩られた白い空白だけがある。　
　動けなかった。
　あのピンク色の電流の衝撃が、まだ、体中に駆け巡っているようだ。その余波は、確実にあちこちの筋肉をヒクヒクとケイレンさせている。
　けだるい身体でできることと言えば、ハアハアと、浅い呼吸だけが成美できること。
　たゆたうような快楽に満足したからに力が入らない。だからこそ、それがいっそう、味わったばかりの己の浅ましい快楽を思い知らされる気がした。
　身動きできないのは、気だるさのせいばかりでもない。
『先生と目が合ってしまったら、恥ずかしすぎる』
　味わったこともない快楽を与えた男と、まともに視線を合わせられるはずがなかった。となれば頑なに、枕に顔を埋めるしかないではないか。
「まもなくご主人が帰ってきますよ」
『帰ってくる？　……しゅじんが』
　ぼんやりした頭に「主人」という、今、思い出してはいけない言葉が、注ぎ込まれるのだ。
　声が遠くで聞こえる。
『しゅじん……』
　頭に浮かべてはいけないはずの「主人」という言葉が、成美をコクリと頷かせた。
　痺れたような頭の奥に、ゆっくりと、だが、切実におびえに似たものを浮かばせる。
『あっ、あなたが……　帰ってくる……　どうしよ』
　とっさに「会えない」と思ってしまう成美だ。
「今日の治療は、大変うまくいきましたから。あと数回で、腰の方は全く問題なくなりますよ。いや、単純な腰の痛みだけなら、明日で、とれるはずです」
　逡巡の成美に向かって、先生の声はいっそさっぱりしている。
　ありがとうございます、と普段の成美なら、丁寧に、そして、さわやかに言えるはず。
　しかし、今の成美は心と体がぐったりとして、口を動かすのもだるかった。
「ただですね、子宝を妨げてる気の流れが……」
　ヒクリと、成美の頭が、かすかに震えた。
『子宝？　……赤ちゃんのこと？』
「そっちは、今日、明日の治療でってわけにはいきません。気の流れは、根本から治療しないと、ちょっと難しいんですよ」
　快感の残滓から抜けきれない成美のようすを、さも当たり前のことだと言いたげに見下ろす男の口調は、丁寧だが、きっぱりとしていた。
「え？」
　気の流れ、と言われて、重たい頭の片隅から、記憶が引っ張り出される。
『確か、赤ちゃんと関係があるとか？』
つかの間噛みしめた言葉の中に「子宝」という言葉がしっかりと収まっているのを、成美は戦慄を感じてしまう。
「奥さんの気の流れは、子宮を通じて滞ってますからね。それを治療するには十分に、時間とエネルギーが必要なんです」
　気だるい快感の水底から、成美の意識は急速に浮かび上がっていた。
「あのぉ……」
　恐る恐るでも、尋ねざるを得ない。いや、どうしても聞かねばならないのだ。だが、快感に全身を震わせた後の身体は、上手く喋ることもできない。
「あぁ、子宝のことですね？」　
　成美の意識をはっきりと読み取った声は、低く、優しげだ。
　恥ずかしくて、見られないはずの先生の顔をとっさに見上げる。
　優しげな目には、深い光をたたえながら成美を見守っていた。
「そうです。奥様、多分、お気になさってるとおり、お子さんが欲しいのでしたら、このたまりに溜まった気を循環させて上げないといけません」
　ついさっき、イク姿を見せてしまったオトコは、淫靡さを微塵も感じさせず、真面目な表情のまま静かに見つめていた。
　こうなってくると、恥ずかしいと思うこと自体が、自分のいやらしさを出してしまっているようではないか。
『やっぱり、治療なんだもの。恥ずかしいなんて思う方がイケナイのかしら』　
　一瞬の困惑を見極めるように、ウンウンと先生が頷いて、成美は、なぜかホッとしてしまう自分がいるのに気が付いてしまう。
「さっき、奥様は、実に素直になりました」
「あ、え、あ、あ、あ、あ、は、あのぉ」
　素直に、と言うのが、自分が「イカせて」と叫んだことを指しているのだと気が付いた瞬間、やはり恥じらいの中でうろたえてしまう自分をどうしようもない。
　その上、やはり、自分をイカせた相手には、慣れのようなモノが生まれて当然だった。
　どうしようもない恥ずかしさと、相手への親密さが、成美の口調を甘えたものにしたのかもしれない。
「恥ずかしいぃ。私ったら、あんなこと」
　深い目から、目を離せない。
　風采の上がらない中年男目には、深く、優しい光がたたえられている気がした。
「いいんですよ。さっきは、よく素直になりました。人間として、そうじゃないと」
「えっと、あの……」
　何を言えばいいのか分からないが、ともなく何かを言わなければならない気がしたのだ。
