８．

「あ、いらっしゃいませ」
　慈雨ちゃんののんびりとした口調は、いつ聞いても、聞くだけで心が落ち着く気がする。もちろん、目が見えない彼女に、なぜ普通の人には見えない僕が見えるのかは不思議だけれども。
　いついかなる状況で訪れても、彼女の部屋を僕が訪れると、慈雨ちゃんは無警戒に僕を招き入れてくれるし、僕以外の誰かとも思っていない。
「慈雨ちゃん、今日、何かあったの？」
　珍しく横になっている（夜訪れるのが珍しかったからだろうか？）慈雨ちゃんの首筋に、あざのようなものがあることに、僕は気付いた。まるで、誰かに首を締められたあとのようだった。
「え、ええと、ちょっと…」
　慈雨ちゃんのほうも話しにくいのか、語尾をにごらせてもごもごしている。
（…執事の飛田氏はこんなことをしないだろうし、玲依さんは論外だ。となると…）
　この家に自由に入り込める存在で、慈雨ちゃんの首を締める可能性がある人物といえば…。
（あの、弁護士か…？だが、なぜあの弁護士が彼女を？）
　思い浮かんだのは、前のひと悶着だった。あの時、あの弁護士は玲依さんを手にかけようとしていた。ひょっとすると、玲依さんを奪い取るためには、慈雨ちゃんが邪魔だと考えたのかもしれない。
（そうなると、危険だ…）
「慈雨ちゃん、何かあったんだね？」
　僕がもう一度聞くと、彼女は顔を赤くして、ゆっくりと首を横に振った。何かあったことはすぐ分かったものの、僕はそれ以上聞かなかった。考えてみると、首を締められるという恐怖の体験を、そう何度も語りたくないのかもしれない。
「…今日は、もう寝るの？」
　僕は聞いた。もしそうなら、ここにいつまでもいるのは悪い。外はもう夜なのだ。
「…眠れそうにありません」
　小さな声で、慈雨ちゃんが言った。よく見ると、肩が震えていた。よほど怖かったのだろう、苦しかったのだろう。
　僕は、彼女を抱き上げていた。

「お父様」
　急に抱き上げられたことに驚くこともなく、慈雨ちゃんが呟いた。ごく自然に口をついて出たような、そんな言葉だった。
「ん？」
　僕は、なぜか居心地がいいような、悪いような、妙な感覚に襲われた。肉体も感情も未成熟な、体の不自由な少女の姿を見ていると、なぜか心が和むのだ。それはもちろん、彼女の体が目に見えて小さいからでもある。けれども、今の感覚は、それだけではない気がする。
　この光景を他の人間が見たら、きっと慈雨ちゃんが『宙に浮いている』と思うだろう。彼女は目が見えない。僕は透明だ。絶対に出会えそうもない僕たちは、ここにいる。そして、互いに認識しあっている。すごく、とても、不思議なことだった。
「…お父様、前に、お母様に何をしていたんですか？」
　不意に、慈雨ちゃんがそう言い出した。
「前？」
「はい」
　屈託の無い微笑。『前』とはいつのことだろうか。と僕は思ったものの、すぐに思い当たることが見つかったため、心底慌てた。
「お母様が、なんていうか、嬉しそうな声というか、悲鳴というか、区別がつかないような声でお父様を呼んでいた夜があったんです」
　きっと、夜中に目が覚めて玲依さんを呼ぼうとしたんだろう。偶然、僕たちは盗聴されたことになる。
「その話、お母さんにはしたの？」
「いいえ。次の日、お母様がなぜか嬉しそうでしたし、わたしが関わっちゃいけないことなのかな、と思ったものですから」
　おそらく、玲依さんはこのどこまでも幼い少女に、『女性の喜び』のあり方を教えてはいないだろう。そういった面でも、彼女は『少女』なのだ。
「それに、お母様、そのときもなんだか嬉しそうでした」
　目は見えなくても、心はやはり母娘なのだ。彼女は声だけで母親の気持ちを理解できるし、玲依さんも多分そうだろう。
「…わたしがされても、嬉しいことでしょうか？」
　腕の中の慈雨ちゃんに言われ、僕はどう答えていいのか迷った。安易に答えたら本気にしかねないし、かといって逃げる方法も見つからない。
　それに、彼女は好奇心が旺盛だ。外の世界に興味をもったくらいなのだから。

