その８ プレッシャー


　このところ両親の様子がおかしいと思っていた。
『やっぱり、そうだったのね』
　いつも優しい微笑を浮かべているはずの母親が、珍しく厳しい表情を崩さない。
　成美にも遺伝した、そのすらっとした首筋は、こうやって黙って座っていても、決意の固さを見せつけているような気もする。
　声を荒げたりすることもない、その静かな言葉は、成美の薄い肩に、ずっしりとのしかかってくるのだ。
「ね、お父さんも、治療を頑張るって言ってくれてるけど、ね」
　めったに、ああしろ、こうしろと言わない母親が、柔和な顔に決意の表情を浮かべて、そこにいる。
『こういうときは、絶対に引かないのよね』
　怒った顔を見せたことのない、優しい母親は、単に甘い親なのではなく、自分の意志をきちんと持っているのを成美はよく知っていた。
　学生時代、ミスキャンになってしまった時の騒動で、退学させると怒り狂う、昔気質の父親から、ついにかばい抜いたのも母親のこういう部分なのだ。
「豊彦さんも、いろいろとお考えがあるでしょうけど、やっぱり孫の顔を見せてもらいたいっていうのは、ね……」
　ティーカップをきちんと置いてから、優しい笑顔になって顔を覗き込まれてしまえば、成美は、イヤなどと言えるはずなどない。
　ぎゅっと、太腿の下に差し込んだ掌を、握り締めてしまう。
　ついに飛び出した「孫」のセリフ。
　もちろん、口には出さなくても、両親がずっとそれを待っていたのを成美はよく知っていた。「知っている」どころではなく、いつも心にのしかかっていたと言っていい。
　黙って下を向いた成美に、優しい声でかぶせてくる。
「ええ、分かってるわ。子宝は授かり物ですもの。なかなか上手くいかないことだってきっとあるわ。あなたの兄姉のように、ね、そういうことだってあるもの」
　成美の母は三人の子どもを産んだ。
　見たこともない兄姉は、幼くして不幸な事故でこの世を去った。今では、重森家の、たった一人の娘が成美なのだ。
「一人娘に、できる限り多くの子をなしてもらって、そのうち一人に重森の名を継がせたい」
　家名を重んじて、そんなことを言い出しても不思議ではない父親ではあるが、反面、目に入れても痛くない一人娘に、それを押しつけまいとする気骨も持っていた。
　だからこそ、今まで「早く子どもを」などとは、一言も言ったことはなかったのだ。
「ふうっ」
　聞こえぬほどのため息をそっと下ろしながら、そこで一息ついてから、優雅な手つきで、そっと紅茶の香気を吸う母。
　どんなことにも柔和で、微笑を浮かべながら話を聞いてくれる母親。夫の言うことになんでも従い、口答え一つしない、夫唱婦随を地で生く、妻。
　しかし、芯の部分では、頑固者と言われる父よりも、よっぽど頑固だということを、成美は、大人になってからようやく気が付いた。
　あれほど頑固で一徹な父が、思い通りに生きてきたようで、実は、母に柔和に包みこまれながらコントロールされてきたのだ。
　父と母。
　成美は、愛され、愛して育ってきた。
『どっちが、夫婦で、上だとか、下だって思わないけど、母は父のためになることなら影で支えることを自分の幸せだと思う人だものね』
　そして今、娘に伝えられない父の思いを「言い渡す」ために、母はそこにいた。
　成美は、それを知っているから、何の言い訳もできない。
　なによりも、子どもを授かるのに、「上手くいかない」なんて考えもしない母は、やはり、そういう部分は、昔ながらの考え方しかできないのだと、思い知らされている。
「ね、だけれど、まず、あなたたちが、その気になってくれないと……」
　静かで、控えめな口調の母親。
　優しい笑顔のすぐ下に、一歩も引かない決意の鎧が見え隠れしているのは、夫が、つまり成美の父が、年の単位では、将来を考えられなくなってしまったからだ。