『赤ちゃんのこと、聞かなきゃ』
　だが、成美が言葉を出す前に被せるように低い声が響いた。
「お聞きください。私の治療は、本来は人間が持っている素直な気持ちを引き出して、ひいてはご夫婦の幸せを引き出すものなのです」
「夫婦の？」
「そうです。奥様は、いろいろなことを我慢してる。おそらく夫婦の夜のことでも……」
　ドキッとした成美の顔に狼狽という字が走った。
「なにか、奥様は、旦那サマに秘密でもあるんじゃないですか？」
「そんなこと！」
　呻くように声を絞り出すが、江川のことを告白してしまったのも同然の表情だった。
　しかし、そんなことには興味を感じない、と言った風情で、言葉が続く。
「いえいえ、別に奥様の浮気というつもりはありません。ただ、性の不一致と言う言葉をご存じですか？離婚原因のトップですよ」
「せいのふいっち？」
「そうです。仲の良い夫婦でもどこかしら、お互いに言いにくいのが性の問題です。たとえば、そう、結婚なさっている女性の８割はイク振りをしたことがあるそうですよ」
　成美は、言葉が出ない。
　そう、江川との、あれ以来、セックスの時、どこかしら、無理して感じてるフルをしている自分を思い浮かべてしまったのだ。
　だが、この瞬間まで、それでいいと思っていたのだ。
　セックスの快感は嫌いではないが、夫婦はそれ以上に大切なことがあるはずなのだと、心から信じてきたはずだ。
「まあ、感受性の豊かなあなたに限って、そんなフリをする必要なんてないでしょうから、信じられないのは無理ありませんが、本当の話です」
　低い声の持つ説得力に、コクリと頷かされてしまう成美だ。
「このまま、奥様が、無理すれば、ますます気の流れが滞ります。奥様はもっともっと、女の喜びに恵まれる感性が備わった、恵まれた身体なんですから、それを生かさないと」
『でも、そんなの無理』
　夫は精一杯、愛してくれているのだと成美は、先生の言葉を懸命に否定しようとする。
だが、魔に染められているように、言葉は成美にしみこんでくる。
　なによりも、ついさっき味わったばかりの強烈な快感。
　オンナというのは快感を与えてくれた相手に、馴染みやすいのかもしれない。
　ついさっき、熱い怒張まで握りしめていた「慣れ」もあるのだろう。
　低音で、ゆっくりと響く言葉は、強烈な説得力を持っていた。
「いいですか？無理をなさる必要はありません。ただ、私の施術は、ご夫婦の幸せのためにあります。そこをお考えください」
「は、はい」
「なによりも、子宝に恵まれるためには、あなたご自身が素直に、自分の身体にある気を受け止めなければ」
「受け止める」
「そうです。あなたの身体に生まれる快感も、全てあなたご自身の、そしてご夫婦ふたりのためのものだ」
「ふたりの？」
　男は、大きく、ゆっくりと頷いた。その表情は自信に溢れた、プロの表情に、成美には思えたのだ。
「あなたが無理をして押し殺せば、気の流れが滞る。それは、あなただけではなく、ご夫婦、おふたりのことに悪い影響を及ぼすのです」
「悪い　……えいきょう？」
「この後の治療を受け入れるのも、やめるのもあなた次第ですが、ご主人は決して、止めないと思いますよ」
　治療というのは、さっきの快感のことなのだと、成美には、すぐに分かる。それも「この後の」と言えば、おぼろげながら、そこに何があるのか、想像できないわけがない。
　まさか、それを夫が知っているというのだろうか？
「そんなこと……」
　あるはずない、と思った。
　だが、一方で、この治療が本当に二人のためになると信じられもした。何よりも、あっという間に、腰の痛みはなくなったではないか。
　その上、何も言わないうちから、成美の不妊を言い当てたのも、先生なのだ。
　目の前の先生の力を、信じないわけにはいかなかった。
「よく、お考えになることです」
　何を考えれば良いのか分からない。
　だが、何かを伝えようとしているのは分かる気がする。夫婦生活を一変させるような何かを、先生は言おうとしているのだ。
　成美は何かを尋ねようとしていたが、とっさに言葉が浮かばない。
「さて、そろそろ、ご主人もお帰りですし、明日までのお土産をしましょうか？」
　不思議な日本語だった。
「お土産を　……する？　って、あ、あん！」
　いきなりの電流が、背中を駆け抜けた。
　秘部をヌルリとかき回されたのだ。
　いきなり指が侵入した。
　思っても見ないことに、そこは、信じられないほどぬかるんでいる。さっきそうなってしまったのか、それとも新たに湧き出したのか。
