７　右往左往

「慈雨！慈雨！」
　草那木氏の声が響いているのが、真夜にわかった。もちろん、声だけでどこにいるのかはわからない。
　自発的に透明人間になったわけではない草那木も、『魔力の類によって透明になっているわけではない』ため、『もう一人の真夜』にもその居場所を探ることができないのだ。つまり、真夜や脩平とは違い、草那木も玲依も、透明だ、という以外はごく普通の人間なのである。

　しかし、その声の質からは、明らかに『血相を変えている』ことがよくわかった。
　（どういうわけかはわからないけど、慈雨ちゃんには、透明人間の姿を見ることができる…）
　反面、慈雨には『透明人間』以外のものを見ることができない、というハンデもあるのだ。
　それはつまり、『慈雨が一人で屋敷の外へ出歩く可能性』を否定できる理由でもある。

　しかし、その慈雨がいないという。

「あなた！慈雨は、慈雨は…！」
　玲依の悲痛な声が（声のみだが）真夜の胸を打った。どうやら、『透明人間同士』であればお互いの姿がわかるらしい。
　そんなとき、廊下の向こう側から恭介が走ってくるのが見えた…が、透明人間のどちらかにぶつかって尻餅をついた。
「うわっ、い、いたんですか、申し訳ない」
「いえ、こちらも不便な体なもので…と、そんな悠長なことを言っている場合ではありませんでした」
　どうやら草那木にぶつかったようだ。
「部屋にも、トイレにもいませんでした…しかし、彼女が一人でどこかへ行くなんてことがあるんですか？」
　恭介の質問に、玲依が応える。
「脚が悪いだけなら車椅子でどこかへ行けますが、慈雨は目が見えません。一人でどこかに行くなんて…！どこかにいきたいなら、わたしも夫もいるんです…どちらかに声をかけていかなければおかしいんです…！」
　玲依はすでに涙声になっていた。
「ああ、慈雨を失ったら、わたしは、わたしは…」
「落ち着いてください、玲依さん。まだ、外へ出て行ったと決まったわけではありません。慈雨ちゃんに連絡を取る手段はないんですか？」
　慌てふためく夫婦を、真夜が勇気付ける。
「車椅子に、何か電話のようなものがついているんじゃないんですか？」
　恭介が質問するのへ、
「なぜ、それを？」
　草那木が質問を返してきた。恭介はこの返答に詰まってしまった。なぜ知っているかといえば、以前この屋敷に忍び込んだ際に、慈雨が『トイレです、大至急です』と独り言のように呼びかけるのを聞いていたからである。
「あなた、そんなことはどうでもいいでしょう。今は慈雨本人が先です。…ですが、車椅子は廊下に放置されたままだったんです」
「廊下に放置って…それじゃあ…！」
　真夜がはっ、と息を飲んだ。慈雨は自分の力で歩くことができない。それが、車椅子を残して忽然と消えてしまったということは…。
「…誘拐された可能性がある、ということですか…！？」
　言ったのは恭介だった。

　この屋敷は、過去に一大企業を作り上げた草那木が慈雨のために建てた家だ、ということは、脩平や玲依から聞いて真夜も知っていた。
　しかし、そこに目をつけてくる輩がいないとも限らないのだ。これだけの屋敷を建てられる人間なら、当然金も持っている、と。
「…ああ、慈雨、わたしの、慈雨が…！！」
　玲依がついに泣き出したのが、真夜にはわかった。

「…で、なんで冴が、こんな写真を持っているんだ？」
　突然に電話が切られてしまい、いくらか不機嫌そうな脩平が言った。とはいえ、冴のほうは別に悪びれるでもなく、
「実は今日、こんな依頼があったの…」
　と、今朝受けた日向優姫からの依頼の件を切り出すのだった。