　兄姉が亡くなってから、遅くに生まれた成美だ。
　既に初老を迎えている父には、身体を蝕む悪性の腫瘍が取り憑いていた。
　年齢のおかげで、父を蝕む腫瘍は、大きくなるのは遅いけど、既にあちこち転移しており手術で根治するのは絶望的。
　年齢のせいもあって、強いクスリは使えないから、今となってはどんな治療も「気休め程度」にしかならないらしい。
　今は、放射線治療の奇跡にすがっているけれど、タチの悪い腫瘍は、数年以内に、確実に、大好きな父を、この世から奪っていってしまうという事実。
　そして、小さいときから、不器用で優しい父親の最後の望みは、もちろん孫の顔。
　成美には、それが痛いほどよく分かっているだけに、顔を上げることもできないのだ。
「今時、跡継ぎの男の子、なんてことは、おっしゃらないけど、ともかくも、孫の顔を見たいというのは、お父さん、言葉に出せないけど……」
　母親の顔が見られない。
　言うに言えない言葉を飲み込んで「できる限り早く見せられるようにする」と約束して、その場をなんとか逃れるしかなかった。
　重い気持ちを、取り繕った微笑で隠せたのか、わからない。ともかくも、母を送り出した成美は、バサッとソファに横になってしまった。
「はあ〜」
　はしたない格好。
　フレアスカートになってる部屋着の裾が少しめくれてしまっている。
　だが、そんなもの直す気持ちにもなれなかった。
　クッとソファの上で猫のように身を丸めながら、クッションに顔を埋める。
『私だって、ホントは欲しいんだよ、お母さん』
　母にも言えなかった秘密が、あった。
　父の、そして母が、どれだけ孫の顔を見たがっているかなんてことは、とっくに知っていたのだ。
　けれども、明るい顔をして「もっと先」と、平気で、気がつかないふりをしてたのは、父と母に対する甘えだった。
　いや、気配りとも言えるかもしれない。
『やるだけ、やったんだから。あんなに恥ずかしいことも我慢したんだもの』
　思いっきり背中を仰け反らして、猫のポーズ。
　お尻を高く持ち上げる、はしたない格好だけれど、どうせ誰も見てないのだからと、最近、少しだけ大胆になった成美だ。
　身体はもともと柔らかい。
　けれども、運動不足のせいか、最近、腰から背中が硬くなっているのを気にしていた。
　誰も見ていないからこそできる、大胆な猫のポーズ。
　ヨガでは当たり前のポーズに過ぎないが、恋人時代の夫にバックスタイルを教え込まれて以来、一人、部屋にいるときにしかできなくなった。
　だが、きゅーっと背中が伸びて、気持ち良い。
『そうよ、やるだけやったんだもの』
　二人の子どもが欲しかったのは、別に両親のことを思ってのことばかりではない。愛する人との子どもなら、女は誰だって欲しがるはずだ。
　だが、気が付いてみると、妊娠という文字は、思わぬほど遠くにあったのだ。
　そこから、産み分けの本から始まって、授かりやすい時期を狙ってセックスするようにしたのは、かなり前。
　焦ったあげく、ネットで見つけた怪しげな「生まれやすい体位」まで使って、頑張った頃には、心のどこかに、黒い雲があったのも確かなのだ。
　思いが行き詰まって、自分の身体の欠陥に思いが至ったのも当然かもしれない。
『だけど、さ、調べても、何の異常もないんだもん』
　成美は、病院での、あの、羞恥の時間を思い出すまいとしたのだが、一度、サッと、あの時のことが頭をかすめると、もうダメだった。
　ケンサ……
　思い出したとたん、身体が崩れて、クッションを抱えたまま、ソファに丸くなってしまう。
『ダメよ。思い出しちゃ』
　お腹の下の方に熱が灯った。
『あんな恥ずかしいこと、思い出しちゃ……』
　顔を振る。身体に籠もった熱を拒否するように。
　だが、お腹の下の方が、急速に熱くなっているのを、ごまかせない。