　さっきのだと、とっさに思いたい成美だが、そのくせ、その潤みがじっとりとにじみ出していたことを知っている気がした。
　先生の目を見たまま、恥ずかしい秘液を、トロリとこぼしていた自分を信じたくはなかった。
　だが、どれほど認めたくなくても、認めざるを得ないほどの濡れ方を自分がしていたのだと成美は驚いてしまう。
　人妻のぬかるんだ女芯に、まるで、さも当然と言いたげに、指が入っていた。
　その手を迎え入れるように自らの意志で、広げている。
　成美の、しなやかな白い脚は膝をわずかに持ち上げるようにして、男の手を迎え入れる姿勢を取っていたのだ。
「あぁあああぁ」
　のけ反りながら、快楽の声を上げてしまう。
　親指が、クリトリスをヌルヌルとかき回してくる。
　不思議だった。
　これは、愛撫そのもの、いや、女体を犯すかのような手の動きに違いない。
　貞淑な人妻が、夫以外の男に許して良いものではない。
　それなのに成美は全く逆らおうと思えなかったのだ。
　それどころか、あっという間に、これ以上は無理だと言うほど広がってしまった。
「だ、だめぇ」
　一瞬の間を開けて、慌てて、股間の手を押さえようとした。
　ホンのあと少しで自分が、恥ずかしいオーガズムに達してしまいそうな、そんなおびえに似た気持ちが、そうさせたのだ。
「あん！」
　びっしょりになったナカの上壁を指がグニュリとかき回してきた。瞬時に、動いた手は、シーツをギュッと握りしめて耐えるしかない。
　身体全体が弾けそうな快感の泡をためていた。
「大丈夫ですよ。こうして、気をためておきますから」
「あ、くぅ、あ、ん、んっ、ん」
　急速に立ち上ってくる、あの電流。
「あん！あん！あん！」
　片手が成美の乳首をコリコリと刺激する。
　完全に男の愛撫の手つき。
　だが、それを意識できるはずがない。
　両手から送り込まれる、快感の鋭い電流は、たちまち成美の身体を貫いてしまっているのだ。
　ついさっきイッたばかりの女体は、蘇る快感に、あっという間に支配されてしまう。
「くぅう」
　快感の声だけはこらえねばと、口を引き結んだ成美の唇は、苦しげに聞こえるうめきを上げる。
　白い手は、もはや男の手を押さえるフリすらできない。シーツをギュッと掴んでいないと自分がはじけ飛んでしまいそうなのだ。
『あ、だめぇ、また、イッちゃうぅ』
　ダメどころではない。
　身体全体が、イクことを望んでいた。
　腰をクンと突き上げるように持ち上げてしまう。無意識の淫らな仕草を、自分で意識できない。
　シーツをギュッと握って快感に耐えるのが、いや、次の瞬間の快楽の頂点を待つのが精一杯だったのだ。
　そう。
　次の瞬間の快楽の頂点。
『あ、あ、だ、め、い、イッちゃう、わ、た、し……　いっ……』
　あっという間に弾けそうに膨らんでしまう、子宮から湧き出す快感の泡。
　ホンの、あと数秒で、パチンと弾けそうな快感の風船。
「あぁああ」
　屈服と恥じらい、そして絶頂への期待が、嗚咽となって唇からこぼれている。
　弾ける。
　まさに、その瞬間だった。
『あああ、い、イっちゃうぅ　……ぇえ？　……え？』
「いやあああ！」
　成美は、まさに悲鳴を上げていた。
「いいんですよ。気持ちよくなって。ただ、これは明日まで、気をためていただかねばなりませんので」
「え？え？えええ！」
　身体に残る、甘い感触と、切ない焦燥感。
　ホンのあと少し。
　あと数回かき回されれば、さっきのオーガズムが弾けるはずだ。
「あああっ」
　我知らずのうちに、不満げな嗚咽が漏れてしまう。
　それも当然だ。
　信じられなかった。
　指があっさりと引き抜かれてしまったのだ。
「このまま、本日は、気をためていただきます」
「いやああぁ」
　虚ろな秘部が切なくて、無意識のうちに、成美は腰をクイクイと蠢かしている。
　空き腰というやつだ。
　男を、いや、お預けを食った快感を自ら求めてしまうという、これ以上ないほど「意地汚い」動き。
　だが、それを恥ずかしいと意識できないほどの本能の衝動だった。
　あの快楽の頂点が、目の前に見えた瞬間、いきなり取り上げられてしまったのだ。
「あああ、いや、だめぇ、お願い〜」
　いやいやと顔を振り立て、成美は悲壮な声をこぼしてしまう。目尻に涙すら浮かんでいた。
　イカせて欲しい。
　それしか頭に浮かばない。
「ここでためた気を、明日は、もっと強く循環させますからね」
「いやあ、ダメぇ、そんな、苦しくて。先生、お願い、お願いぃ」
　オーガズムに備えた両手が、一瞬空を掴む。