「前世で受けた暴行の犯人を捜せだって？また無茶というか、妙な依頼だな。だが、それだけに…」
　脩平が顎に手をやって、こう言う。
「『死神』が後ろにいる冴には、うってつけだった、というわけか。…って、ほめているわけじゃないぞ？むしろ、今の俺は、所長から代理として任されている立場である以上、冴や真夜の勝手な行動を叱らないとならないんだからな」
「悪かったわよ…。でも、脩平君、この写真の人知ってるの？」
　大して反省の色もなく、冴が再び脩平に写真を見せる。その言葉を受けて、脩平の手が写真を受けとる…。

「…出口、恭介…こいつの前世が、まさか強姦の犯人だとはな…」
　誰にとでもなく、脩平がつぶやいた。

（…会って、どうすればいいのだろう）
　わたしの依頼を受けた、峰岸冴さんという探偵も、そのことをあえて聞かなかったようでした。
　もし訊かれたとしたら、わたしは答えることができなかったでしょう。わたしにもその答えは出ていないのですから。

　自分を強姦した犯人の生まれ変わりが今を生きている。…だから憎んでいいものではないということもわかっています。
　ありとあらゆる人間が罪を犯して生きているのですし、わたし自身の前世だって、どんな罪を犯したものかわかったものではありません。
　ひょっとしたら自殺して死んだのかもしれないし、強姦以上の罪を犯していたのかもしれません。今を生きる人間が前世の罪まで考えて生きることはないでしょうし、それを実践したらしたで、かえって異常な目で見られるでしょう。

　ですが、わたしは覚えているのです。この体が、『あの写真の男』の前世の男に陵辱される瞬間を。

　そう遠い過去の話ではないと思います。ちょうど、『写真の男』が生まれる少し前のことではないでしょうか。

　そもそも、人気のないところを歩いていたわたしが悪かったといえば、そうなのかもしれません。
　ですが、疲れ果てていたであろうわたしには、『暗い道は危ない』という子供でも理解できる理屈を無視しなければならないほど帰り道を急いでいたのでしょう。

　はっ、と気づいたときには、もう体を抱きすくめられ、口をふさがれ、わたしは公園の茂みへと引き込まれていました。
　その視線は、わたしの脳裏に焼きついています。
『運がなかったな。こんな場所を通るあんたが悪いんだ』
　男はわたしに一瞥をくれると、服を引き破り始めました。この場合、抵抗は無駄でしょう。しかし、人間というものは、『助かりたい』と思う心から、しないほうがいい抵抗をすることも多いです。そして、そのときのわたしもそうでした。

『いい体してるじゃないか』
　抵抗の末に押し倒されたわたしを、男の目が舐めていきます。疲労と絶望感で抵抗する気力を失ったわたしは、ただ男に軽蔑の念をこめた視線を向けることでしか抵抗の術がありませんでした。
　胸をつかまれ、わたしは痛みに声をあげていました。そのときのわたしは、まだ男の体というものを知らなかったのです。
『…なんだ、初めてなのか』
　ついに裸にされたわたしの、『女の象徴』を眺め、男はそういいました。その言葉はよく覚えています。

『…綺麗なものだな。よし、ゆっくり慣らしてやる』
　この男は、自分が何をしているのかわかっていたのでしょうか？いくら人気がないとはいえ、婦女暴行は犯罪です。
　行為をとっとと済ませて、この場を離れたいはずなのに、わたしの秘所を眺めたうえで『ゆっくり慣らす』という悠長なことを言っているのです。
『や、やめてください、あっ、ああっ！』
　秘所に舌を這わされ、わたしはのけぞっていました。しかし、男脳ではすでにわたしの腰を抱きしめていて、抜け出すことまではできません。
『ふぁっ、あっ、やぁっ！』
『そう動くな。気持ち悪くはないだろう？』
　舌が秘所に優しく差し込まれ、舌先が奥を目指してきます。強姦とは思えない優しさに、わたしは声を大にしてあえいでいました。
『…次は指だ』
『えっ？』
　わたしの返答をまたず、男の指がわたしを刺激し始めました。もう腰を支えるのをやめ、左手は胸を包んで揉みしだいています。
　一つ一つの動作が快感を呼んでしまい、わたしはもはや、籠の鳥と化していました。
　そんな中、ついに男の指がわたしの膣を突き刺しました。
『ああぁっ、いや、いやぁっ！』
　痛みと快感が体中を駆け抜けていきました。わたしの中で何かがはじけとんだ瞬間でした。今まで感じたこともないような感覚が体中から脳を突き抜けたような、甘い快感でした。
『…イッたのか？案外、敏感だな』
　むしろあきれたような表情で男が言いました。不思議とこのころにはもう『陵辱されている』という想いはありませんでした。
『だが、気持ちいいのはこれからだぞ？』
『えっ？』