「わたしにも、お母様にしたことを、してくれますか？」
「そ、それは…」
　あの夜のどこからどこまでを、彼女が聴いていたのかは分からない。けれども、安易に『いいよ』なんて答えたら、この屈託の無い少女が、『性行為』に興味を持ちかねない。一度『行為』を教えたら、ひょっとすると『欲求不満』まで生まれるかもしれない。
　けれども、慈雨ちゃんの閉じた瞳は意志の強さをありありと描いていた。

　考えた挙句、僕は彼女の頬に唇を寄せた。軽く、触れただけ。
「んっ…？」
　一瞬驚いたような表情を見せたものの、彼女はすぐにまた満面に笑顔を浮かべた。僕から見ても宙に浮いて見える彼女の、とても不思議な光景だった。
「…何をされたかよく分からなかったですけど、でも、なんだかとても嬉しいです」
　どうやら、慈雨ちゃんは満足してくれたようだった。

　もう一度、慈雨ちゃんをベッドに座らせる。もうすぐ、玲依さんが慈雨ちゃんを見に来る時間になるのだ。
　不意に、柔らかな感触が僕の手に触れた。その気はなかったけれども、彼女の胸に触れてしまったらしい。
　少女は何も言わず、驚いたような顔をこちらに向けていたけれども、その可愛らしい姿に変わりはなかった。
　心は少女でも、見た目が小さくても、彼女はもう十八歳なのだ。

　僕は、今心底、頬への軽いキスで、彼女を満たすことができてよかった、と思う。でなければ、僕は彼女をその手にかけていたかもしれない。
　玲依さんや慈雨ちゃんが考えていることが事実ならば、慈雨ちゃんは僕の娘だ。絶対に間違いを起こすことは許されない。たとえ、慈雨ちゃんがそれを望んだとしても…。

　幸いにして、慈雨ちゃんの心が幼すぎた。そして、玲依さんが『女性の喜び』を教えていなかったことも感謝しなくてはならない。
（彼女を、守らなくてはならない…）
　なぜだかは分からないけれども、僕は使命感にも似た何かに突き動かされていた。他の人間にも、自分の目にさえも映らない僕が、目が見えないけれども、僕を感じることはできる少女を守ろうとしている。こっけいな話だと思う。

　玲依さんをやり過ごしてから、僕は再び廊下に出た。すると、廊下じゅうにどこからか声が響いた。電灯が消されたため暗い廊下に響いた声は、玲依さんの声だった。

　多分、慈雨ちゃんのためにつけられた、屋敷中に伝えることができるインターフォンを使っているのだろう。それほど大きい声ではなかったため、僕は耳を澄ます必要があった。

『…もう一度、抱きしめてください』

　締めの言葉を聞いたとき、僕は胸が熱くなった。同時に、なぜ僕が今の言葉を聞いて、理解できたのか。それも疑問だった。
　知らない言葉、言語だったのだ。

　聴いたことも無い言葉だというのに、僕の脳裏で自然に意味が理解され、流れ込んでくる。一文一文がいちいち違う言語で語られ、区切りに間が空けられる。そのころには、僕はもう、次の言葉を待っている。そんな状態だったのだ。

　ギリシャ語、ヒンドゥー語、タガログ語、ドイツ語、そして英語とイタリア語。これら全てが併用されていた。
　このすべてをペラペラ喋る玲依さんもすごい、と思ったけれども、僕はそれらすべてを理解していた。
　そして、玲依さんも、僕がそれらすべてを理解できると思って喋ったのだ。それは間違いなかった。

　玲依さんは、先ほどの放送の中で、最初に日本語で『わたしの部屋に来てください』と言っているものの、日時は言っていない。他の言葉を知らない人間ならば、『今すぐに』と取るのが逆に普通だ。
　ところが、その後、彼女はわざわざイタリア語で『明日の夜』と言っている。僕は、明らかに試されたのだ。

　僕は、彼女の夫なのだろうか？だが、なぜ玲依さんや、あの慈雨ちゃんを五年も放っておかなければならなかったのだろうか？僕には、そして僕自身にも分かりそうもなかった。

　僕は、明日夜に玲依さんを訪ねることにした。たとえ透明人間であることがバレたとしても構わない。僕が誰であろうとも、話は別だ。彼女の夫を騙る気もない。

　けれども、玲依さんを失う、あるいは嫌われる…それだけは、死にたくなるほどに嫌だった。