　ひょっとしたら、その両手は、無意識のうちに、自らの秘部を掴んでいたかもしれない。
　何をしようとしていたのかは、考えるまでもない。
　全裸を男に見つめられながらのオナニー。
　考えたこともないことだが、たとえ見られていても、自らの手で何とかしなくてはいても立ってもいられないというのが、成美の真実だったのだ。
　しかし、すんでの所で両手を優しく包むように握られてしまった。
「奥さん、そろそろご主人がお帰りになります」
「え？あ、あ、え？」
　ハッとした。
「だ、だって、それなら、ね、先生、お願い」
　だが、夫の顔を思い浮かべた次の瞬間、オナニーをあきらめるなら、先生の手でイカせてもらうことしか考えられない成美だ。
　それほどまでに、白い裸身を満たしたオーガズムの甘美な予兆の波は大きかったのだ。
　それは、ついさっきの信じられないほどのオーガズムすら凌駕しそうな予感をさせる、巨大な波の予兆だったのだ。
「ダメです。奥さん、明日まで、我慢です」
　ゆっくりと顔を横に振る、優しい目。
　そんな、と唇からこぼれるため息。
　自らの秘部に伸ばそうとする手と、それを止める手。
　つかの間の争い。
　だが、ちょうどその時、チャイムが鳴ったのだ。
「おっと、ご主人がお帰りですね」
「いやん」
　自分でも思っても見ないような甘えた声を、出していた。
　だが、チャイムが、全てを吹き飛ばしていた。
　いや、快楽の出口を見つけられぬまま、弾ける寸前の成美は、貞淑な妻に戻らねばならないのだ。
　顔を埋めた成美の背中に、フワリと白衣が掛かる。
　先生の両手が優しく離されて、いやぁと悲しげに声を上げる成美は、その離された両手に顔を埋める
　満たされぬ快楽が巨大な分だけ、身体に溢れる不快感は大きい。
　おまけに、自分がなんと言うふしだらなことを、しようとしてしまったのかという羞恥。
　そして、夫に向き合わねばならぬ後悔。
　そんな成美の耳にも、しっかり夫の気配が現れる。
「ただいま」
　玄関をあける音。
　にこやかな先生の笑顔と丁寧な挨拶が目に浮かぶようだ。
　ひょいっと覗かせた夫の顔を、白衣から目だけをわずかに覗かせてみれば、見たこともないほど強ばった夫の顔。
『え？ひょっとして、知ってる？』
　そう思ってしまうほど、ぎこちない夫の態度に、成美はむしろ、作った笑顔でいつも以上に夫に愛情を込めて応えるしかなかった。
　そこからの成美は、どこかしら上の空だったのかもしれない。
　気が付けば、先生はいなくなり、夫と、いつも以上に熱を込めてキスをしていた。
　夫は、何も言わなかった。そのせく、どこかしら夫も自分も、気持ちがちぐはぐな感じがして、そのくせ夫への愛情が深くなっているのが不思議だった。
　あれだけの快楽を忘れられるはずもないが、夫との愛情は、また別のことなのだと思えてしまう。
　いや、むしろ、夫への愛情が何よりも愛おしく思えてしまったのだ。
　それが、かえって成美を縛ってしまったのかもしれない。
『ホントは、断らないといけないのよ。あんなこと、夫に申し訳ないし』
　そう思いつつも、翌日の往診を自分から断れない成美だった。
　それがどんな意味を持つのか、成美はよく分かってる。
『断らないと。そうよ、明日は往診を断らないと』
　愛する夫がいるのに、自分がどれほど淫らになってしまったのか。
　いや、明日、自分がどれほどになってしまうのかを考えることも危険な気がした。
　断るべきだと考えている貞淑な妻としての成美がいる。
　一方で、あの快感のことよりも、赤ちゃんと気の流れのことが気になっている。
　そして、なによりも、夫の不思議な態度。
　何かしらを知っている気がする夫は、翌日の往診を断らなかった。ねっとりとした嫉妬の光を夫の目の中に見た気がした。
　いや、何も知らないにしても、妻が裸で好き放題に触られていたことは知っているのだ。それをイヤらしいモノとして見ているなら、夫が明日の往診を断るはずなのだ。
　それなのに、夫は、断る話を切り出してこない。
　もし成美が断ったら返ってヘンではないか？
　断るに断れない。
　そして、気の流れをただせば、赤ちゃんを授かるかもしれない、という甘美な期待を抱く、母になりたい成美がいる。
「私の施術は、ご夫婦の幸せのためにあります」
　何度もリフレインしていた、そのセリフは、ふとしたときに、何度も蘇っていたのだ。
　そして、思い出すまいとしても身体の奥底からにじみ出てくる、じっとりとした身体の記憶が、成美に決断をさせなかったのかもしれない。
　気が付けば、再びの、約束の時間になっていた。