　男の体が重なるのに、そう時間はかかりませんでした。強姦だというのに、男はわたしを抱きかかえ、まるで自分に座らせるように抱きしめ、わたしを前にして結合してきました。
　激痛に涙が溢れました。張り切った先端はもう、わたしの膣には凶器そのものでした。
『ああっ！こ、こんなに痛いなんてッ！！』
『くっ、す、すぐに気持ちよくなる』
　男のほうも少し苦しそうでした。わたしが初めてだったからでしょうか？あるいは、男のほうも…？

　正面から抱きしめられ、わたしの激痛はすぐに快感へと変わっていました。男の先端を受け入れていることそのものに幸福感すら持っていました。
『…お前は、俺のものだ』
（ああ、もう、何も考えられない…）
　男の目の前で胸も秘所もすべてあらわにし、暗いとはいえ野外なのに、みっともなく下半身を濡らし、そして快感に抗えず喘いでいるわたし。しかし、それを不幸に思わず、むしろ幸福として受け止めているわたしがそこにありました。
『さあ、お前ももっと腰を動かすんだ』
『…ああっ、ああっ！』
　言われたとおりに腰を動かすと、電気が走ったように快感が駆け巡っていきました。二度目の絶頂です。
『…これで二回目だな。気が済むまでイかせてやるからな』
『ああっ、もっと、もっとください…！』
　自分から激しく腰を動かし、口からは涎を垂れ流しながら、快感を求めると、『男』は、より激しくわたしを責め、そして求めてくれたのです。

　何度も何度も、何度も、わたしはイかされました。そしてわたしは絶頂を幸福とともに受け入れていました。
　意識が飛びそうになると、胸を揉みしだかれ、少し快感から遠ざけ、意識を戻してくれました。

　そして…。

『さあ、いよいよ中に出してやるからなっ！』
『な、膣内！？それだけはぁぁっ』
　その言葉も、本心でわたしの口から出たものだったのか、すでに怪しいのです。
　熱い熱い液体がわたしの子宮内を駆け巡り、溢れかえった精液が入り口からあふれ出ていくのがわかりました。
　わたしの処女の喪失は、自分の至急から白濁が溢れるところを自らの目で悟ることで終わりました…。

　…最後に射精される瞬間、男の腕がわたしを抱きしめる感触を、よく覚えているのです。

　わたしは放置されることはありませんでした。男は、強姦であったにもかかわらず、引き破いてしまったわたしの服のかわりに、と自分の上着をよこし、わたしの裸体に被せてくれました。

　その後、この人に会うことはありませんでした。そして、わたし自身も、それ以来、どんな男と交わっても快感を得ることができなくなってしまっていたのです。

　たった一度の交接。わたしは、今でもそれを忘れられずにいるのです…。

　峰岸さんとの顔合わせを済ませたわたしは、時計をにらんでいました。思ったよりも遅くなってしまったからです。
　わたしの脳裏に焼きついている『あの男のイメージ』を現代に投影することで念写は成功しましたが、あの写真の男がどこの誰なのかはやはりわからないままなのです。
（早く…早く見つけてください。わたしの体の火照りを…なんとかしてください。でなければ…）

　電車が駅に到着しました。あと一駅で、わたしが降りるべき駅です。
　時間をおいて再び流れ出した夜景を眺めながら、わたしはさらに考えをめぐらせていました。顔しかわからない、『あの男』に向けて…。

（…でなければ、わたしは…わたしは、死んだ身でありながら、死ぬことができないままの体になってしまうのですから…）