11．

「ちょっといいですか？」
　奥様の決心を見届けたあと、私は廊下で八坂探偵に呼び止められた。
「…これから、食事の支度をせねばならないのですが…」
「お時間は取らせませんよ。ちょっと、草那木氏のことで」
　私は、心底驚いた。この若い探偵は、一体何をどうやって調べてきたのだろうか？
「…あなたは確か、草那木氏の結婚よりも前に、執事になったんですよね、飛田さん？」
「ええ。そうでございます。それが、何か…」
「あなたの経歴もなかなか謎が多くて、調べるのに苦労しましたよ。…草那木さんに、何もいわなくていいんですか？」
　八坂探偵から、そんな言葉が漏れた。しかし、私からは彼にかけてやる言葉はない。
「…あいつも、もう大きくなりました。そして、自分の幸せを、自分の手で掴んだではないですか。慈雨にしても、玲依さんにしても、回りも美人ばかりに囲まれ、そして何よりも愛されている…そんな現状、私が口を出していいことなどありはしません」
「…そうですか」
「…もっとも、そんな私でも、今になっても孫の側にいてやりたい、と考えてここにいるわけですがね。たとえ、自分の本当の孫でなくても、可愛らしいものです。もうすぐ、この家に私は必要なくなると想いますが」
「いえ、いてあげてください。たとえ、あなたの素性を知らずとも、慈雨ちゃんは、あなたの愛情を受けていると想います。…例の製薬会社に草那木氏を売り渡したことを責めるつもりはありません。しかし、だからこそ、この小さな幸せを…守る一つの力になってやって欲しいんです」
「…そのつもりです。ありがとうございます。しかし、あなたはどうやって、私のことを調べたのですかな？そして、あの製薬会社のことも…」
「もちろん、企業秘密ですよ」
　若い探偵は、そう言って笑った。なるほど、確かにそうだ。
「何かあった際は、『氷室探偵事務所』にご相談ください」
「…ん？氷室探偵事務所？」
「ええ。ご存知でしたか？」
　私は少し考えたあと、八坂探偵に言った。
「所長は氷室裕ですかな？」
「よくご存知で」
　少年にも見える探偵が、目を見開いて驚いた。私は腹の底から可笑しくなり、笑い声を洩らしてしまった。
「ええ。昔、針を使った技を教えてやったことがありましてな」
「なるほど、あの人にも意外な特技があるもんだ…」
　おそらく、『針を使った技』を別の意味に捉えているだろうけれども、それに関してはわざわざ注釈を入れる必要もないだろう。

　数人の少女が屋敷の前を通り過ぎようというとき、声をかけてきた。どうやら、高校生らしい。
「あの、この家の執事さんですか？」
「ええ。何か？」
　庭木に水をやっていた私は、作業を中断して彼女たちに歩み寄った。
「この家、幽霊屋敷なんですよね？」
「は？」
　私は思わず首を傾げたものの、その理由がすぐに分かって苦笑した。
「だってほら、執事さんと小さな女の子しかいないはずなのに、夜中にいくつかの部屋に電気がついていたり、笑い声がしたり…中には、脚が動かない女の子を載せた車椅子が、手を動かしていないのにひとりでに動いていたり、他の子は、『女の子が空を飛んでいたのを見た』って…」
「はははは…！」
　私は思わず、腹を抱えて笑ってしまった。何も知らない人間から見れば、確かにそう見えるだろう。
「私どもの他にも、ちゃんと、お嬢様の両親が住んでおりますよ」
　私はそう言うと、三人がいるほうを見た。丁度、その方向では唯一人の目で見ることができるお嬢様が、車椅子に乗って、同じく人の目には映らないドーベルマンのほうをみていた。
　そして、その側には、幸せそうな二人がいた。

　私は、罪をおかした。しかし、それが幸いしたのかはどうかは分からないものの、あの二人はお互いの愛を、『姿』という形を超えて深めた。それはそれで、いい結果になったのではないだろうか？
　そう思うことで、私の心は少しは晴れる。

　しばらくそっちのほうを見ていると、三人の少女が不思議そうに、私に尋ねてきた。
「あの、今日は曇り空ですよね？」
　上を指差して、少女の一人が言った。
「ええ。左様でございますな」
「なんで、執事さんはこの天気なのに、サングラスをかけているんですか？」
　そう言われて、私はもう一度笑った。確かに、それも疑問の一つになるだろう。

　私は、空を見上げてからサングラスに指をかけた。が、それを外しはせずにこう言った。
「…昔、事故で失明しましてね…そのせいで息子を施設に預けねばならなくなったんですよ」
「…あの、でも、花に水やったり、いろいろやってますよね？」
　驚いた顔をした少女が聞き返してきた。
「ええ。…目が見えなくても、心で感じることができるものは、思いのほか沢山あるものなのですよ。…皮肉なことに、それに気付くのは…目が見えなくなってからなのですがね」

「…お父様、お父様〜」
　奥様に抱かれたお嬢様が、『見て感じることができる透明人間』に向かって手を伸ばす。慈雨お嬢様は、もう一度少女をやり直すだろう。両親の愛を一身に受けて、今度は普通の少女として。

　もしかしたら、あの二人は、姿を失うことでもっと大切なものを手に入れたのかもしれない。

「…どこまでも、幸せになるんだぞ…」
　私の素性を知らぬ彼に、私はぽつりと呟いた。それは本人に伝わることはなかっただろう。しかし、私はこれでいいと思っている。

「あの、ちょっといいですか？」
　そんな三人を見上げていると（丁度このとき、後ろで慈雨お嬢様が宙に浮いていたのだが）、今度は一人の女性が声をかけてきた。
「何でございましょう？」
『後ろで人が飛んでますよ』といわれると思ったものの、女性からの質問はそうではなく、ポケットから写真を取り出すと、私に見せた。
「この人を見たことはありませんか？」
　知らない顔だ…と思った私は、嘘をついても仕方が無いので、『知らない』と答えた。
「そうですか…」
　残念そうな顔をして去っていったものの、こればかりはどうしようもない。

「飛田さん、雨が降ってきそうですから、屋敷に戻りましょう」
　奥様にそう声をかけられ、私は
「はい、只今」
　と返事を返し、踵を返した。

　お嬢様の閉じた瞳が、輝いて見えた。それこそ、昔見えなくなった私の目にも、明るい陽射しを齎すかのように。
　そして、過去に罪を背負った私の冷えた心に、幾多もの慈しみの雨粒を降らせるかのような暖かい『見えない眼差し』だった…。

　　　　『Ｉ×Ｂ（アイ・バイ・ビー）』

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　了