　キュッとクッションを当てて耐えようとした。
『ダメ、思い出したら、ダメって』
　思い出したくもないのに、あれ以来、浮かんできては、成美を淫らにしてしまう封印したい記憶。
『まさか。普通は、思わないわよね、大学時代に言い寄ってきた男が、医者になってるなんて。ううん。医学部ですもの。医者になるのは当然かもしれないけどさ』
　キュッとクッションをお腹に押し当ててるだけでは、足りなくなっていた。
　無意識のうちに、クッションを当てる場所は、下へ下へとずれている。
『だめよ。今日こそは、こらえなくっちゃ。こんなことしてたら、本当に、エッチになっちゃう』
　クッションでキュッと押さえたはずの下腹部に、熱が生まれていた。
　思い出すまいとすればするほど、あの「視線」を思い出してしまうのだ。
『ダメダメダメ、昨日決めたでしょ。恥ずかしいことを思い出しちゃダメって。自分でなんて、そんなこと、もうしないって』
　自分を戒めたはずだった。
　だが、昨日の自分を思い出したとたん、かえって、さらに強烈な衝動が、背中を突き抜けてしまったのだ。
　もうしないと決めた、一人エッチ。
　だから、昨日は「今日が最後だから」と言い訳して、大胆なことをしてしまったのだ。
『自分で脚を縛っちゃうなんて、やり過ぎよぉ』
　だが、一人エッチなのに、感じたことのないほど、盛り上がってしまったのも事実だった。
『あんな風に、また、縛られたら』
　恥ずかしすぎる、あの病院での検査。
　ちょうどあの時の同じ。
　脚を閉じられないように、左右に思いっきり広げて、縛ってしまった一人遊び。
　自分が、あんなことをするなんて信じられなかった。
　いや、つい先月の自分が、そんなことをする女の子がいると聞けば、軽蔑していたかもしれない。
『一番イケナイのは、恥ずかしいことをしてるのに、余計に感じちゃったことよね』
　イケナイと思っていたのに、クッションごと押しつけている場所が、だんだんと、秘所そのものになり始めているのを、成美は気が付いてない。
　じわじわと、快感が兆しはじめているのを、理性は気がつきたくないのかもしれない。
『だから、ホンモノを入れてる、だなんて、面白がられたんだわ』
　どこからかかってきたのか知らないが、あの電話の直後、真面目な医者に戻った並河に、ひどく謝られてしまった。
　もちろん、自分を弄ぶように、恥ずかしい言葉を掛けてきたのは許せなかったが、それ以上に、ホンモノを入れられていると信じてしまった自分が恥ずかしかった。　
『でも、あれが、本物だったら、あのまま、私、どうしちゃってだろ』
　並河は、大きい方のプローブを自分のモノだと脅かして、自分がうろたえるのを楽しんでいた。
　けれども、あの瞬間、本当に犯されかけたのだと思ったのに、感じてしまった自分がいるのだ。
　そのうえ、今も、あの時本当に犯されてたらと思うと、子宮が疼いてたまらなくなる。
　夫以外とセックスしたがったり、あげくは、無理矢理犯されて、感じてしまうようなオンナは、みだらに決まっている。
　漠然とそう思っている成美なのに、あの時、確かに感じてしまった自分がいるのだ。
　そんなに淫らな本性を、自分が隠し持っていたなんて思いたくない。
『違うのよ、あの時だってセックスしたいなんて思ってないの、違うの、違うのよ』
　あわてて、頭に浮かんだ夫に向かって、違う違うと言い訳しながら、そのくせ、もどかしくなった指が、クッションの下に忍び込んでしまう。
「あん！」
　思わぬ快感。
　成美の秘部は、既にヌルヌルになっていた。
　そのぬかるみをすくい取るようにした中指は、あっさりと恥ずかしいボタンをクルクルッとなで始めてしまう。
　あの時の、美肉に、半ばまで入り込んでいたあの感触を思い出しながら、成美の指は止まらなくなっていた。